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2019年10月22日 (火)

No.231 : 昭和一桁生まれの読書遍歴 (10)

13. 「エッセイ・ノンフイクション など」

     エッセイ・随筆というと 「枕草子」 「徒然草」 「方丈記」   などを思い浮かべる方は多いかと思います。そんな古い話でなくても、近年の作家諸氏のエッセイは少なく有りません。日常生活や、市井の些事を採り上げて、鋭い指摘や機智に富んだ風刺を文章にする筆力には感心します。しかしながら、老生が好んで読むのは、理系人の作品です。一般の方々は、あまり馴染みがないようですが理系人で優れたエッセイを書かれる方は少なく有りません。
     例えば、寺田虎彦は東大教授の物理学者ですが、漱石門下の一人であり、科学者の眼から日常茶飯の事象にメスを入れたエッセイを発表しています。「天災は忘れた頃に来る」   と云う警句は教授の提唱に由来します。中谷宇吉郎は北大教授で低温物理学者ですが、雪の結晶の神秘を説くなど多くのエッセイが有ります。驚くべき事には、戦後の文藝春秋 復刊号1945年10月号に、"原子爆弾が一度成功したならば、他国も忽ち追随するであろう"   と予測した記事を発表していました。

     老生が最も好むには、佐貫亦男教授の作品です。教授は民間会社の技師、気象庁技官、東大教授を歴任した航空工学の専門家ですが、多くのエッセイ・啓蒙書を執筆しています。その中で、老生は 「発想のモザイク」   を最も愛読しました。その書は、先進国の民族性と技術開発への態度との相関を詳述しています。教授は  "微分特性" 、"積分特性"  などの数学の概念を採り入れて論じました。微分特性とは、変化に対して敏感に対応する性質を意味します、教授は  仏・伊・日 などは微分特性の顕著な民族である、としています。積分特性とは、事象の変化を或る期間にわたり積算して把握する性質を意味し、英・露 などは積分特性の民族である、と説いています。独は微分特性に近く、米は積分特性に近い由です。
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    たとえば、航空機の発明は米国でしたが、仏国は忽ち追いつき一時期は航空王国を築きましたし、伊国は高速機で先駆者となりました。もっとも、両国とも栄光は一過性でしたが。英・露国は必ずしも一番乗りをしなくとも、他国の動向を時間をかけて観察し、やおら着手して最後の勝利を得る、という流儀です。独・米国は多くの発明・開発をした実績を持つ国ですが、極端に微分的では無く持続性を持ち、さりとて後追いの積分的ではないようです。十分な自信を持ち右顧左眄しない、とも言えそうです。
           また、教授は欧州諸国のコトバの特徴に言及しています。英語はスペルと発音の関係が不規則であり、独語は名詞の性が難物で、仏語は格変化が複雑である、と指摘しています。そのコトバの特徴と民族性、さらには研究開発の姿勢との関連について論じています。老生の知る限り、このような3要素を関連付けて指摘した識者は居なかったように思います。
    教授は専門の航空機についても、優れたエッセイを発表しており、いわゆる "飛行機野郎"  からも高い人気を得ているようです。歴史に残る名機を採り上げ、開発の秘話、冒険飛行家の栄光や悲劇、戦場の勇者や前人未踏の記録飛行など、それなりに啓発される読み物です。
           教授は、科学博物館や図書館の重要性を指摘し、あるべき姿を提言しています。教授はその分野で独国の卓越性を称賛しています。すなわち、多年にわたる大量の科学技術資料の蓄積と、整然とした分類・保存、さらに必要に応じての検索の容易さと迅速性、これらのシステムは世界最高であると断じています。
    教授は数か国語に通じ、海外滞在・出張も多く、工学という実務系の方ですから、そのエッセイは文系識者の身辺雑記的なエッセイとは一味も二味も異なると感じます。

            糸川英夫教授が著した「逆転の発想」 も愛読書です。教授は飛行機の設計技師として、"隼" , "鍾馗"   などの名戦闘機の設計に関わり、戦後は医療機器を開発し、次いでロケット開発を先導しました。始めは "ペンシル・ロケット"   と称する玩具のような飛翔体から出発して世の関心を集め、政・官・産の要人に働きかけて資金を調達し、遂に種子島にロケット基地を建設するに至りました。学者・研究者の枠を超え,世期の大プロジェクトを推進したのです。
教授のエッセイは対象が広く、理工系の枠を超えて社会・経済・経営・社会などにも意表を突く見識を示しています。世の
文系識者の中には、理系人を専門バカと冷笑する人がいますが、糸川博士はそんな俗論を覆す人物と云えます。

            1990年、筒井康隆は 「文学部唯野教授」   を発表して話題になりました。小説の形式ですが、いわゆる内幕モノ  (ノンフイクション)   というジャンルに近い作品です。某私大・文学部教綬の実態を戯画化した作品で、教員間の出世競争・学会での勢力争い、等々を描き、一般社会から隔絶した奇人・変人であるとして、門外漢には殆ど知られなかった大学教授のを生態の一面を暴露した形になりました。もちろん、針小棒大の誇張も有ります。また、大学の学部の中では、最も実務に縁遠いと見られる文学部の世界をタネにしてますから、諸方から異論も出たようです。なお、この作品の半分ほどは唯野教授の文学論の講義で占められています。この内容は充実したものだそうですが、老生は評価する力を持ちません。
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    2011年には、今野 浩 教授の  「工学部ヒラノ教授」  なる書が現れました。著者は著名国立大の名誉教授であり、近年 話題に上る  "理財工学 (金融工学) "   のパイオニアです。著者の実体験をベースにしているので、前記の 「文学部・・・・」   に比して遥かに実像に迫ります。例えば理工系研究者 (またはその卵) の年間実働時間は3500時間にも及ぶという記述が有り思わず慄然とします。その世界で一目置かれるようになるには、査読をパスした研究論文を毎年発表しなければならず、そのための辛苦は門外漢の想像を超えるようです。
教授は別の著述で、「日本を技術大国にしたのは研究者・技術者の働きが大きく貢献したのにも関わらず、それに相応する待遇を受けていない。日本の高級官僚・経営層の殆どが文系 (法・経) で占められていて、彼らは理工系人士を人の好い働き手としか見ない」 と指摘しています。
さらに教授は 「モノ云わぬ
研究者・技術者の功績を周知させるための "語り部" になろう、と決心した」    とも記しています。
教授は、このような悲願を基にをして  「工学部ヒラノ教授」   を第一作として、次々と続編を著しています。それですから、教授の著作は 
「文学部唯野教授」   の亜流ではなく、況してや俗受けを狙った暴露本でも有りません。ネットを散見すると、教授の意図を察知しない輩の雑言を見かけます、残念な事です。

     1991年、鷲田小弥太教授は 「大学教授になる方法」   なる書を著して話題を巻き起こしました。安手のハウツウ本では有りませんが、そのような期待で読んだ人もかなり居たようです。内容は、S,A級大学の教授よりも、B級以下の大学の教授の実態に触れ、特別の英才でなくても然るべき努力を重ねれば、想応のポストを得ることは不可能ではない、と説いているようです。
然るべき努力とは、権威ある学会  (学者・研究者で構成する研究発表の組織)  に所属して、研究発表の実績を積む事、学会の有力者と面識を得る事、大学の人事異動情報に敏感な事などに要約できます。生え抜きの大学人には周知の話ですが、門外漢にとっては深窓の内部を覗き見た感じがしたようです。
この書の発刊以前にも、民間企業人から大学教授に転身した方はかなり居ます、その人々は工学
に多く、教授の説かれた諸条件は既に実行していました。かく云う老生も企業の研究所から私大に転職していました。

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     この書が契機になってか、亜流本が相次いで現われましたが、裏話を主とした興味本位の暴露本が多かったようです。教授の作は、暴露本ではなく実状を正しく伝えていたと思います。

14. 「その他、モロモロ」

   以上、老生の読書遍歴のついて駄文を書きなぐりましたが、それでも未だ書き落としもあるので、順序も脈絡もなく書き連ねます。

a. 教育者・児童文学者らの推薦する図書には、殆ど興味を持ちませんでした。彼等は、修身の教科書の記述にシュガーコートを被せたような物語や、海外の名作を子供向きに翻案した作品などを良書としたのです。少年倶楽部に連載されて読み耽ったような、探偵小説・冒険小説・軍事科学小説・少年講談の類はむしろ好ましからざる読み物の扱いでした。

b. 
推奨本の中には、"女流科学者・キュリー夫人" , "発明王・エジソン" , "細菌学者・野口英世" などの理系人の伝記などや、"フアーブルの昆虫記" , "ダーウインの進化論"  などの理系の分野も有りました。然しながら、工学・技術分野に直接に触れた解説書や啓蒙書は皆無でした。推薦者たちは理工系オンチの文系識者でした。

c. 雑誌 「子供の科学」 と創刊者の  "原田三夫"  の功績は高く評価されて然るべき、と老生は考えます。原田氏は創刊の辞で、理科教科書を易しく説明する、より高度の知識を伝える、模型工作を通じて興味を持たせる、と表明しています。
それまでの子供向けの理科系の書物は、動物・植物・天文・気象などの身近な自然をテーマにした記事が多かったのですが、この雑誌は 物理・化学・工学 (鉄道・船舶・航空機・ラジオ ) などの分野の記事も多く新鮮味が有りました。高度成長を支えた開発技術者のかなりの人数は、同誌の読者でした。

d. 1940年代後半、終戦直後の時代に「哲学ブーム」が有りました。西田幾太郎の「善の研究」、安倍次郎の「三太郎の日記」、三木清の「哲学入門」 などは大学生の必読書とされました。しかし、老生は馴染めず、直ぐに放擲してしまいました。

e. 高度成長期には、先端技術の開発物語が多数現れました。「プロジェクトX」、「匠の時代」、「日本の磁気記録器開発」、「電子立国日本」  等々。老生は帰宅後に夢中になって読み、ほとんど一晩で読了したものです。

f.    ある種の識者の中にはエッセイの中で、西欧文化を礼賛する方がいます。そうして、その背後には、"日本遅れたり"  と云いたい姿勢が見え隠れしています。よく云われる例では、 "各国の要人の集まるパーテイなどで、日本人は話題に乏しく、ビジネスと金の話しかしない。芸術や歴史の話を振られても、ロクな応答が出来ず教養ある紳士とは認められない"   と云う類の話です。
嘗て池田勇人首相が仏国首脳に会見した後で、その首脳は  "トランジスターのセールスマン"   と評したとか云ったという事で鬼の首を取ったかのように書き散らした似非識者がいました。老生は、このような態度の識者・評論家・コメンテーターを軽蔑します。彼等は経済大国・技術大国に至る過程では、何らの働きもせずもにその結果を享受し、しかも何かと批判がましいゴタクを並べるからです。

g。卒寿にもなると、さすがに意欲・気力・興味は減退します。既に最新高度の専門書はギブアップしています。図書館で借り出すのは短編の時代小説の類、裏読み的な歴史書、簡単な時事解説書ぐらいになりました。

                   <以上>

            

2019年10月17日 (木)

No.230 : 昭和一桁生まれの読書遍歴 (9)

12. 「文芸作品など」

    小学3年生の頃、夏目漱石やジョナサン・スウィフトなどの作品を読みましたが、その年齢層では面白いと感じて読み耽ったのは、雑誌「少年倶楽部」 に連載されていた読物でした。「山中峰太郎」 の "敵中横断三百里" , 「南洋一郎」 の "吠える密林" , 「海野十三」 の "浮かぶ飛行島" , 「江戸川乱歩」 の "妖怪博士" ,  「平田晋作」 の "昭和遊撃隊”   などで文字通り寝食を忘れるほどでした。幸いな事に、老生の母親は当時としては "教育ママ"  の傾向がありましたが、これらの本は文句を云わずに買ってくれました。
   1930年代でも 「少年少女世界名作集」 というようなシリーズ物が出版されていて、これを推薦する教育者・作家・評論家はかなり存在したようです。多くは、海外で名作とされた作品を子供向きにアレンジした
ものでした。記憶している作品は、「宝島」 「十五少年漂流記」 「トム・ソウヤーの冒険」 「小公子」 「アンクル・トムの小屋」 「母を尋ねて三千里」 「岩窟王」 などでした。これらの作品は、それなりのモノでしょうが、老生は  "冒険モノ"  に類する作品以外は好みませんでした。妙に説教的な作品や悲劇的な物語は (ハッピー・エンドに終わっても) 性に合いませんでした。
遥か後年になって、某著名作家が少年時の読書体験を語っていましたが、老生と同じような好みを表明していたので同好の士の存在を知り嬉しくなりました。
    上記の諸作家の中で、老生に大きく影響したのは、海野十三でした。氏はW大で電気工学を学び、旧逓信省・電気試験所で無線通信の研究を行った経歴を持つ異色の作家でした。氏の作品には、電送写真・監視用テレビジジョン・変話機 (今の自動通訳機)  などが登場します、今から80年も前の小説ですから、その先見性には驚きます。また、大戦末期の作品には "ウラン・エンジン"  なるコトバが登場します、云うまでもなく原子力機関です、原子力エネルギーの強大さに注目していたのです。老生が後年、電子技術の開発研究者の道に進んだのは、氏の作品に啓発された故と感じています。
氏は 「日本SFの父」 とも讃えられますが、文壇における位置付けは必ずしも高くないようです。しかしながら高度成長を支えた技術者には、氏の作品に魅了されて進路を決めた人は少なく無かったと思われます。

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            1942年に中学校 (旧制) に進学しました。教科書の体裁、印刷書体、文字の大きさ、内容などが一変し、一種のカルチュア・ショックを受けました。国語の教科書の文章は、古今の名作から採ったものが多かったのですが、その中に尾崎紅葉の作品 「金色夜叉」  のワンカットが有りました。
主人公の間貫一が傷心の身をを癒すために塩原へ旅立つシーンの一節です。"車は馳せ、景は移り、堺は転じ、客は改まれど、貫一はかわらざる憂鬱を抱き、やるせなき・・・・・・"   なる一文です。リズム感のある流れるような文章です。この時、教員は原作の大要を口頭で説明して呉れましたが、何んとなく歯切れの悪い印象を受けました。
そこで老生は、全文を読みました。貫一の許嫁であったお宮が、資産家の道楽息子に見染められて結婚し、貫一は裏切られた形になり、絶望して学業を捨て高利貸に転身して、世の仕組みに復讐を図る、という粗筋でした。確かに、部分的には名文であっても、全体として見れば、教育的には好ましからざる作品という意見も有ったと思われます。全文を読むに際し、辞書を引いたり、年長者に聞いたりしました。

    夏目漱石の作品は、殆ど全作品を読みました。「坊ちゃん」 と 「吾輩は猫である」  は既に小学生の時に読みましたが、他は中学生以降です。老生が好んだのは 「三四郎」  でした。九州から上京して東大生となった三四郎を中心とした小説ですが、物理学者の野々宮さん、偉大なる暗闇の異名を奉られた廣田先生を巡る人生模様は一種の憧れでした。「硝子戸の中」  は漱石の生い立ちに絡むエッセイですが、漱石の生誕地や晩年の住居についての記述が有ります、老生の少年時および社会人になった折の住居が近かったので興味を引きました。漱石の 「こころ」  は高校の教科書に記載されているようですが、長文の一部を切り取って登場人物の心理をあれこれと忖度するような近時の読書指導には賛成しかねます。
「それから」  は明治から大正期の知識人の生き方に触れた作品のようですが、老生は違和感を覚えました。主人公の代助は、高等教育を受けながら職に就かず、親と兄から生活費を貰い、門構えの家に住み,婆やと書生を雇って生活しています。しかも、以前の級友が生活のために働いているのを冷笑しているようなポーズをとります。そうして、働かないのは社会が悪いからだと嘯きます。それなりの主張が有るのでしょうが、大学をやっと卒業した日から一家の生計の中心になった老生から見れば、何んとも別世界の住人の感が有りました。
こんなわけで、老生は初期の作品には惹かれますが、後期の作品は馴染めませんでした。
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     その他の作品としては、幸田露伴の 「五重の塔」、内田百閒の 「阿呆列車」、島崎藤村の 「破戒」、谷崎潤一郎の 「痴人の愛】 「蓼食う虫」 「鍵」、菊池寛の「真珠夫人」、川端康成の「雪国」  等々を乱読しましたが、その内容は殆ど忘れてしまいました。

     以上は、学生期の読書です、社会人になってからは難解な専門書の読解に忙殺されて、大衆娯楽小説しか読まなくなりました。"オール読物","週刊新潮"   あたりに連載もしくは短編読み切りの時代小説が対象になりました。その中では、五味康介の作品が出色のものと感じました。長編 「柳生武芸帳」  は、多数の剣士が登場しする波乱万丈のストーリーで、夢中になって読みました。残念な事に未完のまま中断し、かなりの休筆期間の後で続編と称した 「柳生石舟斎」  も数回で中断したきりになりました。
他に柴田錬三郎の諸短編も愛読しました。
それ以前は岡本綺堂の 「半七捕物帖」  や  野村胡堂の 「銭形平次捕物帖」  などにも熱中しました。
その一方で、老生は芥川賞作品の類はあまり興味を感じませんでした。

     社会人の生活に馴れるに従い,読書の様式も変化しました。数時間かけて集中的に一気読みする様式から、空き時間に拾い読みをするスタイルに変わりました。それに応じて好みも変化しました。城山三郎・司馬遼太郎・吉村昭・松本清張・南条範夫・高木彬光 などの作品が馴染みやすかったようです。
     特に好んだのは、吉村昭の作品です。氏は東京生まれ東京育ちで年齢も老生と大差ないようです。氏の作品傾倒するのは、理工系の研究者・開発者の生態・心情を活写している事です。「零式戦闘機」 は、海軍からの無理難題を抱えて苦悩する堀越二郎の苦闘を描き、"試験飛行に飛び立つ試作機が単なる無機物ではなく、生命を吹き込まれた生き物のように感じられる・・・・” と云う意味の記述もあります。開発技術者の末席にいた老生は、この章を何度も読み返しました。「戦艦武蔵」   は長崎造船所のおける建艦の様相を詳述し、専門技師を驚かせたと云われます。「白い航跡」   は、海軍軍医であった高木兼寛が、当時多発した兵士の脚気に関して、食事に問題在りと見当をつけ、改良した食事を遠洋航海の兵士に与え、見事解決した経過を詳述しています。これは、実質的にはビタミンBの発見でした。
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     司馬遼太郎の作品は 「坂の上の雲」  や「竜馬が行く」  などの司馬史観が顕著な作品が著名ですが、初期の忍者モノや戦国時代後期から江戸幕府創成期に至る覇者の角逐を描いた作品も楽しんで読みました。高木彬光は工学部出身の作家で、「成吉思汗の秘密」 「耶馬台国の秘密」  という異色の作品が有ります。前著は衣川で自害したとされる源義経が大陸に逃れて成吉思汗になったという伝説を裏付けるストーリー、後著は歴史家の間でも論争の絶えない耶馬台国論争に明快な断定を下しました。もとより、小説であって、正統的な歴史家は黙殺したようですが、この作品を読む限りでは、なるほどそうかと思わせる説得力があります。
     

                    <以下次号>

 

2019年10月10日 (木)

No.229 : 昭和一桁生まれの読書遍歴 (8)

11. 「知的生産・資料管理に関わる本」

    1969年、「知的生産の技術」  なる新書版の書物が話題になりました。著者は梅棹忠夫教授でした。その書の冒頭に、「研究者・評論家・文筆家などが論文・作品を創造するのに際し、資料の収集・管理を如何に行うか、また、事務用品や器具をどのように活用するか、という事も殆ど知られていない。それ故、各自が手探りで自分なりのノウハウを編み出しているようである。この書では、著者
の経験や手法を公開し、各位の参考に供するものである」 という趣旨を示しています。
    老生も卒業研究の遂行に際し、先輩の手法を見習うと共に自分なりの方式を工夫したものです。例えば、実験データーを記入したA4版方眼紙の左端に2穴パンチで穴を開けて、バインダーに綴じ込む、という簡単な作業でも、各人それぞれのノウハウが有ります。先輩に見習いつつも自分なりの手法を定着させた時には、研究者の世界に一歩踏み込めた気分になったものです。
    この書物の主張は  "京大型カード"  の紹介と活用法です。B6 版のハガキぐらいの厚さで粗い横線を印刷したカードに、断片的な情報や着想を書き込みケースに分類・収納する、それを絶えず目を通す事により、次第にアイデイアが集約され知的作品の種が生まれる
というのがミソです。この手法は、ルーズ・リーフの利用に似ていますが、B6版サイズの方が持ち歩き易い、ある程度の厚みがあるとパラパラと捲り易い、などのメリットが有ると説いています。また、カード1枚には1項目の記載を原則とする。B5版のルーズ・リーフだと、1枚に1項目は勿体ない気がして、つい数項目を記載してしまうが、これだと後で検索しにくい、とも指摘しています。
この手法は、かなり普及しました。老生の職場でもカード・ケースを共用して、それに各人が日々得た情報や着想を書き込んだカードを投入するような指示が出ました。メンバーは随時カードに目を通して業務に活用しようとしたのです。恐らく、他の事業体も同様な試行をしたと思われます。
           この書は、フアイリング・キャビネトやフラット・フアイルなどの道具立てについても言及しています。例えば勤務先や関係団体や官公庁からの通知などは、項目別のフラット・フアイルに挟み込み、それをキャビネットに収納する事を推奨しています。フアイルは綴じ込み式でなく、挟み込み式の方が使い勝手が良いと説いています。この種の書簡・通知の類は一過性の事が多く、用済みになれば廃棄するからです。
    この書は、従来は各人が自己流に処理してきた 「知的生産」  のための技法を公開したという意味で、画期的なモノと思われます。もちろん、この書に示された手法が唯一無二の正解ではありません。しかしながら、この後で多くの諸賢が自分の手法に言及しましたが、基本的な考え方は大同小異のように思われました。

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    前後して、川喜田二郎教授は 「発想法・KJ 法」  を著しました。これは、ある問題の解決に際し、関連しするコトバを紙片に書き、それを床に並べて何度も概観する、その中で関連のありそうな紙片を纏めてグループ名を付す、さらにグループ相互の関連を考察する、という手順で解決策を見出す手法です。米国から伝わった 「ブレーン・ストーミング」 の変形とも見なせます。差異は、ブレーン・ストーミングが数人で行われるのに比し、"KJ 法"  は1人でも行い得る、という事でしょう。

           立花隆は  "知の巨人" と称されるほど多方面にわたる執筆活動をしていますが、そのノウハウを語っています。氏はテーマを決めると、先ず資料集めにかかりますが、それには十数万円の資金と書物集めの籠を準備するそうです。それを持って神田の書店街に行き、これは、と思う書物を見つけると片端から籠に入れて購入するそうです。この際に購入するのは、初歩的な入門書・大学のテキスト的な本・高度の専門書だそうです。帰宅してからは、それらを読破して、その分野の全体像を把握し、その上で高度な専門論文を読み専門家と面談する、と云います。
別に資料の整理法としは、厚手の "A4版パイプ・フアイル"  に台紙を綴じ込み、それに新聞・雑誌・などの切り抜きを張り付けるそうです。このサイズだと、新聞1頁大でも折り畳んで貼れるメリットが有ります。台紙1頁に1件を原則とし、小さな記事でも1頁を占有させ、混在は避けます。
氏の大作 「日本共産党研究」 や「 臨死体験」  などの執筆に際し、活用したそうです。収集し資料のパイプ・フアイルは数十冊に達したそうです。

            野口悠紀雄教授は 「超整理法」 を著して、"整理しない整理法"   を提唱しました。必要な時に所要の資料が取り出せればよいので、分類整理そのものに手間暇かける事はない、と云う発想から生まれたそうです。一定サイズの封筒に資料を入れ、日付けと題目を記載し、その封筒を日付け順に並べる、その際、新しい資料は左側に配置する。また、右側に在る以前の資料でも参照したら最左端に置く。これを繰り返すと使用頻度の高い資料は自然に左端に集まる事になります。
この手法のミソは  "ヒトの記憶は年月とリンクしやすい"、 と想定しているように思われます。
その後、教授は同様な考え方をパソコンに適用した手法を提唱しています。

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           知的生活の第一人者と云えば、渡部昇一教授でしょう。教授は多くの著作が有りますが、一貫した主張は、「生涯の研究テーマに関わる書籍・資料は生活費を切詰めても座右に置くべきだ」  という事だと思います。教授は、手元に資料を置く重要性を説きます。図書館が整備されていても、ネットが即時性を持っていても、手元の印刷資料の方が有効適切である、との由です。教授は個人図書館というほどの設備を自力で造られました。教授は、一般市民層でも知的生活を志すならば、自己の書斎を持つべきだと唱え、試案を示しています。

    以上の諸賢の著作は、現在のように  "IT 機材"  が普及していなかった時代の提案でしたが、基本的な考えは、現代こそ活用すべきでしょう。一代の碩学が永年の試行錯誤を経て編み出したノウハウを上回る手法を身近に容易に得られる時代です。

                 <以下次号>

 

 

2019年10月 4日 (金)

No.228 :昭和一桁生まれの読書遍歴 (7)

10. 「管理・経営・未来予測の書物が氾濫」

         1950年代半ばに「品質管理」と云う概念と技法が米国より伝えられました。戦時中に国産兵器のバラツキに悩まされた苦い経験に鑑みて防衛庁が真っ先に導入しました。この流れは民間企業にも波及し、各社は担当部署を新設しました。とは云うものの、五里霧中の手探りでした。この分野の提唱者である  "W.E.Deming 博士"  の書が参照されましたが、博士は統計学者なので、統計的手法がかなりのウエイトを占めていました。そのために "標準偏差"  とか  "信頼区間"  など、馴染みの無い専門用語が頻発して閉口した人が多かったようです。また、通読しても、「抜き取り検査の結果を統計処理するすれば、全数検査を省略できる」などと誤解・即断した方もいたようです。
   しばらくして、日本では  "Total Quality Control"  という活動が起こりました。「品質を創り込む」 という
スローガンが唱えられ、全国の企業に普及しました。計画・設計・製造・検査・販売・サービスの各段階で綿密に、"Plan-Do-Check-Action"   を実行し、総合的に高品質・高均質性を実現する、という活動です。各職場ごとに 「自発的にQC サークルを結成し、職位・職種に捉われずに問題を発見し、改善提案を行い、かつ実行する」  という運動でした。この結果、日本製品は高品質との評価が世界的に定着しました。しかしながら、今日的な労働観から見ると、自発的とは云いながら、サービス残業を提供させた事になります。また、ボトム・アップに頼り管理層は無為に過ごすのか、という批判も生じました。その故か、現在では QC サークル活動は低調のように感じます。

   次いで 「経営学」 ブームが起こりました。"P.F.Dracker 教授"   の著書が紹介され、その亜流や解説書が氾濫しました。例えば、某大出版社が刊行した 「経営学入門」  はベスト・セラーになりました。著者は気鋭の研究者という触れ込みでした。当初は、この流れに対して、実働第一線のビジネスマンは批判的な人が多かったようです。そもそも経営とは、能力も意欲も有り、多くの経験と激しい競争を経てトップの座についた人々が行う業務であって、中間管理職かそれ以下の人々には無縁の仕事と思われていたからです。それが、このブームに依って、ミドル層もそれなりの経営的なセンスと発想を磨かねばならぬ、と啓発されたのです。退社後の飲み会での話題も、単なる上役の悪口から、経営方針への批判にグレードアップしました。
   1967年には、「水平思考」 なる書物が話題になりました。著者は  "E.De Bono 教授"   です。問題を考える際に、在来的な視点ではなく、別の角度から見ろ、というのが論旨のようです。題名そのものが既に水平思考の産物でしょう。
   1979年には、"Ezra. Vogel"  著の  "JAPAN AS  NO.1"   が話題になりました。日本の GNP が世界トップを争うようになった頃でした。日本の製造業の躍進の要因を分析し、米国では何故できないのか? と云うのが主題のようですが、題名に釣られて日本でも訳書が広く読まれました。
         1980年には、"The Third Wave"  が話題になりました。著者は "Alvin Toffler"  でした。内容は、人類は狩猟採取の時代から農業革命を経て工業革命に達し、今や情報革命に移行しつつある、という事です。各革命期に際し、その波に乗り遅れた人々が社会の底辺に沈むという警告は衝撃を与えました。

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         1985年には、堺屋太一が  「知価革命」  を著しました。多くの生産物の価格は材料費・労務費・利益で定まるが、さらに知恵の価値が多く組み込まれるようになる、と云う主張です。例えば、"音楽CD"  の場合、CD盤のコスト、ミュージシヤンの出演料は当然ですが、作詞家・作曲家の印税も加算されます。この印税が知価に相当します。衣服のデザイン料もそうです。堺屋氏の主張は、あらゆる製品で、"コストに知価の占める割合が増加する"  と云うわけです。自動車や電子機器のような工業製品でも、外形デザインだけでなく特許料や設計・製造ノウハウなどの知価が詰まっています。敷衍すれば、「機能だけの工業製品は途上国に追い付かれる、先進国は知価を採り入れた製品で付加価値を稼がねばならない」 と云う事でしょう。

           <以下次号>

2019年9月26日 (木)

No.227 : 昭和一桁生まれの読書遍歴 (6)

9. 「現役技術者時代」

   10年程も "超短波移動無線機"  および  "測定検査法"  の仕事をやり、そこそこの中堅技術者には成りましたが、その頃から大きな技術革新の波が押し寄せ始めました。1950年に導入・国産化された超短波移動無線システムは通信方式としては30年間も殆ど変わりませんでした。活性素子が真空管から半導体に変わったのは画期的でしたが、方式の変化は無かったのです。
その方式とは、1ユーザーに1周波数を割り当てる、中央基地局に対して多数の移動局が所属する、基地局からの一斉指令的な通報に対し該当する移動局が応答する、基地局からの通信範囲は30 km 程度、有線電話系には接続しない、というのが特徴です。具体例としては、警察署と傘下のパトカー、消防署と傘下の消防車・救急車、タクシー会社の配車指令所と傘下のタクシー、などがあります。

          そのようなシステムを襲った大波は、有線通信と無線通信を統合した通信システムの提唱です。元来、「通信システムの理想」 は 「いつでも、どこでも、だれとでも、交信できる」  とされて来ました。先に運営された有線通信は交換技術や海底ケーブルの発達により、「いつでも、だれとでも」  の条件は達成できましたが、「どこでも」 の条件は不可能でした。飛行機・艦船・鉄道・自動車などで移動している相手とは交信できません。いや、徒歩で移動しているケースでも無理です。一方、遅れて開発された無線通信は、クリアできますが、「だれとでも (特定の相手を指定)」  は困難です。
          社会の進歩・変遷に伴い、有線・無線を統合して 「いつでも、どこでも、だれ
とでも」  可能な通信方式が望まれる気運が到来しました。日米欧の有力機関は一斉に研究開発に乗り出しました。結論的には、ほぼ同一方式に収斂しました。日本は1970年の大阪万国博覧会に  「ワイヤレス・テレホン」  として携帯電話の原型を展示して話題となりました。これを契機として携帯電話  (自動車電話を含む)  は世界に広まりましたが、そこで開発された技術は従来からの移動数信系にも大きな影響を与えました。

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   その第一は  "マルチ・チャンネル・アクセス"   の考えです。複数のユーザー群に対し複数の周波数を共用させるシステムで、交信に際し空きチャンネルを探して回線を形成する方式です。この手法で限られた周波数を有効に使用できますが、そのための一連の動作は機器に内蔵したコンピューターにより自動的に行なう機能が必要です。
   その第二は、"デイジタル技術"   の導入です。空きチャンネルを探し、それを見つけたら直ちに送信機・受信機をそのチャネンネルに設定する制御指令はすべて  "デイジタル符号"  の送受で行います。そのための技法が必要になりました。さらに、デイジタル符号は  "0"   と "1"   の2種類だけで構成しますから簡単だと思われた時期がありましたが、実は雑音の影響を受けやすく、いわゆる  "符号化け"   を生じて、情報が全く違ってしまうケースが有るのです。その対策として高度の数学理論を駆使して自動的に誤り訂正をする 「符号理論」  という学術分野が生まれました。
   上記の2項目の他にも幾つかの目新しい技術が導入され、在来の移動通信技術者にとっては、「黒船の襲来」 でした。しかも、総合的なテキストは存在せず、速報的かつ部分的な論文を散見するのみでした。この時、老生らが頼りにした情報源は、「米国電気電子学会 (Institute of Electric and Electronic Enginiers ) 」 の論文誌でした。それも "ICC"  や "VTS"  などの分科会の会報という速報的な資料でした。老生は数回にわたり渡米して分科会に参加して資料
を集めました。これらの資料は、発行部数が少ない簡素な小冊子なので、機会を失すると入手困難です。国内ではは郵政大臣の諮問機関である  「電波技術審議会・第二部会・第四小委員会」   が検討していました。老生は関係方面に働きかけ、専門委員に任命されて参画しました。
   このような情報収集を介して痛感したのは、"Give and Take"   の現実です。こちらが相応の情報提供できれば、相手からも相当の情報を得られる、というわけです。内外の委員会・研究会では各社のエキスパートと侃々諤々の討議を行いましたが、散会の後では三々五々に喫茶店に集い、そこでも情報戦を展開しました。
       
   技術者は常に座右に 「ハンドブック」 と云う書物を置き、絶えず参照しながら業務を進めます。これは、その分野に関わる知識をる集約した本で、上手く使いこなせれば一人前の技術者と云われました。老生が愛用したのは   "通信工学大鑑"   というモノで、1944年の刊行です。既に太平洋戦争は敗色濃厚となった時期ですが、日本の通信工学の集大成と云うべき大冊でした。大御所・八木秀次博士が監修して多数の研究者・技術者が執筆しました。老生は無線工学を専門としましたが、時には有線工学の知識を必要としました、そんな時には有力な資料でした。戦時下においても、総力を挙げれば、このような書物を編纂できたのです。当時、これほど内容の豊富な類書は他国には無かったと思います。
   海外書で多用したのは、"Radiotron Designeer's Handbook" でした。電子管王国を誇った米国RCA 社の編纂したハンドブックでした。この書は電子管そのものの記述は詳しいのですが、回路設計についてはラジオ受信機が主で、テレビジヨンや超短波無線機などの記載は殆どなく、老生にとっては期待外れの感がありました。
他に "Reference Data for Radio Engineer"  という書物が有りました。米国 ITT 社 (国際電信電話)    の編纂になるモノで、マイクロ波にも及ぶ広範は内容でした。しかし、それでも回路設計者を満足させるには十分では有りませんでした。

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   電子回路技術者は、"役に立つ" 設計資料を渇望しています。回路例が示されていても、その回路定数が如何にして決めるか? と云う疑問です。基礎的なテキストは動作原理を解説しても回路定数の選定については明示していません。ハウツウ的な実務書は天下り的に実例を記すだけです。上記した "ハンドブック"  の類も、具体的に回路設計をするには無力でした。 
その実情を指摘し、設計 (回路定数算定) に役立つと宣言した著作が遂に現れました。「ラジオ設計工学」とっ銘打った書で、著者は高橋良氏でした。この書は比較的簡単な数式や、定規を当てれば良い計算図表を多数記載していました。ただし、対象をラジオ受信機に限定していました。老生の専門は超短波無線機でしたので、この書を参考にして自力で設計公式や計算図表を創り使用しました。
蛇足を云うと、その頃はパソコンもプロッターも有りません。手回し計算機と計算尺および算盤で計算し、計算図表は手書きでした。例として無線機に多用される複同調回路を設計するのに使用する特性曲線の図を示しました。
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                                                                 <以下次号>

 

                

 

 

2019年9月16日 (月)

No.226 :昭和一桁生まれの読書遍歴 (5)

7. 「 大学生時代 」

    老生の時代の者は、小学生から大学生に至るまで、学制変更の連続でした。老生が小学校に入学した時点では、小学6年→中学5年→高校3年→大学3年 計17年でした。それが、大学卒業の時点では、小学6年→中学3年→高校3年→大学4年 計16年になっていました。
         その間には、種々の細い経緯がありますが、それは省略して大学生時代に話を移します。老生は某私大の理工学部に進学しました、専攻は 「電気通信」 です。当時の先端技術でした。進学したものの、大学は戦災を受け、窓ガラスは破れ、スチーム暖房は働かず、実験設備の大半は焼失と云う惨状でした。辛うじて教授の講義は続けられましたが、教科書などは無く、口述と板書による授業でした。理系の授業には、数式や図面は欠かせませんが、当時は OHP や PC による投影などは有りません。先輩の助手たちが多大の労力を費やして創ってくれた手書きのガリ版刷り (謄写印刷) 資料が頼りでした。
         その一方で学生は、戦前・戦中に刊行された教科書・専門書を古書店などで探し出して筆写しました。数人でで手分けして作業したのです。全文を洩れなく写すには時間が有りませんから、抜き書きです。また、図や写真はトレース用紙に描き写しました。当時はコピー機などは皆無でした。なお、対象にした書物には、かなりの海賊版も有りました。これは戦時下の情報断絶状態でも、第三国を迂回したり、占領地で押収した技術書が有り、それを大量に複製して軍機関などに配布したもののようです。
記憶している例では、"Ballow's Table" ,  "Yannke-Emde's Funnction Table"  などです。
         4年次になると卒業研究が課せられます。自らテーマを設定して研究・実験を行い、何らかの結論に至るまでを報告書にまとめるノルマです。そのためには、最新・最高の資料を読み、比較検討して問題を発見するのが第一歩です。その 「タネ探し」 が既に難問です。身近な資料では陳腐なテーマしか浮かばないからです。当時、米占領軍は各地に  「 CIE 図書館 」  を設けていました、占領政策の一環として米国文化を日本市民に周知させる意図があったのでしょう。その中には最新の理工系書籍が有りました。これを知った学生は日参して資料を筆写しました。
   この図書館には学生だけでなく、中堅の学者・研究者・技術者の姿が見られました。その姿を見て、若輩の我々もエキサイトさせられたものです。老生らが夢中になったのは、米国・マサセチューセッツ工科大学・放射線研究所の編纂に成る 「マイクロ波工学シリーズ」 でした。全28巻と云う膨大な叢書で、この分野のバイブルとされました。そのシリーズの中で最も多く読まれたのは、"マイクロ波技術" , "パルス技術" , "デイスプレイ技術"  だったようです。
   1950年代になると、漸く新刊の理工系図書が出版されるようになりました。記憶しているのは、共立出版の 「通信工学講座」 です。30巻ほどの大部でしたが、老生は乏しい資金をやりくりして、全巻を揃えました。老生は無線工学を専攻したので、有線工学などの書を開く機会は殆ど有りませんでした。それでも、ズラリと並ぶ背文字を眺めていると、一種の知的高揚感を得たものです。
   修教社からは「高周波科学論叢」なるシリーズの刊行が予告されました。計画では日本中の権威者を総動員し、数十冊に及ぶ大部のシリーズになる計画でした。しかしながら、僅かに数冊を出したのみで挫折してしまいました。この中の 「超高周波電子管」 は、老生の卒業研究のタネ本になりました。

8.  「 新米技術者の時代 」

    老生が企業に就職したのは1952年です。戦後7年を経て、産業界もようやく活気を取り戻しつつあった時期でした。入社した会社はラジオ受信機の生産を主力とし、別に警察用の車載無線機を手掛けていましたが、テレビジヨン放送が開始される情勢にあって、テレビ受信機の研究開発も推進していました。
    老生は無線機部門に配属されて、超短波 FM 移動無線機の研究開発に携わりました。この分野は米国では1940年代にほぼ完成した技術でしたが、日本では1950年に導入されました。この技術導入は米占領軍の強い示唆が有りました。パトカーを増強し、それに車載無線機を搭載して、機動力を持たせよ、との勧告です。国は産・官・学を動員して車載無線機国産化プロジェクトを推進しました。この時、米軍からは、1台のサンプル機器と1冊のマニュアルを貸与されました。これを前にして、十数人の研究会メンバーは、幕末に杉田玄白らがオランダの解剖学書  「ターヘル・アナトミア」  の翻訳に四苦八苦した経過を記した   「蘭学事始め」    と同様の苦労を重ねていました。
老生は駆け出しの新米技術者でしたから、研究会に参加するなどは思いもよらず、出席した上司の持ち帰った宿題を処理するのに忙殺されました。この時期な勉強したのは下記に3冊でした。
 ”周波数変調" : 八木秀次   監修、林龍雄・前田憲一  共著
 "超短波移動無線" :  染谷 勲 著
 "周波数変調" :  フント 著, 坂本捷房 訳  
これらは、読み応えのある名著でしたが、原理・原則を中心とした記述であって、機器を設計するための手法は示していません。書物からエッセンスを読み取り、具体化のための設計図を作成するのは、技師の手腕・力量に依ります。例えば書物に示された理論式から、使い勝手の良い
計算図表や数表を自ら作成し、それをベースにして設計を進めるのです。さらに云うならば工業製品としての完成度、耐久性、整備性、などは全く設計者個人の経験・力量に左右されます。

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    やや遅れてテレビジヨンの勉強も必要になりました。この分野は在来の音声伝送を主体とした無線通信技術とは、かなり飛躍したものでした。伝送する映像信号の帯域は音声信号に比して1000倍以上も広い上に、同期信号を含む複合信号です。また、放送電波は波長の短い超短波でした。この分野のテキストは下記の3冊が定番とされました。 
 "Television Engineerinng"  Fink 著
 "Theory and Design of Television Receivers"  Deutch 著
   "テレビジヨン受像機の設計”   テレビジヨン学会編
これらの書物の内容は、大学では全く習わなかったので、その理解は容易では有りませんでした。一方で世の中には「アマチュア無線雑誌」というカテゴリの雑誌が数種出版されていましたが、
これらの雑誌記事は、細かい理論は棚上げして、ハウ・トウに徹していましたから, 手っ取り早く試作実験を行うには役に立ちました。
   
とは云っても大学卒の技師の卵のプライドからすると、このような資料に全面的に頼りたくはありません。このような心境にある者にとって、頼りがいのある資料は米誌 "electronics" と "RCA Review" でした。両誌とも高度な最新の情報を判りやすく解説していました。特に、前誌には有用な設計チャートが毎号掲載されていました。後誌は電子王国を誇った RCA 社の機関誌で、実用的な回路を多く紹介していました。

         テレビの次の革新技術はトランジスターでした。それまでの電子回路の主役である真空管に代わる活性素子として登場しました。小型・軽量・低消費電力・長寿命・高耐G性などの特徴は魅力的でしたが、その動作を理解するには半導体物理学の知識が無いと使いこなせない、と云われました。そこで話題になったのは、下記の資料でした。
   "Electron and Holes in Semi-Conductors"
この書物は早速「海賊版」が現れ、大学・研究機関・メーカーなどで輪講が行われました。ただし、結果から見ると、大学理学部物理学科を例外として、殆どのグループは挫折したようです。特にメーカー系は早々にギヴアップしました。実用機器の設計に関して,迂遠な気がしたからです。
         次いで、下記の書物が現れました。
   "Principle of Transistor Circuit"
この書は、トランジスターをブラック・ボックスとして扱った最初のテキストだったと思います。真空管回路のベテランも馴染みやすい記述でした。

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   職場での問題は、上司の殆どが真空管をトランジスターに簡単に置換できると即断した事です。活性素子と云う意味
では同等ですが、有効に使いこなすには別のノウハウを積み上げる必要が有ったのです。例えば、温度特性がデリケートである、高周波では使えない、大電力を処理できない、などの弱点です。これらの弱点は次第に改善されましたが、完成の域に達していた多極真空管には及びませんでした。それを、回路の工夫で補うわけですが、実務から離れた上司は、なかなか納得して呉れませんでした。

                                           <以下次号>

 


   

 

 

 

 

 

 

  

 

                

 

2019年9月 9日 (月)

No.225 :昭和一桁生まれの読書遍歴 (4)

5. 「海外作品への開眼」

   旧制中学の2・3年生ともなると、海外作品が話題に上るようになります。それまでは、「少年倶楽部」  等の探偵小説や冒険小説を夢中になって読んでいた連中が一転して欧米の現代小説を手にするのです。その読書傾向は、コナン・ドイルやエドガー・アラン・ポーなどの探偵小説や、モーパッサンやゾラなどの人生・社会を描いた作品、さらにトルストイやドストエフスキーなどの深刻な長編作品などに大別されたように思えます。このような読書対象の変化は、大人の世界への背伸びだったと思われます。
   そもそも、海外作品を読むのには、その社会や時代の人情・風俗・習慣などを把握していないと、理解・鑑賞は出来ませんが、その知識が不十分のまま読むので、読みこなせたか否か怪しいものでした。それでも、友人どうしで話し合ったり、大人に聞いたりして読み進めました。

         コナン・ドイルの 「シャーロック・ホムズ物語シリーズ」 を初めて読んだ時には、かなりの違和感が有りました。それは、上流階級の人士が殺人犯・詐欺犯・性犯罪者として登場するケースが少なくない事でした。モリアーテイ教授・シャーロット博士などです。もう一つは、英国ロンドンが舞台でもインド人・アメリカ人・南米人などが登場する事でした。成人して多少は世の中を知るようになって、そのような疑問は氷解しましたが。
         モーパッサンの 「女の一生」 やバルビュスの 「地獄」 などは思春期の悪童どもの話題になりました。"ベッド・シーン"  の記述が有ったからです。現代の感覚では淡泊な描写ですが、1940年頃から以前のセンスではかなり刺激的だったと記憶します。

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   その頃の中学校には風紀取締が厳しく、所持品の一斉検査が不意に行われました。この時に上記のような書物が見つかると大騒ぎになったものでした。女性をテーマにした軟弱な読み物として排撃され、所持者は不良少年扱いされました。それでも、生徒間の回し読みは続きました。
         1944年、中学3年生の頃になると、戦況は悪化し学徒勤労動員令が下りました。軍需工場へ駆出され、兵器の生産に従事させられたのです。無論、学校に於ける授業は棚上げです。このような状況下でも、怪しげなガリ版刷りの文書が出回りました。殆どが今日でいうポルノ小説の類、それも抜き書きでしたが、10歳代後半の男子にとっては衝撃的でした。同級生の中には医師の子息や花街の経営者の息子もいて、得意げに解説をしました。ところが、軍需工場の中には憲兵が絶えず巡回していて、時に摘発される椿事が起こりました。憲兵の任務は軍組織内部の不正を取締るのが本務でしたが、大戦末期には市民の厭戦気分・生活態度にも目を光らせるようになりました。前線では兵士が血を流しているのに、学生どもは軟弱なポルノに夢中のなるとは何事か!!  と云うわけです。そんな時、中学校の教員は憲兵に平身低頭して、表沙汰になるのを防いだようです。

6. 「戦時下から敗戦直後」

   1944年、敗色濃厚になり、空襲が迫りつつあった時に疎開が半強制的に執行されました。学童・老人は郊外や地方に移住させられました。それに伴い都市防衛のために残る成人も家財や貴重品を地方在住の知人宅に預けました。その時期に大量の書物が古書店に売却されたのです。
        大正末期から昭和初期に「明治大正文学全集」「世界文学全集」 と銘打った大部の文学全集が刊行され、知識層の家庭の応接間や書斎を飾りました。老生は友人宅で見せられて別世界を見る想いがしたものです。しかし、戦時下の疎開騒ぎに際し、重く嵩張る文学全集などを地方に移送するなどの余裕は無く,止むを得ず古書店に捨て売りしたのです。引き取る古書店にしても、買い手が付くより前に戦災で失うリスクがありました。老生は行き付けの店で「江戸川乱歩全集」を見つけ、何とかして買いたいと思っていましたが間もなくその店も老生宅も空襲で焼失してしまいました。
   東京・神田の古書店街は幸いに戦災を免れました。それで、かなりに書物が残りました、ただし価格は高騰しました。敗戦後の食糧難・住宅難は厳しかったのですが、それでも書物を読み知識・教養を得ようとする人々は少なく無かったのです。
   出版社は、焼失を免れた戦前の紙型を探し出して出版を再開しました。哲学・左翼思想・ロシア文学などが人気でした。哲学・思想・学芸・文学などの出版で著名な I 書店は神田神保町交差点近くに在りましたが,間欠的に名著の再版本を売り出しました。発売日が予告されると、当日の早朝から長蛇の列が出来ました。老生も数回は行列に並びました。ところが、行列する人々の中には転売を目的とする人もいました。どのような書物でも I 書店の出版であれば、数倍の価格で転売されたのです。行列に並んで買った本が、直ぐに古書店に高く売れたのです。換言すれば、行列に並んだ人の中には書物の内容が何であろうと I 書店の本であれば、高く売れるという狙いの人が少なく無かったのです。戦後の混乱期における特異現象でした。
   このようなプロセスを経ながらも、出版界は徐々に立ち直って行きました。とは云うものの、経営体力が伴わず、刊行半ばに挫折した計画は少なくなかったのです。老生の記憶では、夏目漱石、トルストイ、スタンダール、ロマン・ローラン、ドストエフスキー 等の全集モノが多かったようです。さらに蛇足を云うならば、戦後の混乱期では著作権などを無視した、一発屋と云われる怪しげな業者が少なく無かったのです。
 

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図は雑誌「文芸春秋」の戦後復活版第一号の再版本の表紙です。話がややこしくなりますが、先ず、戦後復活版として1945年10月号として発行されました、その後1995年10月号の綴じ込み付録として再刊されたのです。新聞用紙を転用し八つ折・64頁の簡素なものでした。製本はしておらず、折り畳んだだけでした。
   それでも、目次をには 「原子爆弾雑話」 「非文化非合理への反省」 「未曾有の痛棒」 「愛しき国土」 など、各界の権威の論説・エッセイが並んでいました。どの文も正鵠を射てはいますが、自虐的な論調もかなり有ったように感じます。これは、当時としては止むを得なかったと思いますが、その流れは今日でも続いているように感じます。
   多くの名論卓説の中で、今でも読み返して驚くのは、中谷宇吉郎教授の論説です。教授は原爆も一度実現されれば、間もなく他国でも製造出来るであろう、と云う指摘と長距離ロケット弾への搭載の可能性への言及です。この予想は的中しました。数年後のソ連邦、現在の北朝鮮などが実証したのです。

               <以下次号>

 


       

2019年9月 4日 (水)

No.224 :昭和一桁生まれの読書遍歴 (3)

5. 「 飛行機オタク・軍艦オタク・鉄道オタク 」

   小学上級生になると、 「飛行機」 「軍艦」 「鉄道車両」  などの ”型名” , "外観" , "性能"  などに興味を持つようになり,その分野の雑誌・書籍を集めて読み耽りました。その種の出版物は青年層を対象にしているようで、小学生には少々難しい箇所もありました。クラスには数名の同好の士がいて、互いに知識を競いあう雰囲気があったので頑張りました。
        幾つも有った雑誌の中で記憶に残るのは、「海と空」 「航空朝日」 でした。前者は世界各国の軍艦・軍用機を鮮明な写真で紹介し、併せて特徴・性能などを解説していました。おそらく、日本帝國海軍の後押しが有ったのでしょう。各国とも軍備に関わる詳細は極秘とされていたのですが、一方では自国の軍備の威力を誇示して、いわゆる "抑止効果" を狙うという流れも有りました。
   
この雑誌のある号で、日本海軍の "一式陸上攻撃機の尾部銃座" が明瞭に写っている写真が掲載されました。この記事は飛行機オタクの間では大きな話題になりました。と云うのは、それまでの日本の双発爆撃機・攻撃機は後尾の武装が弱く、後方からの攻撃を受けて被害が少なく無いという噂が流れていたのです。その弱点が解消されたと、この写真は示唆したからです。忖度するならば海軍は、巷の一部に流れる噂を消すために、このような写真を発表したのでしょう。飛行機オタクを介して、この情報は一般人へも拡散しました。

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        後者は朝日新聞社の刊行で戦時の数年間しか存在しませんでたが、老生は多くの知見を得ました。この雑誌は広範な情報収集に特長が有りました。例えば太平洋戦争の後半に出現して日本軍を悩ませた "グラマン F6F ヘルキャット"   の詳細な図面や特徴を詳記していました。また、"悪魔の翼 B29 超空の要塞” の気密室構造の図解も掲載されました。これらは米軍の極秘資料ですが、どのような経路で入手したのか、新聞社の情報収集力には驚きます。
   この雑誌の執筆者は、軍の技術将校、航空機製造会社の技師、大学の研究者などが執筆していて、かなりアカデミックな傾向が有りました。捕獲した米英の軍用機の性能調査や構造分析は詳細を極め、専門 の学術誌に近い内容でした。この雑誌を読み、"翼面荷重" 、"馬力過重" 、"巡航速度" 、"砲口馬力"   などの用語を知りましたし、"空戦性能と翼面荷重の関係" 、"空冷エンジンと水冷エンジンの得失"    なども理解しました。
   老生は1942年に中学に進学しました、その当時は正規の授業として軍事教練がありました。ところが軍より派遣された教官より、クラスに数人いた飛行機オタクの方が軍用機の知識は豊富でした。仲間が集まると教官の知識不足・時代遅れぶりを慨嘆したものです。
   書物では、「
ジェーンの海軍年鑑」  の日本版が有りました。これは、元来は英国の出版物で世界各国の海軍艦艇の写真・データを集大成したモノで、大英帝国の情報収集能力の実力を見せつける資料でした。無論、日本海軍の艦艇も掲載されていました。日本版はその縮小版でしたが、英・米・日・を始め仏・独・伊から弱小国に至るまで網羅していました。蛇足を云うならば、日本版はいわゆる海賊版だったと思われます。老生は座右に置き、主要な記述は殆ど暗記しました。
この年鑑
の大戦末期の版には 「大和」 「武蔵」 も記載されていたそうです。日本では極秘扱いで海軍士官でも存在すら知らなかった、と云われています、英国の諜報機関の卓越を示す挿話です。

   国内の英少年向きの書物には、「われ等、若し戦はば」 「われ等の陸海軍」 「われ等の海戦史」 「新兵器と科学戦」 などが在りました。
   「われ等、若し戦はば」 は一種の未来戦記です、ソ連および米国を仮想敵国とした展開でした。老生の記憶では、対ソ戦ではソ連空軍の帝都空襲、それも毒ガス攻撃を生々しく記されていました。対米戦では、米大艦隊が輪形陣   ( 戦艦・空母などの主力艦を中心に配置し、その周辺を巡洋艦・駆逐艦などの小型・高速の艦艇で固める陣形 )   を組み、太平洋を西進して来るのを小笠原諸島近海日本連合艦隊が迎撃するという図式でした。対ソ戦も対米戦も、多大の困難を超えて最後の勝利を得るというパターンでした。
   この種の書物は、敵味方の軍事力が記されていましたが、数値的には日本は常に劣勢でした。それでも、"最後の勝利は我に在り"、 というストーリーは、精神力を過大に評価し期待したのでしょう。さらに特筆したいのは、"日本は資源小国である"    との記述です。後年の南方進出を暗示していたのでしょうか。

   鉄道車両については、雑誌 「科学と模型」 「子供の科学」 および模型店の発行する小冊子などで知識を得ました。今日のような専門の雑誌は無かったのです。

   後年になって、往時の探求心と記憶力に我ながら感心します。もっとも、そのエネルギーを学業に向けたならば、別の人生があったかもしれませんが ? 
                                             <以下次号>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019年9月 1日 (日)

No.223 : 昭和一桁生まれの読書遍歴 (2)

4. 「少年倶楽部」 「子供の科学」 の衝撃

   小4の頃、友人の家で雑誌  「少年倶楽部」  を見る機会が有り、"世の中には、こんなに面白い読物があるのか"   と思いました。江戸川乱歩の探偵小説、海野十三の軍事科学小説、南洋一郎の冒険小説、平田晋作の海軍小説、佐藤紅緑の立身物語、吉川英治の時代小説、佐々木邦のユーモア小説など、が満載されていたのです。早速、親に頼んで買ってもらい、文字どおり寝食を忘れて読み耽りました。それらの作品はかなり高度なもので、そのストーリーの面白さとともに、百科事典的な知識  (主として科学知識)  も得られました。
        この雑誌は小学館発行の学習雑誌とは、全く異なる編集方針のようでした。つまり、成人向きの娯楽雑誌  「講談倶楽部」  「キング」  「富士」    等を少年向きにしたような感じでした。それですから面白い事は確かですが、夢中になり過ぎると、学業に影響したかもしれません。老生はそんな事もなく、受験勉強もこなして、難関と云われた東京府立のナンバースクールに合格しました。
   中学に入学して学友ができると、生徒に2種類の類型が有る事に気が付きました。それは、多方面の読書をした博学多識で好奇心に強いタイプと、受験勉強に専念して教科書・参考書だけしか知らぬタイプでした。このような性向は、社会人になっても変わらぬようで、前者は管理的業務、後者は専門的業務に就いているようです。

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   もう一つの発見は  「子供の科学」  でした。小学校上級生及び中学生を対象にした科学啓蒙誌で、かなり高度な内容を易しく解説すると共に、天体観測・昆虫採集・植物採集・鉱物採集などの実技、さらに模型工作  ( 飛行機・鉄道・船舶 など )  の記事が売りでした。この雑誌の内容は、小中学校の理科の教科書よりも範囲が広く、レベルも高いものでした。
   老生が特に惹かれたのは、山北藤一郎が毎号のように執筆していた電気模型の製作記事でした。それを読んだ老生は、学校で習う前に   "フアラデーの電磁法則"   を知り、応用として  "電磁石" 、"電信機" 、"電動機"   などを自作しました。1940年頃ですが、当時は模型材料店などは東京・大阪でも数店しか有りませんでしたから部品・材料の入手には苦労しした。また、金属材料が主でしたから手持ちの工具だけでは、加工・細工が困難で、様々な工夫もしました。
   後年、老生が大学で通信工学を専攻した時、級友の大半は  「子供の科学」  を愛読し、山北藤一郎の模型製作記事に熱中したと語りました。さらに卒業して勤務した電機メーカーの技師の殆どが、老生と同様の経験を経ていました。してみると、1960年代の技術革新・高度成長の中心人材は、「子供科学」  により育てられた、と云えそうです。
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上左図は山北藤一郎氏,上右図は氏の著書の表紙です。氏は模型少年の憧れの的でした。また、氏は多く模型の関わる書籍を著しましたが、この書物はその一例です。

       老生は、大学では “電気通信工学” を学び、某電機メーカーに就職しました。ここで最初に与えられた仕事は、無線機器の電源回路の設計でした。交流100v の電力線から、無線機を動作させるのに必要な高圧直流および低圧交流を得るための変圧器および整流回路が必要になります。新米の老生は変圧器の設計を命じられました。この時に、老生は山北氏の著書を参照して、30分ほど計算尺を操作して解を得ました。大学で電気機械の講義は有りましたが、理論や大型機器の構造が主で、小型変圧器の設計法は無かったのです。山北氏の著書には、模型用小型変圧器の簡易設計法が記載されていて、それが実用器材にも立派に通用したのです。
   山北氏は模型界では著名人でしたが、一般社会では無名の人でした。また、「子供の科学」 を創刊した原田三夫氏も知る人は少なかったと思われます。このような先覚者の業績は高く評価すべきだと思います。
                <以下次号>

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年8月28日 (水)

No.222 : 昭和一桁生まれの読書遍歴 (1)


1. 幼少時の読書事始め

     確かな記憶は有りませんが、老生の2歳上の姉が小学校に入学した時に一緒に行き、教室の最前列に机を与えられて、一緒に授業を受けました。1933年のことでした。学齢には達していなかったのですが、その当時は黙認されていたのでしょう。そのおかげで、カタカナは直ぐに覚え、自分で絵本ぐらいは読めるようになりました。それが、老生の読書遍歴の始めでした。
  それ以前は母親に 
"絵本"  や  "お伽噺の本"  を読んでもらっていたのですが、とにかく自分で読めるという事が嬉しかったと記憶しています。その当時 「幼稚園」 という月刊誌が有り、それを買ってもらって、拾い読みが習慣になりました。

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 上左図は雑誌「幼稚園」、 上左図は「小学二年生」の表紙です。ただし、老生が読んだのはもっと古いモノです。
   
  やがて、自身が小学生になって読書対象は 「小学一年生」→「小学二年生」→「小学三年生」 とランクアップして行きました。この頃の雑誌は漢字に ”振り仮名” が併記してあるので、かなり難しいコトバでも読めました、その意味は母親に聞いていました。この雑誌は学習雑誌と銘打っていて、教科書(国定)に沿った説明や問題解法にかなりのページを割いていました。それだけに、
小説などの読物は少なかったようです。
   小学2年生の時、怪我により数ヶ月間も病床に伏した時期が有りました。この時、母親が 「発明発見物語」 なる本を買って呉れました。この書物には、ダイナマイトを発明したノーベル、電球など多数の発明をした
エジソン、放射能を発見したキュリー夫妻、オリザニン(ビタミンB) を発見した鈴木梅太郎、テレビジョンを開発した山本忠興・川原田政太郎・高柳健次郎、らの業績が記載されていました。小学生には相当に難しい内容でしたが、何んとか読破したのみならず、その後の進路に大きく影響を受けました。即ち長じて理工系大学に学び、電子技術の研究開発者になったのです。
   この書物の著者は記憶していませんが、発行は講談社でした。菊版と云われるやや大型のサイズでした。戦災により焼失してしまったので、後年になって古書店を探し回ったのですが見つからず、国立国会図書館を検索しましたが、在りませんでした。同名の書物は見つかるのですが、老生の読んだモノとは違いました。80年も前の本ですし、その間には戦災もあって現存しないのでしょう。

2. 文学作品に触れ始めて

   小学3年生の頃、某名門校の音楽教授である伯父から 「ガリバー旅行記」 を与えられました。これは世に多い子供向きの翻案モノではなく、ジョナサン・スウイフト の原作の翻訳本でした。物語の大要は既に知っていましたが、成人対象の翻訳でしたから、意味が解らない語句が多々あり、その度に母親に訊きました。例えば   "大臣の椅子" 、 "自然の要求"  などでした。 この書によって、大人社会の権謀術数の片鱗を知ったように思います。
   さらに、夏目漱石の作品 「坊ちゃん」 「吾輩は猫である」 も与えられました。前者は子供でも大筋は掴めましたし、個々の記述もそれなりに理解したと思います。細かくいうと、やはり母親に訊いたコトバも有ります。例えば  "マドンナ" 、 "野だいこ" 、"湯島の陰間"  ,  "遊廓"   などで、今にして思うと母親を困惑させたようです。後者は始めて始めて読んだ時に、「これは小説か?」 と思いました。それまでの読書経験では、小説とは発端から大団円に至る波乱万丈の物語である、と思い込んでいたからです。とは云っても、軽妙な文章、鋭い文明批評に触れて大人の文芸作品と感じ取り、自分も大人の世界に踏み込んだものだ、と感じました。
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上左図は「ガリバー旅行記」、上右図は「吾輩は猫である」の表紙です。老生が読んだのは以前の版ですが。

3. 歌舞伎の脚本集・落語全集などを読む

   老生の母親は歌舞伎鑑賞が好きで、その脚本集が有りました。
また、父親は落語を好み寄席にも通っていたので、その全集も有りました。これらの書物も片端から読みまくりました。歌舞伎も落語も一昔以上も前の物語であり、成人の世情が舞台です。10歳そこそこの子供に全貌が判る筈はないのですが、既に活字中毒になりかかっていた老生は、「盲人蛇に怖じず」 という調子で読みした。

   ここでも、いろんなコトバを知りました。例えば、"惣領の甚六" ,  "放蕩息子" ,"勘当" 、"居候" ,  "花魁"   などで、例により母親を困らせたようです。さらに、「不義は御家の御法度」「重ねておいて四つに・・・」 に至っては絶句させたに違いないでしょう。何んとも早熟な小学生でした。

   しかしながら、母親はこの種の本を読むのを禁じませんでした。母親は今でいう「教育ママ」でしたが、受験勉強を強いるタイプでは無かったのです。時の小学校教育は、"教科書至上主義"   が主流だったようで、老生の通った小学校の校長はその分野の有力者でした。その校長は学習雑誌さえも排撃しました、況して小説・物語・雑学の類は禁書扱いで、父兄会の折に好ましからざる旨を力説していたそうです。そのような風潮のなかでも母親は別の見識を持っていたようです。当時、情操教育を主張する別派の教育者の一群も居て、そちらの意見に好意を抱いていたようでした。

              <以下次号>

 

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