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2019年7月14日 (日)

No.219 :隣の芝生は青い 、一知半解の思い込み (1)

1.   「隣の芝生は青い」

  上記のコトバは日常生活でかなり頻繁に使われます。自分の生活環境に比して他人のそれが、より良く感じられる、という意味でしょう。ヒトは誰でも無意識に自他を比較して一喜一憂する性向があるようです。それが、個人レベルに止まっているならば実害は少ないでしょうが、国家の政治思想や社会体制の比較・批判に及ぶと、時に大きな影響を与えるケースも少なくないようです。


2.    「東洋のスイスたれ」

  1945年に日本に占領軍総司令官として赴任した米軍・マッカサー元帥は、日本国民に進路として 「東洋のスイスたれ・・・・」  と折に触れて示唆しました。当時、日本の国土は焼土と化し、産業・経済は壊滅状態に在りました。陸海軍は解体され、治安維持に当たる警察は非力でした。このような混乱期にマッカーサー元帥は一つの指針を明示したのです。
  元帥の意図が奈辺に在ったかは不明ですが、敢えて忖度すれば、「スイスは  "永世中立の国"  を標榜し、諸外国も承認している、日本もそうすべきではないか?」  という意味だったと思われます。日本の為政者・識者の多くも、そのように受け取りました。そうして、多くの言論人が賛意を表しました。
  この時に、故意か偶然か、或いは意図的にか、"非武装"  というコトバが紛れ込みました。つまり、「非武装・永世中立」  の国と錯覚し、少なからざる論者が 「日本もそうなるべきだ」  と自説を展開しました。

  しかし、スイスは  "非武装"   国家では有りません。レッキとした  "国民皆兵"   の制度を堅持しています。成年男子は自宅に  "小銃・弾薬"   を保管し、有事の際にはそれで武装して前線に駆け付けます。さらに、定期的に  "射撃訓練"   が義務付けられています。また、各家庭では、1年分の   "食糧ストック"  が義務化されています。さらに驚くべきは  "核シェルター"   が要所には設置されています。
  それですから、山紫水明の観光地として、或いはアルプスの娘
ハイジの故郷としてのイメージとは裏腹の  "ハリネズミ的武装国家"   なのです。さらに云うなれば優秀な武器製造の国でも有ります。スイス・エリコン社が開発した "機関砲"  は各国が購入またはライセンス生産しました。日本海軍の名機  "零式艦上戦闘機"   が搭載した  "20ミリ機関砲”   もそうでした。
また、米ソがミサイル開発を争っていた時期に、スイスは独自の  "地対空ミサイル"   を発表して世界を驚かせた実績も有ります。
  要すれば、スイスの 「永世中立」 は強力な軍備により保たれているのです。その実態を見落としたのか、故意に触れなかったのか、日本は 「非武装・中立」  で行こう
という論を力説した論客は多数いました。
実態を正視せず、自説に都合の良い一面のみを採り上げる 「一知半解」  の姿勢は、「隣の芝生は青い」  という発言に似通っているのではないでしょうか?


3.   「米国では、学歴は重視されない、大卒でなくても出世できる」

  米軍が日本を占領した折に、主要官庁の幹部を調査して殆どが東大法学部卒である事を知り,一驚したと当時の新聞は報じました。その記事では、「逓信省  (今の "NTT" に相当)  や鐡道省  ( 今の "JR" に相当 )  のような現業を扱う官庁を何故  "法学士"  が支配するのか?」 との疑問を呈した、と書かれていました。この記事は、かなり話題になり、多くの論者が敷衍して意見を展開しました。
  その多くは、「日本の主要な組織では、東大法学部を頂点とする有力大学を卒業していないと幹部にはなれない。一方、米国では大学卒でなくても、実力と努力で高い地位に就ける。現に歴代大統領でも有力大学卒は多くない。大企業の経営層も同様である。
日本も米国にならうべきだ」 というような趣旨でした。

      その論説の多くは充分な調査も検討もせずに、思い込みを敷衍したお粗末なものでした。米国の歴史は浅く移民の国でしたから、社会制度が未整備未であった時期には、「強い者勝ち」 の傾向が有ったと思われます。カッコ良く云えば「実力主義」 ですが、悪くとれば「弱肉強食」」 とも云えます。大統領にも大企業経営者にも、いわゆる「たたき上げ」 が幾らもいました。
       しかしながら社会体制が整うにつれて、それを管理運営するには相応の学識が求められて来ます。換言すれば、高学歴者が幹部候補として遇せられ、その中から幹部・首脳が輩出します。低学歴でも努力と運により社会の上層部に昇り着くという  "
アメリカン・ドリームの時代"  は過去の夢物語となりました。
       米国でシリコン・バレーを中心に半導体分野の成功者が続出した時期に、「大学で電子工学を修め、大学院で "MBA" (経営学修士) の学位を得るのが成功への道だ」と云われたそうです。これは、一種の学歴信仰ではないでしょうか? また、米軍の最高幹部には修士号の学位を持つ人が少なく無い、とも伝えられています。

       主題の説が喧伝されたのは数十年前の事ですから、現在とは相当に乖離があると考えられますが、その頃でも「実力と努力があれば、高学歴でなくとも社会で成功し得る」との説は伝説化していたと思われます。それを喧伝した人士は、どこまで実態を把握していたのでしょうか?


4.  「日本の大学入試は地獄と云われる程の過酷な一発勝負だが、海外では誰でも好む大学に進める」

   このような論説は、一時期に横行しました。論者は、特にドイツやフランスを採り上げました。しかしながら、比較的早い時期に大学進学コース・専門学校進学コース・実社会に進むコース、の振り分けが行われて行われている実態を見落としていたようです。
         ドイツでは満11歳で試験が有り、その成績に応じて "ギムナジウム",  "リアル・シュール",  "ハウプトシュール”  と振り分けられるそうです。"ギムナジウム"  は大学進学を目指し大卒後は社会のエリート層を期待される人材が入ります。"リアル・シュール"  は専門学校をを経て、中堅ホワイトカラー層を狙う人が進みます。”ハウプトシュール"  は卒業後に実社会に出てブルーカラーになります。
"ギムナジウム"  の卒業試験をパスすれば "アビトウール"  という大学入学資格が得られ原則的には、どこの大学にも入学できるそうです。この制度では、資格獲得者数と大学入学定員がバランスしているという前提です。換言すれば、11歳の時点で選別されているから、大学入試で選抜は起こらないのです。
   とは云っても、医学部・法学部などは希望者が多いので、”ギムナジウム"  での成績如何では希望が叶えられないケースも有るそうです。

   フランスでは、高校卒業に際して、大学入学資格である "バカロレア" を獲得するのが前提だそうです。この試験には哲学の論述試験が課せられるので有名です。この記述は4時間にも及ぶそうです。しかし、これを得れば、希望の大学に入れる筈だそうです。とは云っても希望者の多い学部では何らかの選抜が有るそうです。
   また、フランスでは "グランゼコール"  という超エリート校が数校在って、この卒業生は若くして指導的立場に立つそうです。その入試と在学時の研鑽は非常に厳しいそうです。

   英国は、元来が階級社会ですから、私立名門校進学については家柄・出身がモノを云うようです。また、国公立の場合は、11歳試験による選別があるようです。

   以上、先進各国は、細部の差異はあっても、11~12歳ぐらいの時点で学業成績による "振り分け" は実施しています。これは当然であって、指導層層・管理層はそれなりの学識と判断力・企画力などが求められ、それには相応の素質のある者に教育・訓練をする必要が有るからです。
   身も蓋もない言い方をするならば、素質も能力も欠ける人々に高等教育を授けようとしても、成果は期待できません。その "振り分け"  を11~12歳ぐらいで行うのが妥当であるか否かは議論のわかれる処ですが、欧州諸国では永年にわたり実施しているようです。

   日本では、「分数計算の出来ない、パーセントを理解しない、英語の進行形現在や過去完了がわからな、・・・・・大学生」が溢れています。日本では11歳試験に該当する選別がなく、大学入試が結果的には選別に近い機能を果たしていますが、それは "Sクラス" , "Aクラス"  の大学のみです。それ以下の大学になると次第に怪しくなり、”Fランク"  ともなると、自分の姓名を正しく書ければ入学できる、とさえ囁かれてえるそうです。

 

 

 

 

 

 

   
  

               < 未 完 >

2019年6月14日 (金)

No.218 : 日本産業の衰退に想う (6)

 「八つ当たり的妄言多々」

1. 「自分探し・フリーターの蔓延」

  何時の頃からか、「自分探し・・・・」  なるコトバが現れ、無責任な疑似言論人の発言が相次ぎました。高度成長の恩恵で市民生活は豊かになり、正業に就かなくても不定期のアルバイトで、そこそこの日常生活が保てるようになりました。その故か、官公庁・企業などの束縛の多い職場を嫌い、気ままなアルバイトで生活費を稼ぎ、自分の好む趣味・嗜好に没頭するのが有意義な人生の過ごし方である、という風潮が生じました。老生が勤務した企業でも、そのような人は何人か在職していました。その中の一人は、シーズンになると長期休暇を取って海外の名峰にアタックしていました。むろん、企業内での昇進・昇格は始めから放棄していました、昇給・賞与の査定は最低でした。ご当人は、それが生き甲斐なので、それなりに割り切っていたようです。通常の勤務態度は真面目でしたから、周囲の同僚も許容していました。
  しかしながら、このような風潮の蔓延は社会の経済活力を減殺する方に働くのは否定できません。疑似識者は、「自分探し・・・・」  「自己に忠実な生きかた・・・・」  などと、カッコ良いコトバを連発して前途ある若者を惑わし、延いては経済成長にブレーキを掛けたのです。

 

2. 「 "産業戦士" から "社畜" へ」

  高度成長期には、大量の若い労働力が地方から工業地域に集められ、大いに活躍しました。彼らは  "金の卵"  と称され、やがて一人前の  ”産業戦士”  に育ちました。当時は  "猛烈社員"  と云うコトバが現れ、"24時間、戦えますか"  などと云う栄養剤のキャッチ・コピーが流行りました。
ところが、1990年頃に  "社畜"  という不愉快極まるコトバが広まりました。企業に飼いならされて、経営者の云うがままに無批判に馬車馬のように働く勤労者を指す侮辱的な表現です。高名な評論家が多用しました、評論家氏は経営者側への警告・苦言を意図した発言であって、勤労者を貶める意図ではない、と釈明
しました。
   しかし、このコトバは勤労者の意欲を低下させました。海外から、「 "うさぎ小屋" に棲む働き中毒の奴ら」  と云う悪罵を投げかけられた時には黙殺しましたが、今度は違いました。国内の身内からの論難・冷笑と受け取ったのです。勤労意欲は低下し、経済活動が停滞する引き金になったと思われます。

3.   「研究開発者は冷遇される」

  先に記した  "プロジェクトX"  等の中心人物は、前人未到の成功を収めた後でどのように処遇されたでしょうか? 明確に示した資料は少ないようですが、断片的に探ってみると組織内での地位や報酬で充分に恵まれた例は少ないようです。
      例えば青色発光ダイオードの開発でノーベル賞を得た "中村修二博士" は、当初2万円ほどの報奨金を得たに過ぎませんでした。この発明の事業化により、勤務先の 「日亜化学子業」  は地方の中小企業から一躍有名企業に成長しましたが、 "中村博士" への見返りはゼロに
近い微少なものでした。後に "中村博士" は訴訟を起こし200憶円を要求して世に衝撃を与えましたが、結果として8憶円ほどの和解金を得たに過ぎません。遂に博士は米国の大学教授に転身し、国籍も変えました。
"中村博士" は米国の研究者仲間から "Slave Nakamura (奴隷の中村)"  と同情やら揶揄を受けたそうです。
  実は、日本企業では、"企業内の職務に基く発明・特許の権利は企業に属する"  という慣習が有ったのです。老生が就職したのは60年も前ですが、上記のような内容の誓約書を書かされました。(契約書では有りません。)  近時の情報では特許法を改正して、相応の対価を発明者に支払った上で権利は企業に属すると明記されるそうです。この改正案が施行されて、事態が幾らかでも好転するのを期待したいものです。
  "中村博士" のケースは超大型テーマであり、博士自身も積極的に活動したので、紆余曲折を経て最終的には相応の名誉・地位・報酬を得ましたが、大部分の  "プロジェクトX"  の主役は、僅少の報奨金 (一時金) と中間管理職ぐらいのポストで定年を迎えたようです。それどころか、定年間際には
"金の卵" を期待できなくなったとして、閑職に追いやられた例も皆無ではないようです。
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上記左図は "中村博士" の著書、右図はこれまで殆ど知られていなかった理系人の実態を詳述した著作です。どちらも、開発者 (理系人) が仕事の質・量および成果に比して処遇は恵まれない、と強調しています。

 

4. 「成長を懐疑的に捉える言説」

  1972年に "ロ-マ・クラブ" が発表した 「成長の限界」 という報告書は, 世界に衝撃を与えました。その要旨は、世界の経済生長が何時までも続くとすれば、資源が枯渇し、環境が汚染され、この地球上に何時まで人類が生存し得るか、という問題提起です。この報告書は世界各国に流布し、識者によるは啓蒙的な解説が氾濫しました。
  これより以前に日本では高度経済成長を批判した 「くたばれGNP」  などの論説も有りましたが、その内容は、"環境汚染"  と  "過重労働"   の2点から論じたもので、"資源の有限性"  には触れていなかったようです。ローマ・クラブの報告書は  "資源の枯渇"  と云う視点を重視したのが画期的でした。

  この報告書に触発されたのか、経済生長を懐疑的に見る論説・論評・エッセイの類が雨後の筍のように現れました。その多くは 「成長の限界」 の亜流でしたが、中には脱線して技術革新そのものを否定するような粗っぽい説を説く人も現われました。
   例えば、ある作家はデジタル社会を論難し、「誰も頼まないのに、IT オタクが次々と新しい機器やシステムを押し付けて来る」  
と記しました。この作家氏は原稿を手書きするのでしょうか? そうだとしても、出版社側で行う査読・校正・割付・レイアウトには情報技術が使われています。さらに印刷・製本・出荷・販売管理などもデジタル機器が行います。作家諸氏への原稿料・印税の計算・送金もデジタル技術で処理します。このような一連の処理を全く考えた事が無いのでしょうか? ちなみに、この作家氏は米アップル社の創業者を  「小才の利いた男に過ぎぬ」  と切り捨てました。
  このような説を唱える識者 (特に文芸系)  は技術革新の恩恵は黙って享受し、気に入らぬ面は声高に罵倒する傾向が有ります。困った事に彼等は発言・発表の場を持ちますから、市民層に技術革新を批判するだけでなく、否定するような風潮が生まれます。民主党の有力者が 「事業仕分け」 とやらでスーパーコンピュータの開発にブレーキを掛け 「2番ではダメなのか」 と云う大愚問を発して顰蹙を買った例も有ります。

5.  「大局観と総合判断力」

  文系識者の或る方々は、文系人は理系人に比して 「大局観と総合判断力に勝る」   と主張します。しかしながら、その論拠は明示されていません。彼等は、主要産業の経営幹部の経歴・業績を精査して理系出身か文系出身か、どのような経営判断をして、どれほどの業績を挙げたか、というデータは示していません。ただし、上記のような粗雑な論を云う方は文系識者の中でも文芸系の方のようで、経済・経営系の方々はこんな迷論は云いません。
      例えば、世界的企業である  "ソニー"  の創業者の井深大氏は、町工場的な存在に過ぎなかった東京通信業の社長でしたが、
トランジスタの国産化を当時の監督官庁の難色を押し切って断行し、次いでトランジスタ・ラジオ、ウオークマンなどのヒット商品を世界中に広めました。氏はレッキとした理系人です。氏は、後に文化勲章の栄誉に輝き、早大からは名誉学位を授けられました。他にも傑出した理系事業者に、ホンダ自動車の創業者である本田宗一郎氏、京セラの創業者の稲盛和夫氏らの人材がいます。松下電器を世界企業に成長させた松下幸之助氏は米タイム誌に、事業家だけでなく哲学者としても紹介されました。
      文系人で、革新技術分野で業績が明らかなのは、正力松太郎氏ぐらいではないでしょうか? 氏は読売新聞・職業野球などの実績を持っていましたが、”民間テレビ放送"  という分野を立ち上げました。氏は創業に際し、国産機材の整備を待たずに、輸入機材で開業しました。当時、批判は多かったのですが、氏は 「
とにかく、テレビ放送事業を立ち上げるのが先決だ、機器の国内生産などは追い付いて来る」  という発想だったのでしょう。これは氏の大局観による総合判断でした。
      また、ナイロンの国産化に関して、東レ(株)では社内技術が完成間近でしたが、敢えて米デユポン社に高額のライセンス料を払って技術導入を図りました。経営首脳は、デユポン社のネームバリューと先行した実績を買ったのです。事業としては大成功でした、経営首脳 の総合判断の勝利と云えます。
上2例のように文系首脳による「大局観に基く総合判断」が成功した事例は有ります。しかしながら、2例とも海外に前例が有りました。前例も類似例も無い場合はどうでしょうか?

   先に記した  "GAFA"  のケースなどは如何でしょうか? その創業者は、「教養 (文系) を深めた」人材ではなく、「大局観に基く総合判断」 で意志決定をして成功を収めたわけでは有りません。彼等は、自己のアイデアに賭け前人未踏の分野に突進したのです。彼等の創始したビジネスには前例も類似例も無かったのです。前例や類似例のある分野ならば、自社の経営資源 (ヒト・カネ・モノ) と市場・販路などを勘案して 「大局観に基く総合判断」 を推進るのは、さほどの難事ではないでしょう。既成の組織であれば、役員会の決定という 「責任の分散」 も有り得ます。
   日本では、残念ながら  "GAFA"  の創始者のような人材を認め、支援するような組織も風土も充分では無いようです。一部の文系識者は、"哲学・文学・芸術・歴史・・・・・
科学などを広範に詰め込んだ人材"   が 「大局観を備え総合判断に基いて未来を指向するリーダーになる」  と力説しますが、老生は甚だしい違和感を持ちます。そのような人材は、それなりに貴重な存在ですが、未踏分野に的確な判断が下せるとは期待できないと考えます。
                <以上>

 

2019年5月25日 (土)

No.217 :日本産業の衰退に想う (5)

「続・"プロジェクトX" の時代は終わったか」

     テレビが "プロジェクトX" などの番組で、世の関心を集めていた頃に、ノンフイクション作家・評論家らによる先端技術開発の物語が幾つか発表されました。著者は、田原総一郎・柳田邦男・立花隆・内橋克人らの錚々たる人々でした。書物の形だと細部に及ぶ記述が在り、また要点を探しながら何度も調べる事が出来るのでテレビ映像よりも記録としては有効だと思われます。
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  しかしながら、このようなカテゴリーの書物は、2000年ぐらいから、激減したように感じます。低成長時代に入り、画期的な製品が生まれにくくなったのと、人々の関心が薄くなったからでしょうか?
この現象は「ニワトリが先か、タマゴが先か?」の論争と似ていますが、敢えて云うならば実績が先行すると、老生は思います。( ただし、実績が先行するには、ある前提があるのですが )

  1945年の敗戦の時、全土は焼土・廃墟と化し、生活水準は何十年も昔の状態に逆行しました。その時に、米占領軍を介して伝えられたた米国市民の生活は、目が眩むほど華やかなもので、夢の生活と感じられました。日本人の生活が米国のレベルに達するのは、永久に不可能とさえ思えたものでした。
それでも、多くの無名の市民は、幾らかでも生活を向上させようと、必死に努力し知恵を絞りました。その結果、1956年の経済白書には「もはや戦後ではない」と記されるまでになりました。約10年にして経済規模・市民生活は戦前の水準に戻ったのです。
  一方、米国などでは、戦時中に開発された先端技術が民需に波及して行きましたので、市民生活はより便利で快適になりました。それですから、日本が進めば米国はさらに進む、と云う状況で日米格差は容易には解消しませんでした。
1960年に池田勇人総理は「所得倍増論」を提唱しました。その政策
の中には「科学技術振興策」が有り、工学系の高等専門学校を多数新設し、大学の工学部を増強しました。この技術教育の成果は 続く「高度成長期」に示され」、自他ともに認める技術大国に成長しました。そのような社会情勢に於いて "プロジェクトがX” 的な行為は幾らも有りました。その中で大きな成果を挙げた例がテレビやノンフイクション作品で紹介されたのです。
   1980年に "バブル崩壊" にが起こり、金融機関は不良債権 (多くは不動産・建設関連) の処理に苦しみ製造業への融資を引き締めました。そのために、研究開発費が窮屈となり、魅力的な新製品が生まれ難くなりました。それでも営々と努力を重ねて、停滞から脱しかりましたが 2008年にはリーマン・ショッックが起こって、再び不活発な状態に戻りました。
企業は利益を得ても、研究開発費に回さず、社内留保に向けました。このような職場環境では、"プロジェクトX" のような "アンダ
ーグラウンド研究"  さえも困難になります。全ての管理体制が厳しくなり、時間外の無料作業も、廃棄処分資材の流用も出来ません。要するに、高度成長期には黙認されていたモロモロの事が、不況・停滞下では禁止されるのです。それですから、非公認ながら 「金の卵」 を産むかも知れない活動は出来ないのです。
   このような情勢下では、正規の研究開発活動も不活発になります。企業トップは研究開発費を投入するからには、相応の成果を期待します。そうなると、研究開発者も先を読みやすい在来技術の延長のような小型テーマのみを提案するようになります。前人未踏の大型テーマは成功の確率が低く、実験的試作には成功しても、実用品として生産・販売・に繋げるには多大のリスクを伴うからです。

  2000年頃から、日本人のノーベル賞受賞者が続出しました。真に慶賀に値しますが、報道機関の扱いは一過性でした。出版界の反応も鈍いものでした。受賞者の田中耕一氏 (後に東北大名誉博士) や中村修二博士 ( 後に米大学教授 ) は著名大学や大研究機関に属さずに、中堅メーカーの研究開発者として業績を挙げました。お二人には、 "プロジェクトX"  的な秘話・苦心談が幾らもあった筈ですが、ジャーナリズムは関心を示さなかったようです。テレビの特集シリーズやノンフイクション作品の発表は見られません。
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上左図は田中耕一氏、上右図は中村修二教授です。
  停滞期だからこそ、大きく取り上げ士気能力向上を図るべきではないでしょうか?

                               <以下次号>

2019年5月15日 (水)

No.216 :日本産業の衰退に想う (4)

「ゆとり教育の悪しき遺産」

   1980年代頃より、 「義務教育が "詰め込み過密" ではないか」 との議論があったようです。それを受けて 「ゆとり教育」 なる大愚策が強行されました。「教育内容を精選し、理解を徹底させ、自ら考えて生きる力を育てる」 という触れ込みで、教材を大幅に削減しました。特に理数系は4割も薄くなりました。その中でも悪評だったのは、 "円周率を、ほぼ 3.0 として扱う" という件でした。これには、さまはざまな論議が起こり文科省は弁明に追われました。従来は、"3.14159・・・・と続く無限数列であるが、通常は3.14 を使用し、より精密には 3.1416 を使う" と教えていました、老生もそのように記憶しています。小学生に 3.14 を記憶させるのが、詰込みでしょうか? 10歳ぐらいの子供は好奇心旺盛で記憶力も盛んな筈です。
  このような愚策が行われる前に、文科相の諮問機関である中央教育審議会において、著名な女流作家であった委員が 「二次方程式などは、卒業してから1回も使った事が無い、そのようなものを義務教育で教える意味があるのか」 という意味の発言をしたそうです。老生は、この作家の辛口の人生論エッセイは高く評価していましたが、この発言にはガッカリしました。
  このような発言の故ではないでしょうが、教育内容の削減は理数系に厳しかったのです。この時の委員長は東大の理系教授でしたが、後になって 「理数系を削り過ぎた」 と述懐したと云われています。
  ゆとり教育のツケは、PISA (OECD学習到達度)  に歴然と現れました。数学や科学の分野で 2003年には世界のトップの級であったのが、2012年には大きくランクを下げました。ここに至って文科省は 「脱ゆとり教育」 に方針を転換しました。その結果、失地回復の兆しが認められているようです。しかしながら、ゆとり教育において理数系を大幅に削った事は、理数系軽視の風潮を煽ったのではないでしょうか? その後遺症ととして優秀な人材の理工系離れが生じ、産業界
とくに先端技術の開発力の低下を齎しました。まさに "ゆとり教育の悪しき遺産" です。この窮状からの回復には、まだまだ時間がかかるでしょう。

” 発行人の妄言 "    
  上記の女流作家のような発言をする識者・指導層の方は、かなり居るようです。九州のある県の知事だか市長だかは 「女子にサイン・コサインなど教えて何になる、もっと生活に役立つ知識・技能を教えるべきだ」 との暴言を吐きました。ある著名作家は 「幾何など習っても、近道をする時に  "三角形の一辺の長さは、他の2辺の和よりも短い"  という当たり前のことを七面倒くさく教えられた事を思い出す程度に過ぎない」 とエッセイに書きました。
  このような事を云う人は、今日の便利で快適かつ安全な生活が科学技術によって支えられている事実をご存知ないのでしょうか? 発言者は、ジェット機も新幹線も利用しないのでしょうか、テレビを見ずスマホを利用しないのでしょうか、先端医療のお世話にならないのでしょうか、家電機器を使はずに家事をするのでしょうか? これらのインフラ・システム・機器はすべて理数系の学術と応用の成果です。 
  このように云うと、"
すべての生徒・学生が理系分野に進むわけではない"  などと反論する人がいます。しかし近未来は、怒涛のような勢いで進む  "AI 時代" , "IoT 時代"  です。その社会に生きていくには、「生命科学」 「情報科学」 は必須の知識・教養であるとして米国では文系大学でも必修であると伝えられています。日本の文系出身のノンフイクション作家・評論家でも同様な主張をする方もいます。
  隣国の指導者のコトバに 「水を飲む者は井戸を掘った先人の労に感謝しなければならない」  というのが有ります。このコトバを現代的に翻訳するならば、「便利で快適かつ安全な生活をしている人々は、多くの科学者・技術者の努力に感謝すべきである。」 と云うことになります。日本とは政治思想を全く異にしている国ですが、この考えは首肯できます。( とは云うものの、この国は先進諸国のハイテクをパクることで知られています。理念と実状には大きな乖離が有りますね。)
  ここで、老生が独断と偏見で云うならば、文系の識者・指導層の中には理数系に対して一種の怨念を持っている方がいるように感じます。それは、学生時代の試験で、理数系は満点も取れるが落第点の危険もあるのに対し、文系はそこそこの点が得られるし落第点は殆ど無い、と云う性質に起因するようです。
例えば詩人として著名であった某氏は、旧制中学生の時に数学以外は抜群の成績で、"開校以来の秀才" に擬せられたが数学だけは苦手で、その名誉を逸した経験があり、某詩人は数学というコトバを聞くと機嫌が悪くなるので、弟子達は数学と云うコトバを禁句とした、との伝説が有ったそうです。
これに類した経験を持ち、折にふれて理数系を疎外する言説を表明する文系識者は
、かなり存在するように思われます。

「 "プロジェクト X" の時代は去ったのか?」

  2000年始めに NHK から187回に渡って放送された番組で、主として開発技術者の苦闘を活写して多くの視聴者を釘付けにしました。その内容に共通するのは、先端術開発に対する執念です。多くのプロジェクトは、いわゆるボトムアップで始まりました。若い技術者の情報収集と柔軟な発想により、開発の着想が生まれても、組織の世界では直ちに公認されることは少ないのです。
  そのような場合、非公認テーマを自己のリスクを賭け密かに推進する人士がいました。むろん、研究費も設備も無くスタッフも居ません。発想者は、正規の業務が終わってから新テーマの研究を行いました。部品・材料は、廃棄処分品などを流用しました。設備器具の類は業務終了後に借用しました。そのような活動を黙々と続けていると、周囲の人々の中には好意的に手伝う人も現われます。ある程度の成果が周囲に認められてくると、管理職クラスも組織としての公認化を図るようになり、それが認められれば研究費・設備・スタッフも充実して、開発の効率は上がります。
  日本の誇る先端技術製品は、このような経緯で生み出された例が少なく有りません。"プロジェクトX " の放映は 200回近くに達しました。全数が技術開発関係では有りませんでしたが、それでも100種以上の開発製品には、このような秘話が込められていたのです。

                     X   _

  この番組の約10年ほど前には、「電子立国日本の自叙伝」 なる番組も有りました。半導体という新しい電子素子が如何にして開発されたか、という内容でした。米国ベル研究所で発明されたトランジスターに驚き、日本では五里霧中の暗中模索を重ねて追いつき、さらに一部では追い越して半導体王国を築いた苦闘の物語でした。この番組にも開発技術者の多くの秘話が語られていました。

  この2つの番組の内容には、かなりの差異が認められます。"電子立国・・・・"  の内容は 「官産学」の強力なチームワークで  "トップダウン的"  に推進されました。その成果は世界驚かし、「悪名高い通産省」 「日本株式会社」 などと揶揄されると共に羨望の眼で見られました。一方、"プロジェクトX"   の方は、執念の鬼とも云える実務者レベル、いわば 「一匹狼」 によって  "ボトムアップ的"  に遂行されました。
どちらの番組も出色の出来でした。発表当時、開発技術者の末席に在った老生は、深く感動しながら視聴していました。
  ところが、この10年ほど、
この種の番組は低調のように感じます。衛星探査の "はやぶさ" の偉業や "iPS細胞" の臨床応用などが単発の特集で報じられる程度のようです。また、"生命科学"  のシリーズものなども散発的には放映されます。しかしながら、どれも知識の啓蒙に重点が置かれているように感じます、換言すれば、その世界に没頭した "人間" の努力や執念、さらに主人公を支えた家族などにはついては、殆ど触れられていません。放送の頻度が少ない上に、視聴者の情感に訴える迫力に乏しいとも感じます。
      このような事例は、理系への無関心の傾向を放置していると云えないしょうか? 先進諸国に伍して経済大国の座を保つには、憂うべき傾向だと思います。

             < 以下次号 >

 

2019年5月 9日 (木)

No.215 :日本産業の衰退に想う (3)

「 脱成長論の横行-1」

  高度成長の最盛期である1970年に、某大新聞が 「くたばれGNP」 という特集記事を連載しました。その数年前から公害  (大気汚染・光化学スモッグ・有害物質流出など) による生活環境の悪化が指摘され始めていましたが、この記事は多くの実例を示して大々的な警告を発したのです。
    それ以前にも 「四日市ぜんそく」 「水俣病」 などが個々に報道されていましたが、この記事はそれらを集成した上に、然るべき法規制や事業者の社会的責務、さらに市民の対応策などに至る大キャンペーンでした。政治家諸侯は、始めのうちは企業の活力を削ぐような規制には消極的でしたが、次第に市民の要望に押されて多くの規制が実施されるに至りました。

   その事は真に時宜を得たと思われますが、そのタイトルが強すぎました。"GNP (国民総生産) を伸ばす事そのものが悪である"  というニユアンスで受け取った人が少なくなかったようです。
その記事の10年前に池田勇人総理が 「所得倍増論」 なる政策を唱え、精力的に推進しました。"10年後には GNP を2倍にする" という計画で、多くの人は「実現困難な夢物語」と受け取ったのですが、計画よりも2年早く1968年に達成しました。しかも、その年の GNP は世界第2位に達したのです。この成果は世界経済史に残る偉業でした。しかしながら、奇蹟と云われるほどの成果を収めた陰には、かなりの無理というか、周囲への配慮に欠ける局面が存在したことは否定できません。
  それは、環境問題と過密労働です。殆どの生産工場は何らかの有害物質を排出します、それを完全に無害化するのが望ましいのですが、そのためのコストは少なく有りません。それですから、多くの企業は規制値ギリギリでお茶を濁しているのが実状でした。しかも、中には規制値を超えるケースも有りました。そのような "目こぼし" が増えると環境汚染は進みます。
また、労働時間は未だ週48時間でしたし、残業規制も今から
見れば甘いものでした。老生の記憶では、月間100時間は常態化し、150時間を超える猛者も珍しく有りませんでした。
  このような実態が明らかになるにつれて、高度経済成長についての反省が生じ、遂には 「くたばれ GNP 」 的な極論が現れたのです。その執筆者は 「経済成長そのものを否定したのではない、行き過ぎに伴う負の面にも気を配るべきだ」 という心算だったでしょうが、如何せん、タイトルが強烈すぎたようです。亜流の論者が次々と現れ、経済成長そのものを否定するような空気を醸成しました。

「脱成長論の横行-2」

  日本の高度成長、特にハイテク製品の輸出は米欧先進国には脅威となりました。家庭用電子機器は世界に浸透し、特にVTRは独り勝ちでした。電子技術を多用した一眼レフ カメラは永らくカメラ王国を誇ったドイツを圧倒しました。半導体メモリは質・量ともに世界一を誇り、液晶パネル・太陽電池などもダントツでした。このような情勢に対して欧米から 「日本人働き過ぎ論」  が浮上しました。いわゆる  「うさぎ小屋に棲む働き中毒の奴ら」  と云う悪罵です。初めは政府の交渉当事者間でのジョークだったようですが、国内のジャーナリストが採り上げ、次いで評論家・コメンテーターが恰好の話題にしました。
  評論家諸氏は "QOL (Quality of Life ・生活の質 )" なるコトバを持ち出して、「日本人の年間労働時間が欧米先進国に比して多い 」  と論難しました。このような論法で老生が違和感を抱くのは、各国の国情に触れず、単純に数値のみを比較して論じている事です、さらに云うならば、なんらの問題解決の具体的な提案が無いことです。
  日本の人口は世界の 1.7 % 程度です、国土の面積は 0.25 % です、またGDP (国内総生産) は 5.8 % ほどです。これから判るのは、日本の人口に比して国土は狭いと云うハンデイを持つにも関わらず生産性は高い、と云うことです。換言すれば、狭い住居に住み、忙しく働かざるを得ないのが実態です。このような観点から論陣を張ったのは、老生の知る限りでは 故・唐津一教綬でした。教授は 0.2-2-16 と云う数字を挙げて力説しました。 0.2 は国土面積比率、2 は人口比率、16 はGNP比率です。この数値については、粗い四捨五入や当時のデータによるもので前記の数値と差異が有りますが、趣旨は同じです。 
                        Photo_20
上図は、唐津一教授です。老生の知る限りでは、人口・国土面積・国内総生産をリンクさせて論じた方は教授の他にはいなかったようです。蛇足を云うならば、教授は「そのような環境条件だから、我武者羅に働け」と説いているのではありません、「付加価値の高いユニークな製品を開発するのが肝要だ」と主張しているのです。

            <以下次号>

 

2019年4月16日 (火)

No.214 :日本産業の衰退に想う (2)

「 GAFA & M 」

情報通信技術を巧みに活用して、新しいビジネス・モデルを創設し、大成功を収めたのが "グーグル社" "アマゾン社" "フエイスブック社" "アップル社" の4社および、それより以前に基本ソフト "Windows" で世界を制覇した "マイクロソフト社" を 「GAFA & M」と総称します。以下、各社について略述します。

1. グーグル社:

同社は情報検索のソフトを基盤として出発し、世界の航空・旅行・飲食などの予約業務を席巻しました。伝聞によれば日本でも情報検索にトライにした人物がいたそうです。残念ながら学術文献などの検索を指向したために大を成すに至らなかったと云われています。もし、この時に情報検索に市場の潜在力に着目して支援する具眼達識の士が居たならば、今日のようにグーグル社の支配を受けずに済んだかも知れません。       

私見ですが、日頃から「大局観」「総合判断力」を主張する文系出身の事業家・評論家の諸氏は、このニュー・ビジネスについての見通しを持たず、ただ、拱手傍観していたのではないでしょうか? 下図は同社の創始者の「ラリー・ペイジ」(ミシガン大・スタンフオード大 卒) です。

                   Photo_10

 2. アマゾン社:

同社は書籍の通信販売から出発し、取扱い品種は多種多様に拡大しましたが、その間に膨大な設備を全世界に展開しました。そのために幾多の企業を傘下に収めて、主要設備や基幹素子の自社製造まで行いました。また、他社に余裕のある設備を貸し出すという離れ業を演じました。同社は通販ビジネスに先端の情報通信技術を巧みに採り入れて、メーカーやプラット・フオーマーを融合した新しいビジネス・モデルを創出したのです。同社の株式時価は、嘗ての米大企業 (GE, GM, USスチール, ・・・・) を超えると云われます。下図は創始者の「ジェフ・ベゾス」(プリンストン大卒)です。

                        Photo_9

3. フエイスブック社 :

同社は人と人との繋がりを支援するWebサービスであるSNS事業社として世界最大を誇っています。ハーバード大学の学生であった「マーク・ザッカーバーグ」が同大学の学生の親睦・連絡を意図して創始しました。やがて、その利便性・有用性が広く認められて、システムはボストン地区の大学、アイビーリーグ大学、スタンフオード大学に拡大して行きました。
次第に企業や公共機関も加入するようになり、世界に進出するようになりました。下図は「マーク・ザッカーバーグ」(ハーバード大卒) です。
       Mark_zuckerberg__1

4. アップル社 :

同社は云うまでもなく "iphone" (スマートフオン) で有名ですが、それ以前には「マッキントシュ・パソコン」でフアンを集め、" iPod" でブームを起こしました。創業者の一人である「ステイーヴ・ジョブ」はカリスマ性のある人物で商品企画・市場創出に傑出していました。例えば、スマホについての基本設計は自社で行い、主要部品・素子は日本で調達し、本体の組立は中国などで行いました。云わば "好いとこ採り" をして、しかも "危険の分散" を図ったのです。いや、肝心の設計についても、基本技術やアイデイアは日本発が少なくありません。
日本メーカーは、自前主義で全てを自社で開発・調達する方針でを採り、それが成功した時代も有りましたが、変化の速い現代には却って裏目にでたわけです。
 ある高名なジャーナリスト氏は、ステイーヴ・ジョブが学生時代に経営学も情報通信工学も学ばなかったが「カリグラフイ (西洋書道・図案文字)」や「ヨガ」に熱中した経歴があり、それが画期的な製品を創造した・・・・・」と云う意味の記述をしていますが、ずいぶん粗い見当違いな見方だと感じました。下図は「ステイーヴ・ジョブ」の画像です。

     Steevejob

5. マイクロソフト社 :

同社はパソコン基本ソフト "Windows" で世界に君臨しています。パソコンが世に現れた当初は、マニアが個々にマシン語でプログラム個々にを書いていたのですが、大学生であった「ビル・ゲイツ」は英語に近い感覚でプロぐラムを創れる "BASIC" を考案しました。これは各パソコン・メーカーが採用し、提携のために各社の幹部が訪れたので "ゲイツ参り" と云われたほどでした。

 次いで基本ソフト
"WINDOWS" を開発して多種多様のアプリケーション (多くは他社が開発) と組み合わせて応用分野を飛躍的に広げました。パソコン業界では、プロセッサのメーカー "Intel 社" と並べて "Wintel 王国" と称するほどです。同社は自社開発に固執せず、提携や買収を重ねて世界企業に成長しました。下図は「ビル・ゲイツ」(ハーバード大学中退) です。
              Photo_17

「編者の迷論惑説」
日本では、上記のような人材は現れず、従って巨大 IT ビジネスは存在しません。ミニ版として「孫正義」の率いる "ソフトバンク社" や「三木浩史」が創業した "楽天" が知られている程度です。何故そうなのか、学識者・コメンテイター諸氏の名論卓説は数多有ります。それらの言説は、どれも首肯出来ますが、敢えて編者の私見を云えば、日本の政財界のトップ層は「理工系オンチ」で占められているからです。

世に「技詳しからざれば、胆大ならず」と云うコトバが有ります。前人未踏の先端技術の将来性を見通し、先行投資を断行するには、相応の理工系センスが必要ですが、そのようなトップ層は極めて少ないのが実状のようです。
海外のトップ層を引き合いに出すのは好みでは有りませんが、敢えて例を記します。米国の「オバマ大統領」は来日の折に、寸暇を割いて "科学未来館" を視察し、居合わせた高校生と科学談義を楽しんだそうです。日本の報道機関で、これを報じた社は殆ど有りませんでした。同日の夕刻に銀座の寿司屋で日本首相と会食した記事は全社が報じましたけれども。また、歴代の米大統領は就任演説で、科学技術政策に言及するのが慣例になっているそうです。これまでも、「月への有人探査」「情報スーパーハイウエイ」「ナノテクノロジー」などが有りました。また、1985年の "つくば科学万博" を訪れた英サッチャー首相は「これは "技術博" であって "科学博" ではない」との辛口のコメントを述べました。
日本の政治家で、このような言動をした方は居るのでしょうか? それどころか、科学技術に無知・無関心をさらけ出した例は無数に有ります。嘗て政権を担当した民主党は悪名高い "事業仕分け" とやらで、スーパーコンピューターを槍玉に挙げて「2番ではダメなのか?」との愚問を発した議員がいました。この仕分けの結果として "JAXA" の東京駅前の展示場は閉鎖されました。「はやぶさ」の小惑星からの資料収集・帰還で世界を驚かせた直後の暴挙でした。
まあ、こんな例を並べると際限が有りませんから、この辺で止めておきます。

                                                        <以下次号>

2019年3月27日 (水)

No.213 :日本産業の衰退に想う (1)

「日本産業、衰退の現実」

今年の始めころ、"平成30年間の社会情勢の変化を回顧する" というテレビ番組が有りました。それを見ながら往時を追想して、今更ながら、その変化に驚きました。
愕然としたのは、日本産業の凋落・衰退です。例えば、"昭和の高度成長期には、世界のビッグ企業50社を挙げると、日本企業が30社を占めたのに、平成30年ではトヨタ1社のみ、しかも順位は25位だった" という事でした。解説者は米国の グーグル、アマゾン、フエイスブック、アップル、マイクロソフトのいわゆるGAFA & M や中国のフアーウエイ の急成長 を指摘していましたが、特に説明・分析は有りませんでした。                                                この番組で報じられた内容は、嘗ての高度成長・技術革新を支えた開発技術者の末席にいた老生にとって衝撃的でした。
(
4 月27日の読売新聞に同様の記事が詳細なデータと共に載っています。)
             Photo_19                                                            上図は日本産業の凋落・衰退を分析・解説した書物の一例です。この種の書物は何冊も刊行されています、と云う事は事態が如何に深刻であるかを如実にあらわしています。                       

「知らぬ間にOOOの株券は書き換えられていた」

 軍事評論家として令名高かった故伊藤正徳氏の名著 "帝国海軍の最後" に、この一文が有ります。文中のOOOには "潜水艦" の文字が入ります。伊藤氏は、戦前の日本潜水艦隊は質・量とも世界のトップ・クラスであると自他共に認められていたにも関わらず、開戦後の実戦において期待されたほどの戦果を挙げず、逆に軽視していた米潜水艦隊が猛威を振るい日本を壊滅状態に陥れた、と云う実状を、このように表現したのです。
           
Photo_18 
日本
の潜水艦は、強力な武装・長大な航続力を持ち、乗組員の高い練度と相俟って、海外の軍事評論家も高く評価していました。ところが実戦に際し、英米が開発した新兵器 "レーダー" , "ソナー" により、大型で機関音の大きい日本潜水艦は発見され易くなり、敵艦に接近して魚雷発射をする前に探知発見され、強力な対潜攻撃を受けて撃沈されるケースが増えたのです。その上、戦術的には敵の戦艦・空母などの大型艦のみを狙ったので、接敵・攻撃の機会が限られました。
一方、米潜水艦は平凡な設計でしたが、優れた "レーダー" , "ソナー" を備えた艦を多数生産しました。しかも戦略的には攻撃目標を大型軍艦に限定せず、"潜水艦キラー" である駆逐艦 (小型艦) や、低速で防御力も反撃力も弱い輸送艦なども狙いました。
これらの理由が相俟ってか、日本潜水艦隊は当初に期待したほどの戦果を得られず、逆に米国潜水艦隊は猛威を振るい、日本を物資不足に追い込み壊滅状態に陥れました。それで伊藤氏は "知らぬ間に潜水艦の株券は書き換えられていた" と云う名句で表現したのでしょう。

日本はバブル崩壊の前は、「ものつくり大国」「先端技術王国」と称され、世界のトップ・レベルを誇っていました。しかしながら、バブル崩壊により在来の産業・経済が停滞した頃から急激に立ち上がった「情報通信革命の波」に乗り遅れて、停滞・衰退が始まり "失われた20年" あるいは "失われた30年" と云われ、今にも回復に至りません。
伊藤氏の名言に擬えるならば、"潜水艦" は "技術開発力・産業力" に当り、"レーダー" , "ソナー" は "情報通信技術" に相当します。また、戦略的には "新ビジネス" の創出でしょう。

「情報通信ビジネスの遅れ」

 日本は 通信の分野では幾つかの先端的な開発を行いました。例えば日露戦争に際して、海軍は "三六式無線機" を開発して活用し、日本海海戦に勝利しました。また、昭和初期には "テレビジョン" の実験に成功しています。大阪万博でNTTが公開・実演した携帯無線電話機は今日の携帯電話システムの先駆でした。携帯電話とインターネットを結びつけた "i-モード" は日本女性の発案と云われています。現在、スマートフオンの世界標準とも云える "iPhon" にも日本製の部品・素子は多用されていますし、日本発のアイデイアが幾らも採り入れられています。
情報の分野では、永らく米国の IBM社が汎用大型コンピュータで世界に君臨していました。欧州各国も全く歯が立たない程でしたが、日本では日立・日電・富士通が辛うじて対抗していました。とは云っても、大きな格差は否定できませんでした。必死に追いかけている最中に米国では、マイクロ・プロセッサが開発され次いでパソコンが現れ、暫くしてインターネットが生まれました。
パソコンとインターネットは恐るべき可能性を秘めていました。在来の汎用大型コンピュータ・システムを
「大艦巨砲主義に基ずく戦艦中心の艦隊」に例えれば、こちらは「空母を基幹とする機動艦隊」に相当すると云えるでしょう。
この変化に巨人IBM は遅れた様です。アマチュアの若者が手造りしたオモチャに過ぎない、と見たようです。日本のメーカーは、IBM を追うのに夢中でしたから、さらに遅れました。
実は、マイクロ・プロセッサの開発には、日本人が参加していました。電卓市場の競争が激化した時期に、あるメーカーがマイクロ・プロセッサに相当する素子を着想して米インテル社に依頼したのです。このプロジェクトに日本人技師が参画して、"4004" や "8008" を開発しました。その後、量産はインテル社に任せられました。他の日本メーカーで生産をトライした企業も有りましたが、事業としては成功しませんでした。日本は半導体メモリの開発・量産を指向し質・量ともに世界最高を誇りましたが、その後の中韓の追い上げに敗れました。
別の観点からすると、日本はコンピュターの周辺機器、即ち プリンター・スキャナー・ハードデイスクなどのなどの生産では、トップ・クラスでした。欧米の業者にOEMで大量に供給しました。とは云うものの機器単体が主でしたから、途上国の追い上げを振り切るのは困難でした。
日本の業界実態を考察すると、機器単体や部品・素子では卓越し、個々の道具立てには業績を挙げたものの、通信と情報を融合して新事業を創出するには至りませんでした。
米国で成功を収めたベンチュアー企業は、ソフトウエアから出発してビジネス・モデルを着想し、それに要するハードウエアは外注で調達すると云う流れであると感じます。
敢えてアナロジカルに云うと、日本では新ビジネスを創出するのに「加算・減算」的な発想に止まるのに対し米国では「乗算・除算」的な発想をする、あるいは日本は「平面的」、米国は「立体的」とも見られるという事でしょう。
                <以下次号>

                             

                                                                                                                                                                                                                                                

 

 

 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                       

          

  

 

 

                                    

 

  

 

 

 

 

 

              

 

 

2018年12月21日 (金)

No.212 :: 昭和一桁生まれの経験した配給生活 (4)

[ 煙草の配給について }
     煙草の配給制度が実施されたのは、1944年からとされています。戦争も末期的状況の頃でしたから、かなり遅かったように感じますが、ある博物館の資料では、そう記されています。ただし、それ以前から品不足は始まっていましたし、種類の整理は行われていました。
  1940年には、"ゴールデン・バット" が 「金鵄」 と名を変えました。英語の表記を嫌い、日本神話に由来する名称に変えたのでしょう。
Photo_8 Photo_11  
他にも、"チエリー" が 「さくら」 に、"カメリヤ" が 「椿」 に改名されました。 
  配給の量は成人が1日に6本でした。これではヘビー・スモーカーならずとも、甚だしく不足であったようです。ただし、成年男子は登録すれば配給されましたから、非喫煙者の配給分を回して貰って何とか凌いでいたそうです。
 
     戦況が厳しくなるにつれて、配給の量は次第に減らされて来ました。また、それと前後して巻煙草の形ではなく、その原料の形で配給されるようになりました。
Photo_12   左図はその例です。
"刻み煙草"と巻煙草を造るための "巻紙" を1組として配り、喫煙者は自ら 「巻煙草」 を造って喫煙せよ、と云うわけです。図の上は "刻み煙草" の包装、下左図は "巻紙", 下右図は巻煙草を造るための道具です。
   この作業は、不器用な人々には難行だったようです。終末期になると "巻紙" も不足してきたので、「コンサイス英和辞典」 などを解体して使う人もいました。また、"刻み煙草" に "トウモロコシの毛" や "イタドリ の葉" などを混ぜて増量を試みる人も現われました。
  喫煙しない人から見れば、何とも気の毒な、しかも馬鹿馬鹿しい行為ですが、軽症であってもニコチン中毒に陥っている人にとっては必死の想いであったようです。
前回にも触れた老生の伯父は、かなりのヘビー・スモーカーでしたので、辛かったようです。幸いにも老生の父は煙草を吸はない人でしたから、提供していました。
  煙草には多くの銘柄が有りました。戦時色の濃い品としては 「誉」 「鳳翼」 などが有り、その他にも軍用の専用品や、天皇陛下から下賜される特別の "恩賜の煙草" という品も有りました。特攻隊員が "恩賜の煙草" を吸って出撃するという歌も現われました。
Photo_6  Photo_8                      
 
  老生は、当時10代半ばでしたから、父親世代が四苦八苦しているのを横目で見ているだけでしたが、早熟の生意気盛りの生徒の中には、周囲の目を避けて親の配給品を盗んで喫煙した体験を得々と吹聴する者もいました。

{ 老生の妄言 }
  配給と云う制度は、食糧・嗜好品の絶対量が不足したために施行されたのですから、もともと無理な話です。しかも運営が行き詰まり、遅配・欠配が起こり始めると、非合法の闇ルートが横行しました。
  当時、「今の世は、星・碇・官 顔と闇、馬鹿者だけが行列に立つ」 という狂歌が密かに囁かれていました。陸軍・海軍は配給の制約が及ばず、官庁関係も何かの特別ルートが有ったようです。顔とは政・官・財界などに影響を及ぼす影の実力者を意味し、闇とは桁違いの札ビラを切って希少な物品を買い漁る行為です。
  一般市民が、生き残るために採った手段は、食糧の "買出し" でした。都市近郊の農業地区に出かけて食糧を調達するのです。農村も生産物は政府に供出するノルマは有りましたが、それでも幾らかの手持ちを残していましたから、それを狙うのです。もちろん、価格は闇値です。時には通貨ではなく、衣類・装飾品などで物々交換する事も有りました。この事は、皮肉にも都市と農村の経済格差を狭める事にもなったようです。
    戦時下の配給生活に関して、当時の中学生だった頃の体験と記憶を基に、この小文を纏めました。制度そのものは、公的組織により遂行されたものですから、当時の諸通達などの公文書が何処かに残されていると思われます。しかしながら、見つけ出せず、止む無く僅かな資料と老生の独断と偏見で草した次第です。
               <以上>

2018年12月17日 (月)

No.211 : 昭和一桁生まれが経験した配給生活 (3)

[ 酒類の配給について]
      酒類の配給統制は1941年から行われました。1世帯当たり1ヶ月に日本酒4合(720ml )、ビール2~4本、でした。別に冠婚葬祭の際には1升(1800ml) 、入営・出征の折には2升(3600ml) の特別配給が有りました。
   この量は酒飲み人種にとっては、甚だしく不足でした。しかし、世の中には酒を飲まぬ人や、毎晩は飲まぬ人も居りますし、また女世帯も有ります。それですから、近所の人と融通しあって、何とか間に合わせていたようです。
下図は、その折に使われた配給通帳です。
 
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2jpg_2                                       
  また、初期には飲食店には業務用の配給枠が有ったので、家庭用の配給では足りない人は、そちらで飲んでいました。とは云っても、店の方でも一人あたり幾らと制限を設けたました。その上、割高につきましたから愛飲家には辛かったようです。
 
  1944年には 「国民酒場」 という店が開業しました。これは準公営とも云えるシステムで、酒1本と肴1皿を提供しました。家庭用の配給とは別枠で価格も安いので人気が高く、開店前から長蛇の列が出来、警察が整理に当たるほどでした。
 
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  国民酒場については、下記のような思いで話があります。 老生の伯父は某名門校の教師でしたが、週1回の講義の帰途に老生宅に立ち寄り、老生の父と共に国民酒場の行列に並びました。この時、伯父は服装を簡素なモノに着換えて行きました。当時、中学生だった老生は不思議な感じがして母に理由を聞いたものでした。
すると母は、「相当の社会的立場にある者が、労務者風の人に交じって、ああいう処に並ぶのは、場違いと見られて難癖をつけられるかも知れない。それを避けようとした」 という意味の話をしました。
   当時の伯父の勤務校で教師は海軍士官に似た制服・制帽を着ていたのです, (軍人ではないから剣は吊っていません)。もし、この服装のままで行列に並ぶと他の多くの人
々から違和感を持たれたでしょう。
なお、この酒場では1杯飲んだ後で、再び行列の最後尾に並び、運が良ければ2杯目に ありつけたそうです。伯父と父は戻ってきた時に、「今日は2杯飲めた」 など云って上機嫌でした。
   このような話は、当時は至る処で在ったようです。「衣食足りて礼節を知る」 と云うコトバは周知ですが、戦時体制の配給下では、相当な地位の人士でも面子や体裁に拘っては居られない窮境を齎したと云えそうです。
 
{ 蛇足 }   戦中・戦後のアルコール飲料の不足は、別の社会危機を生じました。密造酒の氾濫です。元来、酒類の生産・販売は大蔵省 (今の財務省) により厳しく管理されていたのですが、それを無視した不法な密造酒が各処で造られました。安全も衛生も考慮しないノーラベルの製品が、怪しいルートを通じて、出回ったのです。
   中でも悲惨だったのは、工業用アルコールが混入されていた殺人酒でした。これを飲むと失明・落命の悲運に見舞われたのです。恐らく密造酒を造った人は薬用アルコールと工業用アルコールの区別を知らなかったのでしょう。
   このような話は、いわゆる戦中・戦後史には記載されていないように思われます。老生は未成年でしたが、身近に実感した事実なので、敢えて記しました。
              <以下次号>

2018年12月13日 (木)

No.210 : 昭和一桁生まれが経験した配給生活 (2)

[ 衣料切符制に関して ]
     戦時体制は、あらゆる日用品の不足を生じました。衣料品もその一つです。1942年から切符制が導入されました。この制度は、個々の衣料品に点数を定めると共に、個人が年間に使える点数を定めて、各人が1年間に購入できる衣料品の総量を制限するシステムでした。
   例えば、男子背広服は50点、婦人ワンピース15点、ワイシャツ12点、もんぺ10点、手袋5点、足袋2点、靴下1点、などでした。一方、与えられる切符は都市の成人は100点、農村の成人は80点でした。
Photo  左図は衣料切符の表紙の一例です。
  この制度は、戦前の衣料品需要の40% を目標に設定したそうですが、ずいぶん無理というか現実を無視した机上論だと思います。
  その理由は、衣料品は多種・多様であることです。素材にしても、綿・麻・絹・毛・化繊などが有り、その織り方や染色も多様です。加工では男性用・婦人用など、さらに上衣・下着などの区別が有ります。
しかも、個々のサイズ・体形・好みなども有ります。それですから、各種の衣料品の生産数と個々人が欲する衣料品の数量を一致させる事は極めて困難、と云うより不可能です。(コンピュータによるビッグ・データ処理ななどの技法は全く無かった時代です。いや、今でも難しいと思われます。)
  老生の経験では、1942年に旧制中学に入学した時には全員に制服が配布(有料)されました。この時は業者の手持ち材料が有ったらしく、切符を渡して全員が入手できました。ところが、冬が迫り外套が必要になった時には、生徒側には点数が有っても業者側には材料が回らず、抽選になりました。換言すれば、消費者が点数を持っていても、業者側には要求に応える資材が回らなかったのです。
   蛇足を加えます。軍隊では「服に体を合わせろ」と云うコトバが有りました。兵士の着る服は、大・中・小ぐらいのサイズしかなく、そのどれかを選んで着こなせ、と云うわけです。兵士として招集されるのは壮年男子であり、身体検査をパスした者たちだけでしたから、軍服を見込み生産して入隊した若者に配布できたのです。
   対象が老若男女の一般人の場合には、こうは行きません。このシステムはスタート時点で無理だったのです。それに戦局の急激な悪化により、空手形状態に陥りました。
 
      戦時体制において、一般人の服装が大きく様変わりしました。成年男子は軍服に似た「国民服」を、成年女子には活動しやい「もんぺ」の着用が推奨されました。
Kokuminfuku Photo_2 
 
  上左図は男子の「国民服」、上右図は婦人の「もんぺ」です。国民服は甲・乙の2種が有りました。
甲は襟が開いていて、ワイシャツ・ネクタイの着用が可能で、公的な行事・式典に出席する立場の人士が用いました。乙はいわゆる兵隊服と殆ど同じ型です。老生らが配給された旧制中学の制服は、これの類型でした。
  「もんぺ」は農山村婦人の日常着に近いデザインで、活動しやすいのを狙ったようです。頭に被ったのは「防空頭巾」と云われ、空襲に際し爆弾の破片などから頭部を護るためでした。なお、図では身元を示す左胸に名札を付けています。
   この「国民服」は1940年に法制化されましたが不評でした。特に甲は公的な会合などに参加するような人は既に数着以上の背広服を所有している筈で、わざわざ新調するのは無駄だと云われました。官公吏・校長・町村長・小企業主・街の顔役などの一部が調達したに留まったようです。
   一方、「もんぺ」の方はかなり広まりました。既に所有している和服を仕立て直して手作り出来たからです。当時の婦人雑誌には、それに関わる記事が多く載っていました。
      以上が衣類切符制度の概要です。米・砂糖・酒・煙草などの配給は、量の不足は有っても何とか機能し、戦況の悪化と共にジリ貧状態に陥り有名無実化したのに対し、衣料切符は初期から空手形状態でした。後年に社会主義国の計画経済が破綻したのと一脈通じるように思われます。
            <以下次号>

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