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2019年9月16日 (月)

No.226 :昭和一桁生まれの読書遍歴 (5)

7. 「大学生時代」

    老生の時代の者は、小学生から大学生に至るまで、学制変更の連続でした。老生が小学校に入学した時点では、小学6年→中学5年→高校3年→大学3年 計17年でした。それが、大学卒業の時点では、小学6年→中学3年→高校3年→大学4年 計16年になっていました。
         その間には、種々の細い経緯がありますが、それは省略して大学生時代に話を移します。老生は某私大の理工学部に進学しました、専攻は 「電気通信」 です。当時の先端技術でした。進学したものの、大学は戦災を受け、窓ガラスは破れ、スチーム暖房は働かず、実験設備の大半は焼失と云う惨状でした。辛うじて教授の講義は続けられましたが、教科書などは無く、口述と板書による授業でした。理系の授業には、数式や図面は欠かせませんが、当時は OHP や PC による投影などは有りません。先輩の助手たちが多大の労力を費やして創ってくれた手書きのガリ版刷り (謄写印刷) 資料が頼りでした。
         その一方で学生は、戦前・戦中に刊行された教科書・専門書を古書店などで探し出して筆写しました。数人でで手分けして作業したのです。全文を洩れなく写すには時間が有りませんから、抜き書きです。また、図や写真はトレース用紙に描き写しました。当時はコピー機などは皆無でした。なお、対象にした書物には、かなりの海賊版も有りました。これは戦時下の情報断絶状態でも、第三国を迂回したり、占領地で押収した技術書が有り、それを大量に複製して軍機関などに配布したもののようです。
記憶している例では、"Ballow's Table" ,  "Yannke-Emde's Funnction Table"  などです。
         4年次になると卒業研究が課せられます。自らテーマを設定して研究・実験を行い、何らかの結論に至るまでを報告書にまとめるノルマです。そのためには、最新・最高の資料を読み、比較検討して問題を発見するのが第一歩です。その 「タネ探し」 が既に難問です。身近な資料では陳腐なテーマしか浮かばないからです。当時、米占領軍は各地に  「 CIE 図書館 」  を設けていました、占領政策の一環として米国文化を日本市民に周知させる意図があったのでしょう。その中には最新の理工系書籍が有りました。これを知った学生は日参して資料を筆写しました。
   この図書館には学生だけでなく、中堅の学者・研究者・技術者の姿が見られました。その姿を見て、若輩の我々もエキサイトさせられたものです。老生らが夢中になったのは、米国・マサセチューセッツ工科大学・放射線研究所の編纂に成る 「マイクロ波工学シリーズ」 でした。全28巻と云う膨大な叢書で、この分野のバイブルとされました。そのシリーズの中で最も多く読まれたのは、"マイクロ波技術" , "パルス技術" , "デイスプレイ技術"  だったようです。
   1950年代になると、漸く新刊の理工系図書が出版されるようになりました。記憶しているのは、共立出版の 「通信工学講座」 です。30巻ほどの大部でしたが、老生は乏しい資金をやりくりして、全巻を揃えました。老生は無線工学を専攻したので、有線工学などの書を開く機会は殆ど有りませんでした。それでも、ズラリと並ぶ背文字を眺めていると、一種の知的高揚感を得たものです。
   修教社からは「高周波科学論叢」なるシリーズの刊行が予告されました。計画では日本中の権威者を総動員し、数十冊に及ぶ大部のシリーズになる計画でした。しかしながら、僅かに数冊を出したのみで挫折してしまいました。この中の 「超高周波電子管」 は、老生の卒業研究のタネ本になりました。

7. 「新米技術者の頃」

    老生が企業に就職したのは1952年です。戦後7年を経て、産業界もようやく活気を取り戻しつつあった時期でした。入社した会社はラジオ受信機の生産を主力とし、別に警察用の車載無線機を手掛けていましたが、テレビジヨン放送が開始される情勢にあって、テレビ受信機の研究開発も推進していました。
    老生は無線機部門に配属されて、超短波 FM 移動無線機の研究開発に携わりました。この分野は米国では1940年代にほぼ完成した技術でしたが、日本では1950年に導入されました。この
技術導入は米占領軍の強い示唆が有りました。トカーを増強し、それに車載無線機を搭載して、機動力を持たせよ、との勧告です。国は産・官・学を動員して車載無線機国産化プロジェクトを推進しました。この時、米軍からは、1台のサンプル機器と1冊のマニュアルを貸与されました。これを前にして、十数人の研究会メンバーは、幕末に杉田玄白らがオランダの解剖学書  「ターヘル・アナトミア」  の翻訳に四苦八苦した経過を   「蘭学事始め」    に記したのと同様の苦労を重ねました。
老生は駆け出しの新米技術者でしたから、研究会に参加するなどは思いもよらず、出席した上司の持ち帰った宿題を処理するのに忙殺されました。この時期な勉強したのは下記に3冊でした。
 ”周波数変調" : 八木秀次   監修、林龍雄・前田憲一  共著
 "超短波移動無線" :  染谷 勲 著
 "周波数変調" :  フント 著, 坂本捷房 訳  
これらは、読み応えのある名著でしたが、原理・原則を中心とした記述であって、具体的に機器を設計するための手法は示していません。書物からエッセンスを読み取り、設計図を作成するのは、技師の手腕・力量によります。例えば書物の示された理論式から、使い勝手の良い
計算図表や数表を自ら作成し、それをベースにして設計を進めるのです。さらに云うならば工業製品としての完成度、耐久性、整備性、などは全く設計者個人の経験・力量に左右されます。

  

 

                 <未 完>

 

2019年9月 9日 (月)

No.225 :昭和一桁生まれの読書遍歴 (4)

5. 「海外作品への開眼」

   旧制中学の2・3年生ともなると、海外作品が話題に上るようになります。それまでは、「少年倶楽部」  等の探偵小説や冒険小説を夢中になって読んでいた連中が一転して欧米の現代小説を手にするのです。その読書傾向は、コナン・ドイルやエドガー・アラン・ポーなどの探偵小説や、モーパッサンやゾラなどの人生・社会を描いた作品、さらにトルストイやドストエフスキーなどの深刻な長編作品などに大別されたように思えます。このような読書対象の変化は、大人の世界への背伸びだったと思われます。
   そもそも、海外作品を読むのには、その社会や時代の人情・風俗・習慣などを把握していないと、理解・鑑賞は出来ませんが、その知識が不十分のまま読むので、読みこなせたか否か怪しいものでした。それでも、友人どうしで話し合ったり、大人に聞いたりして読み進めました。

         コナン・ドイルの 「シャーロック・ホムズ物語シリーズ」 を初めて読んだ時には、かなりの違和感が有りました。それは、上流階級の人士が殺人犯・詐欺犯・性犯罪者として登場するケースが少なくない事でした。モリアーテイ教授・シャーロット博士などです。もう一つは、英国ロンドンが舞台でもインド人・アメリカ人・南米人などが登場する事でした。成人して多少は世の中を知るようになって、そのような疑問は氷解しましたが。
         モーパッサンの 「女の一生」 やバルビュスの 「地獄」 などは思春期の悪童どもの話題になりました。"ベッド・シーン"  の記述が有ったからです。現代の感覚では淡泊な描写ですが、1940年頃から以前のセンスではかなり刺激的だったと記憶します。

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   その頃の中学校には風紀取締が厳しく、所持品の一斉検査が不意に行われました。この時に上記のような書物が見つかると大騒ぎになったものでした。女性をテーマにした軟弱な読み物として排撃され、所持者は不良少年扱いされました。それでも、生徒間の回し読みは続きました。
         1944年、中学3年生の頃になると、戦況は悪化し学徒勤労動員令が下りました。軍需工場へ駆出され、兵器の生産に従事させられたのです。無論、学校に於ける授業は棚上げです。このような状況下でも、怪しげなガリ版刷りの文書が出回りました。殆どが今日でいうポルノ小説の類、それも抜き書きでしたが、10歳代後半の男子にとっては衝撃的でした。同級生の中には医師の子息や花街の経営者の息子もいて、得意げに解説をしました。ところが、軍需工場の中には憲兵が絶えず巡回していて、時に摘発される椿事が起こりました。憲兵の任務は軍組織内部の不正を取締るのが本務でしたが、大戦末期には市民の厭戦気分・生活態度にも目を光らせるようになりました。前線では兵士が血を流しているのに、学生どもは軟弱なポルノに夢中のなるとは何事か!!  と云うわけです。そんな時、中学校の教員は憲兵に平身低頭して、表沙汰になるのを防いだようです。

6. 「戦時下から敗戦直後」

   1944年、敗色濃厚になり、空襲が迫りつつあった時に疎開が半強制的に執行されました。学童・老人は郊外や地方に移住させられました。それに伴い都市防衛のために残る成人も家財や貴重品を地方在住の知人宅に預けました。その時期に大量の書物が古書店に売却されたのです。
        大正末期から昭和初期に「明治大正文学全集」「世界文学全集」 と銘打った大部の文学全集が刊行され、知識層の家庭の応接間や書斎を飾りました。老生は友人宅で見せられて別世界を見る想いがしたものです。しかし、戦時下の疎開騒ぎに際し、重く嵩張る文学全集などを地方に移送するなどの余裕は無く,止むを得ず古書店に捨て売りしたのです。引き取る古書店にしても、買い手が付くより前に戦災で失うリスクがありました。老生は行き付けの店で「江戸川乱歩全集」を見つけ、何とかして買いたいと思っていましたが間もなくその店も老生宅も空襲で焼失してしまいました。
   東京・神田の古書店街は幸いに戦災を免れました。それで、かなりに書物が残りました、ただし価格は高騰しました。敗戦後の食糧難・住宅難は厳しかったのですが、それでも書物を読み知識・教養を得ようとする人々は少なく無かったのです。
   出版社は、焼失を免れた戦前の紙型を探し出して出版を再開しました。哲学・左翼思想・ロシア文学などが人気でした。哲学・思想・学芸・文学などの出版で著名な I 書店は神田神保町交差点近くに在りましたが,間欠的に名著の再版本を売り出しました。発売日が予告されると、当日の早朝から長蛇の列が出来ました。老生も数回は行列に並びました。ところが、行列する人々の中には転売を目的とする人もいました。どのような書物でも I 書店の出版であれば、数倍の価格で転売されたのです。行列に並んで買った本が、直ぐに古書店に高く売れたのです。換言すれば、行列に並んだ人の中には書物の内容が何であろうと I 書店の本であれば、高く売れるという狙いの人が少なく無かったのです。戦後の混乱期における特異現象でした。
   このようなプロセスを経ながらも、出版界は徐々に立ち直って行きました。とは云うものの、経営体力が伴わず、刊行半ばに挫折した計画は少なくなかったのです。老生の記憶では、夏目漱石、トルストイ、スタンダール、ロマン・ローラン、ドストエフスキー 等の全集モノが多かったようです。さらに蛇足を云うならば、戦後の混乱期では著作権などを無視した、一発屋と云われる怪しげな業者が少なく無かったのです。
 

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図は雑誌「文芸春秋」の戦後復活版第一号の再版本の表紙です。話がややこしくなりますが、先ず、戦後復活版として1945年10月号として発行されました、その後1995年10月号の綴じ込み付録として再刊されたのです。新聞用紙を転用し八つ折・64頁の簡素なものでした。製本はしておらず、折り畳んだだけでした。
   それでも、目次をには 「原子爆弾雑話」 「非文化非合理への反省」 「未曾有の痛棒」 「愛しき国土」 など、各界の権威の論説・エッセイが並んでいました。どの文も正鵠を射てはいますが、自虐的な論調もかなり有ったように感じます。これは、当時としては止むを得なかったと思いますが、その流れは今日でも続いているように感じます。
   多くの名論卓説の中で、今でも読み返して驚くのは、中谷宇吉郎教授の論説です。教授は原爆も一度実現されれば、間もなく他国でも製造出来るであろう、と云う指摘と長距離ロケット弾への搭載の可能性への言及です。この予想は的中しました。数年後のソ連邦、現在の北朝鮮などが実証したのです。

               <以下次号>

 


       

2019年9月 4日 (水)

No.224 :昭和一桁生まれの読書遍歴 (3)

5. 「 飛行機オタク・軍艦オタク・鉄道オタク 」

   小学上級生になると、 「飛行機」 「軍艦」 「鉄道車両」  などの ”型名” , "外観" , "性能"  などに興味を持つようになり,その分野の雑誌・書籍を集めて読み耽りました。その種の出版物は青年層を対象にしているようで、小学生には少々難しい箇所もありました。クラスには数名の同好の士がいて、互いに知識を競いあう雰囲気があったので頑張りました。
        幾つも有った雑誌の中で記憶に残るのは、「海と空」 「航空朝日」 でした。前者は世界各国の軍艦・軍用機を鮮明な写真で紹介し、併せて特徴・性能などを解説していました。おそらく、日本帝國海軍の後押しが有ったのでしょう。各国とも軍備に関わる詳細は極秘とされていたのですが、一方では自国の軍備の威力を誇示して、いわゆる "抑止効果" を狙うという流れも有りました。
   
この雑誌のある号で、日本海軍の "一式陸上攻撃機の尾部銃座" が明瞭に写っている写真が掲載されました。この記事は飛行機オタクの間では大きな話題になりました。と云うのは、それまでの日本の双発爆撃機・攻撃機は後尾の武装が弱く、後方からの攻撃を受けて被害が少なく無いという噂が流れていたのです。その弱点が解消されたと、この写真は示唆したからです。忖度するならば海軍は、巷の一部に流れる噂を消すために、このような写真を発表したのでしょう。飛行機オタクを介して、この情報は一般人へも拡散しました。

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        後者は朝日新聞社の刊行で戦時の数年間しか存在しませんでたが、老生は多くの知見を得ました。この雑誌は広範な情報収集に特長が有りました。例えば太平洋戦争の後半に出現して日本軍を悩ませた "グラマン F6F ヘルキャット"   の詳細な図面や特徴を詳記していました。また、"悪魔の翼 B29 超空の要塞” の気密室構造の図解も掲載されました。これらは米軍の極秘資料ですが、どのような経路で入手したのか、新聞社の情報収集力には驚きます。
   この雑誌の執筆者は、軍の技術将校、航空機製造会社の技師、大学の研究者などが執筆していて、かなりアカデミックな傾向が有りました。捕獲した米英の軍用機の性能調査や構造分析は詳細を極め、専門 の学術誌に近い内容でした。この雑誌を読み、"翼面荷重" 、"馬力過重" 、"巡航速度" 、"砲口馬力"   などの用語を知りましたし、"空戦性能と翼面荷重の関係" 、"空冷エンジンと水冷エンジンの得失"    なども理解しました。
   老生は1942年に中学に進学しました、その当時は正規の授業として軍事教練がありました。ところが軍より派遣された教官より、クラスに数人いた飛行機オタクの方が軍用機の知識は豊富でした。仲間が集まると教官の知識不足・時代遅れぶりを慨嘆したものです。
   書物では、「
ジェーンの海軍年鑑」  の日本版が有りました。これは、元来は英国の出版物で世界各国の海軍艦艇の写真・データを集大成したモノで、大英帝国の情報収集能力の実力を見せつける資料でした。無論、日本海軍の艦艇も掲載されていました。日本版はその縮小版でしたが、英・米・日・を始め仏・独・伊から弱小国に至るまで網羅していました。蛇足を云うならば、日本版はいわゆる海賊版だったと思われます。老生は座右に置き、主要な記述は殆ど暗記しました。
この年鑑
の大戦末期の版には 「大和」 「武蔵」 も記載されていたそうです。日本では極秘扱いで海軍士官でも存在すら知らなかった、と云われています、英国の諜報機関の卓越を示す挿話です。

   国内の英少年向きの書物には、「われ等、若し戦はば」 「われ等の陸海軍」 「われ等の海戦史」 「新兵器と科学戦」 などが在りました。
   「われ等、若し戦はば」 は一種の未来戦記です、ソ連および米国を仮想敵国とした展開でした。老生の記憶では、対ソ戦ではソ連空軍の帝都空襲、それも毒ガス攻撃を生々しく記されていました。対米戦では、米大艦隊が輪形陣   ( 戦艦・空母などの主力艦を中心に配置し、その周辺を巡洋艦・駆逐艦などの小型・高速の艦艇で固める陣形 )   を組み、太平洋を西進して来るのを小笠原諸島近海日本連合艦隊が迎撃するという図式でした。対ソ戦も対米戦も、多大の困難を超えて最後の勝利を得るというパターンでした。
   この種の書物は、敵味方の軍事力が記されていましたが、数値的には日本は常に劣勢でした。それでも、"最後の勝利は我に在り"、 というストーリーは、精神力を過大に評価し期待したのでしょう。さらに特筆したいのは、"日本は資源小国である"    との記述です。後年の南方進出を暗示していたのでしょうか。

   鉄道車両については、雑誌 「科学と模型」 「子供の科学」 および模型店の発行する小冊子などで知識を得ました。今日のような専門の雑誌は無かったのです。

   後年になって、往時の探求心と記憶力に我ながら感心します。もっとも、そのエネルギーを学業に向けたならば、別の人生があったかもしれませんが ? 
                                             <以下次号>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019年9月 1日 (日)

No.223 : 昭和一桁生まれの読書遍歴 (2)

4. 「少年倶楽部」 「子供の科学」 の衝撃

   小4の頃、友人の家で雑誌  「少年倶楽部」  を見る機会が有り、"世の中には、こんなに面白い読物があるのか"   と思いました。江戸川乱歩の探偵小説、海野十三の軍事科学小説、南洋一郎の冒険小説、平田晋作の海軍小説、佐藤紅緑の立身物語、吉川英治の時代小説、佐々木邦のユーモア小説など、が満載されていたのです。早速、親に頼んで買ってもらい、文字どおり寝食を忘れて読み耽りました。それらの作品はかなり高度なもので、そのストーリーの面白さとともに、百科事典的な知識  (主として科学知識)  も得られました。
        この雑誌は小学館発行の学習雑誌とは、全く異なる編集方針のようでした。つまり、成人向きの娯楽雑誌  「講談倶楽部」  「キング」  「富士」    等を少年向きにしたような感じでした。それですから面白い事は確かですが、夢中になり過ぎると、学業に影響したかもしれません。老生はそんな事もなく、受験勉強もこなして、難関と云われた東京府立のナンバースクールに合格しました。
   中学に入学して学友ができると、生徒に2種類の類型が有る事に気が付きました。それは、多方面の読書をした博学多識で好奇心に強いタイプと、受験勉強に専念して教科書・参考書だけしか知らぬタイプでした。このような性向は、社会人になっても変わらぬようで、前者は管理的業務、後者は専門的業務に就いているようです。

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   もう一つの発見は  「子供の科学」  でした。小学校上級生及び中学生を対象にした科学啓蒙誌で、かなり高度な内容を易しく解説すると共に、天体観測・昆虫採集・植物採集・鉱物採集などの実技、さらに模型工作  ( 飛行機・鉄道・船舶 など )  の記事が売りでした。この雑誌の内容は、小中学校の理科の教科書よりも範囲が広く、レベルも高いものでした。
   老生が特に惹かれたのは、山北藤一郎が毎号のように執筆していた電気模型の製作記事でした。それを読んだ老生は、学校で習う前に   "フアラデーの電磁法則"   を知り、応用として  "電磁石" 、"電信機" 、"電動機"   などを自作しました。1940年頃ですが、当時は模型材料店などは東京・大阪でも数店しか有りませんでしたから部品・材料の入手には苦労しした。また、金属材料が主でしたから手持ちの工具だけでは、加工・細工が困難で、様々な工夫もしました。
   後年、老生が大学で通信工学を専攻した時、級友の大半は  「子供の科学」  を愛読し、山北藤一郎の模型製作記事に熱中したと語りました。さらに卒業して勤務した電機メーカーの技師の殆どが、老生と同様の経験を経ていました。してみると、1960年代の技術革新・高度成長の中心人材は、「子供科学」  により育てられた、と云えそうです。
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上左図は山北藤一郎氏,上右図は氏の著書の表紙です。氏は模型少年の憧れの的でした。また、氏は多く模型の関わる書籍を著しましたが、この書物はその一例です。

       老生は、大学では “電気通信工学” を学び、某電機メーカーに就職しました。ここで最初に与えられた仕事は、無線機器の電源回路の設計でした。交流100v の電力線から、無線機を動作させるのに必要な高圧直流および低圧交流を得るための変圧器および整流回路が必要になります。新米の老生は変圧器の設計を命じられました。この時に、老生は山北氏の著書を参照して、30分ほど計算尺を操作して解を得ました。大学で電気機械の講義は有りましたが、理論や大型機器の構造が主で、小型変圧器の設計法は無かったのです。山北氏の著書には、模型用小型変圧器の簡易設計法が記載されていて、それが実用器材にも立派に通用したのです。
   山北氏は模型界では著名人でしたが、一般社会では無名の人でした。また、「子供の科学」 を創刊した原田三夫氏も知る人は少なかったと思われます。このような先覚者の業績は高く評価すべきだと思います。
                <以下次号>

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年8月28日 (水)

No.222 : 昭和一桁生まれの読書遍歴 (1)


1. 幼少時の読書事始め

     確かな記憶は有りませんが、老生の2歳上の姉が小学校に入学した時に一緒に行き、教室の最前列に机を与えられて、一緒に授業を受けました。1933年のことでした。学齢には達していなかったのですが、その当時は黙認されていたのでしょう。そのおかげで、カタカナは直ぐに覚え、自分で絵本ぐらいは読めるようになりました。それが、老生の読書遍歴の始めでした。
  それ以前は母親に 
"絵本"  や  "お伽噺の本"  を読んでもらっていたのですが、とにかく自分で読めるという事が嬉しかったと記憶しています。その当時 「幼稚園」 という月刊誌が有り、それを買ってもらって、拾い読みが習慣になりました。

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 上左図は雑誌「幼稚園」、 上左図は「小学二年生」の表紙です。ただし、老生が読んだのはもっと古いモノです。
   
  やがて、自身が小学生になって読書対象は 「小学一年生」→「小学二年生」→「小学三年生」 とランクアップして行きました。この頃の雑誌は漢字に ”振り仮名” が併記してあるので、かなり難しいコトバでも読めました、その意味は母親に聞いていました。この雑誌は学習雑誌と銘打っていて、教科書(国定)に沿った説明や問題解法にかなりのページを割いていました。それだけに、
小説などの読物は少なかったようです。
   小学2年生の時、怪我により数ヶ月間も病床に伏した時期が有りました。この時、母親が 「発明発見物語」 なる本を買って呉れました。この書物には、ダイナマイトを発明したノーベル、電球など多数の発明をした
エジソン、放射能を発見したキュリー夫妻、オリザニン(ビタミンB) を発見した鈴木梅太郎、テレビジョンを開発した山本忠興・川原田政太郎・高柳健次郎、らの業績が記載されていました。小学生には相当に難しい内容でしたが、何んとか読破したのみならず、その後の進路に大きく影響を受けました。即ち長じて理工系大学に学び、電子技術の研究開発者になったのです。
   この書物の著者は記憶していませんが、発行は講談社でした。菊版と云われるやや大型のサイズでした。戦災により焼失してしまったので、後年になって古書店を探し回ったのですが見つからず、国立国会図書館を検索しましたが、在りませんでした。同名の書物は見つかるのですが、老生の読んだモノとは違いました。80年も前の本ですし、その間には戦災もあって現存しないのでしょう。

2. 文学作品に触れ始めて

   小学3年生の頃、某名門校の音楽教授である伯父から 「ガリバー旅行記」 を与えられました。これは世に多い子供向きの翻案モノではなく、ジョナサン・スウイフト の原作の翻訳本でした。物語の大要は既に知っていましたが、成人対象の翻訳でしたから、意味が解らない語句が多々あり、その度に母親に訊きました。例えば   "大臣の椅子" 、 "自然の要求"  などでした。 この書によって、大人社会の権謀術数の片鱗を知ったように思います。
   さらに、夏目漱石の作品 「坊ちゃん」 「吾輩は猫である」 も与えられました。前者は子供でも大筋は掴めましたし、個々の記述もそれなりに理解したと思います。細かくいうと、やはり母親に訊いたコトバも有ります。例えば  "マドンナ" 、 "野だいこ" 、"湯島の陰間"  ,  "遊廓"   などで、今にして思うと母親を困惑させたようです。後者は始めて始めて読んだ時に、「これは小説か?」 と思いました。それまでの読書経験では、小説とは発端から大団円に至る波乱万丈の物語である、と思い込んでいたからです。とは云っても、軽妙な文章、鋭い文明批評に触れて大人の文芸作品と感じ取り、自分も大人の世界に踏み込んだものだ、と感じました。
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上左図は「ガリバー旅行記」、上右図は「吾輩は猫である」の表紙です。老生が読んだのは以前の版ですが。

3. 歌舞伎の脚本集・落語全集などを読む

   老生の母親は歌舞伎鑑賞が好きで、その脚本集が有りました。
また、父親は落語を好み寄席にも通っていたので、その全集も有りました。これらの書物も片端から読みまくりました。歌舞伎も落語も一昔以上も前の物語であり、成人の世情が舞台です。10歳そこそこの子供に全貌が判る筈はないのですが、既に活字中毒になりかかっていた老生は、「盲人蛇に怖じず」 という調子で読みした。

   ここでも、いろんなコトバを知りました。例えば、"惣領の甚六" ,  "放蕩息子" ,"勘当" 、"居候" ,  "花魁"   などで、例により母親を困らせたようです。さらに、「不義は御家の御法度」「重ねておいて四つに・・・」 に至っては絶句させたに違いないでしょう。何んとも早熟な小学生でした。

   しかしながら、母親はこの種の本を読むのを禁じませんでした。母親は今でいう「教育ママ」でしたが、受験勉強を強いるタイプでは無かったのです。時の小学校教育は、"教科書至上主義"   が主流だったようで、老生の通った小学校の校長はその分野の有力者でした。その校長は学習雑誌さえも排撃しました、況して小説・物語・雑学の類は禁書扱いで、父兄会の折に好ましからざる旨を力説していたそうです。そのような風潮のなかでも母親は別の見識を持っていたようです。当時、情操教育を主張する別派の教育者の一群も居て、そちらの意見に好意を抱いていたようでした。

              <以下次号>

 

2019年8月22日 (木)

No.221 :隣の芝生は青い(3)

6.  「大学学費の無償化」

  近時、"大学学費の無償化"  が巷の話題になり、それを政策として力説する政治家が増え、賛成する識者も多いようです。世の中には能力も意欲も有りながら家庭の経済力の故に大学進学を断念する若者は少なく無いようですから、この主張は時宜を得たものと云えます。多くの論者は諸外国の例を挙げ、日本もそれに倣うべきだと力説します、しかしながら、どこまで実態を把握しての主張であるのか疑問を呈したくなるような人も中には居ます。
  真っ先に問題になるのは財源です、これには型の如き名論卓説が幾つも展開されていますから、ここでは触れません。それよりも、諸外国の詳細な実態を知りたいと老生は思います。一口に "大学学費の無償化"  と云いますが、対象学生の成績を問題にしないのか、専攻分野に制約はないのか、卒業後に何らかの義務はないのか、学生の家庭の経済力を考慮しないのか、等々の疑問が直ちに生じます。

       北欧のある国では、医・理工・法・経営などの実学分野の学生には適用されるが、文学・芸術などの分野は個人の趣味嗜好に関わる分野として対象外であるとの情報もあります。老生は未だ裏付けを取っていませんが、妥当な選別だと思います。
  国により事情は違いますが、日本の場合、大学の数は700を超えるそうです、その中の底辺校の学生には分数の計算も出来ず、百分率の意味も解らず、英文の進行形現在や過去完了も知らぬ学生が少なく無いといわれます。このような低レベルの学生まで税金を投入して学費を無償化するのは如何なモノでしょうか? 
また、そのような学生の専攻分野は殆どが地道な積み上げを要する理系分野ではなく、“情報” とか ”国際”   などと云う「冠コトバ」の付いた当世流の一見カッコ良いが、焦点の定まらぬ学部に籍を置いているようです。

  老生が独断と偏見を以て暴論を云うならば、"大学無償化” は  "S, A, B ランク"  の大学生ぐらいまでを対象にすべきで, それ以下の  "Fランク"  までを含めるのはバラ播きと云うべきでしょう。
老生は、民間企業と教職の両方の世界に在職しました。その経験からも、無条件での大学無償化には疑問を呈します。世には、その孰れにも経験のない政治家や識者が、海外の事例を充分に調査せずに、声高に論じてい
るようですが、老生は疑問を呈します。


7. 「ゆりかごから墓場まで」

    第二次大戦後に、英国では労働党が政権を執り世界初の福祉国家を実現しました。その核心は、日本的に云えば ”医療保険制度"  と "年金制度" です。 後に北欧諸国が福祉国家として著名になりましたが英国が先駆であったようです。当時、英国は戦勝国であり、世界に植民地を持っていた経済大国でしたから、そのような政策を実施する経済基盤は有ると立案者は考えたのでしょう。
  老生が社会人になったのは1952 年です。まだ戦後を払拭しきれない時代でしたが、"健康保険料" 、"年金保険料"  は給与から天引きされていました。老生の記憶では、英国の制度が 「ゆりかごから墓場まで」  と云う
キャッチ・フレーズ で伝えられたのは、それよりも後だったと思います。してみれば、日本は実質的には進んでいたわけです。

   それはそれとして、英国の制度は数年にして危機に陥りました。それは、戦後の英経済は 「英国病」 と云われるほどの不振に見舞われたからです。植民地を順次手放した上に労組の力が強過ぎて生産性が低下し国際競争力を失ったからだと云われています。その理念とやらは立派なモノであっても、それを実現するための背景が確かでなければ「絵に描いた
餅」に過ぎません。

         ここで老生が云いたいのは、日本でも既に同様な世策を実施していたと云う事実を把握せずに、「さすがに英国だ、日本も見習うべきだ」  などとゴタクを並べた論客の不勉強ぶりです。彼等は特に左翼系の論者が唱える施策を金科玉条として、日本もそうすべきだと、と声高に叫んだのです。
   その後、英国では政権が交代し、 "鉄の女"  サッチャーが首相に就任して政策の見直しが行われてました。サッチャーは 「金持ちを貧乏人にしても、貧乏人が金持ちにはならない」  との名言を吐いたと伝えられます。まず財源が必要で、それが不十分では如何なる福祉政策も不発に終わる、と云う事です。
   今日、諸外国とくに北欧の福祉政策を妄信する方は絶えないようです。英国の前例も併せて考慮すべきではないでしょうか? 


8. 「その他モロモロ」

   1945年の敗戦後、米占領軍等により米市民の社会・家庭の様相が洪水のように伝えられました。どん底生活に喘いでいた日本人にとっては、夢の世界でした。当時の交通・通信事情は現在とは比較にならないほど貧弱なものでしたから、僅かに伝えられる一方的な情報を鵜呑みにしたのです。その中には、針小棒大な話、局部的な事例を普遍的な事象であると思い込んだ談話、などが無数に有りました。相応な見識を持っている筈の識者の視察談などでも、怪しい箇所は幾らもありました。
   例えば米国では 「モータリゼーションが進んでいる、欧州諸国もそれを追いかけている、日本もそれに倣うべきだ」 と云う説が有りました。この論者は国土面積の差やガソリンの入手経路の遠近などを一切考慮しなかったようです。このような論者は新幹線の計画を時代錯誤の暴挙であると断じました。
   また、「路面電車などは自動車の走行の邪魔になる、撤去すべきだ」 との論も現われ、その故か大都市の施設は殆ど撤去されてしまいました。近時、その良さが再認識されて、地方都市などでは拡張される例が有ります。
   都市の公園の広さを論じて、ニューヨークのセントラル・パークやワシントンのメトロポリタン・パークを引き合いに出し、東京の日比谷公園と比べて云々した識者もいました。この方は国土面積が米日では20倍も違う事を知らなかったようです。さらに云うならば、東京には他にも上野公園・後楽園・濱離宮などの公園が有り、合計すれば相当な広さになります。この程度の知識も持たずに、したり顔をする人は少なくなかったのです。

9. 「おわりに」
   以上、思いつくままに、独断と偏見の雑文を並べました。
お読み頂いた方に謝意を表します。

                   <以 上>

 

 

 

 

  

2019年7月21日 (日)

No.220 :隣の芝生は青い (2)

5.  「共産主義社会への幻想」

   1945年の敗戦に伴い、怒涛のように押し寄せたのは米英流の "民主主義思想"   でした。次いでソ連流の "共産主義思想"  が伝えられました。どちらも戦前の大正期の頃より伝えられてはいましたが、当時は日本の国情に馴染まない危険思想と見られました。特に共産主義に関しては、文献資料を持つのも禁止され、密かに所有していると官憲に摘発されました。況してや秘密党員と判れば拘束されたのです。
        民主主義は占領政策の一環としてとして導入されましたが、既に素地は大正期より徐々に浸透していましたし、日本の国情と対立することは少なく、いわば "ソフト・ランデイング"  的に受け入れました。一方、共産主義の方は日本の国情と馴染み難い面が多く有りました。その故に戦前・戦中の共産主義者は、海外に亡命するか、国内の刑務所に収監されていました。それらの人々が戦後に凱旋将軍のように登場しました。しかしながら、違和感をっ持つ人も少なくないようでした。
   共産主義は、"階級の無い社会",  "搾取する資本家が存在しない社会",  "不況の起こらぬ計画経済",  "教育・医療の無料化", "能力に応じて働き、必要に応じて与えられる社会”、を主張します。真に立派なスローガンです。しかしながら、その実現には、従来の社会システムを一変させねばならず、その過程では手荒い措置も強行されました。世界初の共産主義国家  "ソ連邦"  は  "帝政ロシア"  を抹殺して誕生しました、換言すれば  "暴力革命"  です。ロシアでは 1917年から1922年 まで内戦が続きました。
   また、ヒトには欲望が有り、能力には個人差が有ります。同一労働同一賃金の原則を徹底すれば、能力の有る人は処遇に不満を抱き、能力のない人は成果が上がらなくてもそれなりの処遇が得られると甘い考えを持ちます。結果として士気の低下を招き,生産性は上がらず、作業の質は低下します。それを防ぐには、ある種の強権を要します。
大正年代の末期に有名作家の K.K 氏は 「人類が何千年もかけて成立させた社会が、一片 の政治思想とやらで簡単に変わるものだろうか?」 と評しましたが、正鵠を射たコトバでした。

   ここで老生が指摘したいのは、1900年代前半の情報通信・流通の速さと量は、現代に比して桁違いに貧弱であったという事実です。欧米からの書籍・文献の送付は船便しかありませんから1ヶ月以上要しました。世界的な電話網は無く、電信が中継を重ねて情報を伝えましたが、即時とは云い難く情報量も限られました。国際的なラジオ放送が有りましたが、音声による一方向伝達に限られました。
   それですから、共産主義の聖典ともいうべき 「資本論  (ドイツ語) 」  を手にして読破した人は極めて少なかった筈です。大学の研究者などに限られました。また、この書物は経済学の専門書であって、資本主義社会の矛盾を指摘し、自己崩壊を経て共産主義社会への移行を示唆していますが、その移行の経過や方法の具体的な記述は有りません。換言すれば共産主義革命のガイドブックやマニュアルでは有りません。
   一部の大学教授や社会運動家は、資本論の膨大且つ精緻な論証に幻惑されて、"これこそ人類社会の未来への指針だ” と受け取ったようです。教授は学生に講義し、社会運動家はアジビラを配り、集会で演説しました。両者とも、云わば ”絵に描いた餅” を伝えたわけです。ロシア革命の成功は華々しく伝えられましたが、その実態を見聞し正しく評価したヒトは殆ど居なかったのでは無いでしょうか?  西欧の知識人、例えば、"バーナード・ショウ"、"ロマン・ローラン"、らも理想と現実の落差を看破出来なかったようです。
   遥か後年の1955年に T
大 の O.H 教授らがソ連を訪れ、翌年に訪問記を著しました。その中に 「社会主義を勉強すること40年に及んだが、それが  "ユートピア"  であるか  "科学"  であるか、はっきり判らなかったが、ここへ来て色々見学して、"科学"  であることがしかと判った」  と記しています。招待されての訪問ですから、社交辞令的な表現もあるでしょうが、お粗末な話です。O.H 教授は多年にわたり、共産主義国の実態、特に市民生活を把握せずに、"夢物語"  を学生に講義していたのでしょうか? この時のソ連訪問は公的な招待ですから、その訪問客に弱味を見せるような事は無かった筈です。
皮肉な事に、翌1956年のソ連共産党大会で "スターリン批判"  が公になりました。"スターリン神話"  は
一挙に崩れました。それでも O.H 教授の訪ソ礼賛の著作は、何らの変更もなく版を重ねました。
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上左図はマルクス著の「資本論」、上右図は O.H教授 著の "ソ連訪問記" です。

   労働運動家にしても事情は同じです、彼等はソ連社会の実態を直接に見聞する機会は少なく、例え訪ソしても公式的な視察に於ける説明や宣伝文書の類を妄信して労働者の天国と想い、”祖国ソ同盟” などと称揚し、そのような社会になるべきだと力説し続けました。

   第二次大戦後に米ソ二大国は冷戦状態に突入し、核開発・宇宙開発・大陸間弾道弾などで鎬を削りました。この時期にソ連の宇宙技術や弾道弾開発が米国に先行した事も有りましたが、遂に1991年に至り国家の崩壊という破局を迎えました。粗く割り切れば、資本主義は共産主義に勝利したという事です。
共産主義国家・ソ連邦を賛美した多くの論客は、負け惜し的な言辞を弄しつつ次第に沈黙しましたが、反省
のコトバは遂に無かったようです。

   ソ連の賛美に続いて、中国・北朝鮮を担ぐ人々も輩出しました。彼等の多くは公式招待を受け、お定まりの視察コースを見学して公式説明を聴き、宣伝文書を持ち帰ったのです。ある人気作家は招待旅行後に「北朝鮮には、悪魔のような税金がない、天国だ・・・・」  と書きました。国家組織を運営するには、少なからざる財源を必要とします。所得税が制度として無いとしても、何処かで何らかの形で財源は得ている筈です。例えば、元の原稿料から税金を天引きした額を原稿料として渡せば、作家は見かけでは税金を払った感覚はないかも知れませんが、実質的には徴税されているのです。
この程度のカラクリに思い至らないとは、作家氏の経済・社会常識に首を捻りたくなります。
   ある時期に訪中者の見聞記が多数出版されましたが、判で押したような決まり文句が有りました。曰く、” 北京の空は青かった" , "中国には ハエ がいない" , "街で見る子供の眼は澄んでいた" , "遺失物は必ず持ち主に戻る", 等々。大学教授・評論家・新聞記者・作家・旅行者 などが異口同音に同じコト
バを並べました。恐らく中国側からの再三に及ぶ広報を受けて洗脳されたのでしょう。
ある著名な女流作家が 「中国には ハエ もいるし、こそ泥 もいる」  とエッセイに書いたところ、某大学教授が猛烈な勢いで反論を展開したケースが有りました。この際、感情が激したのか女流作家を誹謗するような非常識ぶりを示しました。それほど、中国に取り込まれていたのでしょう。

      ここで、老生の独断と偏見を云うならば、共産主義国を訪問・視察して共鳴・感動するのは文系識者に多いようです。彼等は科学技術の成果である  " 社会インフラ"  や  "ハイテク工業"  の実力を見極められず、先方の宣伝を鵜呑みにしました。
彼等は、日本の高度な産業技術の実力を知らずして、共産圏の旧式で低効率の図体だけは大きい設備を見学して、「素晴らしい、大したものだ」 とのコメント
を多発していましたが具体的な生産量や品質・性能についての言及は有りませんでした。
  一方、理系識者は冷徹な目で観察し、厳しい評価をしていました。例を示すと、ソ連崩壊を10年も前に予測した K.H 博士はモスクワの地下鉄駅の設備に鉄製品が少ない事を観察し、軍備は強大でも市民生活の物資は不足している、と指摘していました。因みに博士は数学を専攻し、後に法学で学位を得たマルチ研究者です。
また、国際アナリストの H.K 氏 は北朝鮮の理科教室を視察し、雑多な実験器具や設備器具を並べたに過ぎず,配線や配管は好い加減であった、と指摘しています。氏は工学部の出身でしたから、直ちに実態を看破しました。
一般に、理系識者は公式招待による視察であっても、実態をかなり正確に把握しています。これに反して文系識者の中には先方の誇大な宣伝的説明を鵜呑みにする傾向が有ったようです。極端な話では「毛沢東語録」の精神に忠実であれば、素朴な設備を使った手作業でも高度の製品が造れる、と信じたらしい発言をする人まで現れました。太平洋戦争の末期に、「大和魂を以てすれば、竹槍で戦車に対抗できる・・・・・」と唱えられた事が有りましたが、それと同様の空虚な精神論だと感じます。

                 <以下次号>

 

 

 

2019年7月14日 (日)

No.219 :隣の芝生は青い 、一知半解の思い込み (1)

1.   「隣の芝生は青い」

  上記のコトバは日常生活でかなり頻繁に使われます。自分の生活環境に比して他人のそれが、より良く感じられる、という意味でしょう。ヒトは誰でも無意識に自他を比較して一喜一憂する性向があるようです。それが、個人レベルに止まっているならば実害は少ないでしょうが、国家の政治思想や社会体制の比較・批判に及ぶと、時に大きな影響を与えるケースも少なくないようです。


2.    「東洋のスイスたれ」

  1945年に日本に占領軍総司令官として赴任した米軍・マッカサー元帥は、日本国民に進路として 「東洋のスイスたれ・・・・」  と折に触れて示唆しました。当時、日本の国土は焼土と化し、産業・経済は壊滅状態に在りました。陸海軍は解体され、治安維持に当たる警察は非力でした。このような混乱期にマッカーサー元帥は一つの指針を明示したのです。
  元帥の意図が奈辺に在ったかは不明ですが、敢えて忖度すれば、「スイスは  "永世中立の国"  を宣言し、諸外国も承認している、日本もそうすべきではないか?」  という意味だったと思われます。日本の為政者・識者の多くも、そのように受け取りました。そうして、多くの言論人が賛意を表しました。
  この時に、故意か偶然か、或いは意図的にか、"非武装"  というコトバが紛れ込みました。つまり、「非武装・永世中立」  の国と錯覚し、少なからざる論者が 「日本もそうなるべきだ」  と自説を展開しました。

  しかし、スイスは  "非武装"   国家では有りません。レッキとした  "国民皆兵"   の制度を堅持しています。成年男子は自宅に  "小銃・弾薬"   を保管し、有事の際にはそれで武装して前線に駆け付けます。さらに、定期的に  "射撃訓練"   が義務付けられています。また、各家庭では、1年分の   "食糧ストック"  が義務化されています。さらに驚くべきは  "核シェルター"   が要所には設置されています。
  それですから、山紫水明の観光地として、或いはアルプスの娘
ハイジの故郷としてのイメージとは裏腹の  "ハリネズミ的武装国家"   なのです。さらに云うなれば優秀な武器製造の国でも有ります。スイス・エリコン社が開発した "機関砲"  は各国が購入またはライセンス生産しました。日本海軍の名機  "零式艦上戦闘機"   が搭載した  "20ミリ機関砲”   もそうでした。
また、米ソがミサイル開発を争っていた時期に、スイスは独自の  "地対空ミサイル"   を発表して世界を驚かせた実績も有ります。
  要すれば、スイスの 「永世中立」 は強力な軍備により保たれているのです。その実態を見落としたのか、故意に触れなかったのか、日本は 「非武装・中立」  で行こう
という論を力説した論客は多数いました。
実態を正視せず、自説に都合の良い一面のみを採り上げる 「一知半解」  の姿勢は、「隣の芝生は青い」  という発言に似通っているのではないでしょうか?


3.   「米国では、学歴は重視されない、大卒でなくても出世できる」

  米軍が日本を占領した折に、主要官庁の幹部を調査して殆どが東大法学部卒である事を知り,一驚したと当時の新聞は報じました。その記事では、「逓信省  (今の "NTT" に相当)  や鐡道省  ( 今の "JR" に相当 )  のような現業を扱う官庁を何故  "法学士"  が支配するのか?」 との疑問を呈した、と書かれていました。この記事は、かなり話題になり、多くの論者が敷衍して意見を展開しました。
  その多くは、「日本の主要な組織では、東大法学部を頂点とする有力大学を卒業していないと幹部にはなれない。一方、米国では大学卒でなくても、実力と努力で高い地位に就ける。現に歴代大統領でも有力大学卒は多くない。大企業の経営層も同様である。
日本も米国にならうべきだ」 というような趣旨でした。

      その論説の多くは充分な調査も検討もせずに、思い込みを敷衍したお粗末なものでした。米国の歴史は浅く移民の国でしたから、社会制度が未整備であった時期には、「強い者勝ち」 の傾向が有ったと思われます。カッコ良く云えば 「実力主義」 ですが、悪くとれば 「弱肉強食」」 とも云えます。大統領にも大企業経営者にも、いわゆる 「たたき上げ」 が幾らもいました。
       しかしながら社会体制が整うにつれて、それを管理運営するには相応の学識が求められて来ます。換言すれば、高学歴者が幹部候補として遇せられ、その中から幹部・首脳が輩出します。低学歴でも努力と運により社会の上層部に昇り着くという   "
アメリカン・ドリームの時代"   は過去の夢物語となりました。
       米国でシリコン・バレーを中心に半導体分野の成功者が続出した時期に、「大学で電子工学を修め、大学院で "MBA" (経営学修士) の学位を得るのが成功への道だ」 と云われたそうです。これは、既に学歴信仰ではないでしょうか? また、米軍の最高幹部には修士号の学位を持つ人が少なく無い、とも伝えられています。

       主題の説が喧伝されたのは数十年前の事ですから、現在とは相当に乖離があると考えられますが、その当時でも 「実力と努力があれば、高学歴でなくとも社会で成功し得る」  との説は伝説化していたと思われます。それを喧伝した人士は、どこまで実態を把握していたのでしょうか?


4.  「日本の大学入試は地獄と云われる程の苛酷な一発勝負だが、海外では誰でも好む大学に進める」

   このような論説は、一時期に横行しました。論者は、特にドイツやフランスを採り上げました。しかしながら、比較的早い時期に大学進学コース・専門学校進学コース・実社会に進むコース、の "振り分け" が行われて行われている実態を見落としていたようです。
         ドイツでは満11歳で試験が有り、その成績に応じて "ギムナジウム",  "リアル・シュール",  "ハウプトシュール”  と振り分けられるそうです。"ギムナジウム"   は大学進学を目指し大卒後は社会のエリート層を期待される人材が入ります。"リアル・シュール"   は専門学校をを経て、中堅ホワイトカラー層を狙う人が進みます。”ハウプトシュール"   は卒業後に実社会に出てブルーカラーになります。
"ギムナジウム"   の卒業試験をパスすれば  "アビトウール"   という大学入学資格が得られ原則的には、どこの大学にも入学できるそうです。この制度では、資格獲得者数と大学入学定員がバランスしているという前提です。換言すれば、11歳の時点で選別されているから、大学入試での選抜は起こらないのです。
   とは云っても、医学部・法学部などは希望者が多いので、”ギムナジウム"   での成績如何では希望が叶えられないケースも有るそうです。

   フランスでは、高校卒業に際して、大学入学資格である  "バカロレア"  を獲得するのが前提だそうです。この試験には哲学の論述試験が課せられるので有名です。この記述は4時間にも及ぶそうです。しかし、これを得れば、希望の大学に入れる筈だそうです。とは云っても希望者の多い学部では何らかの選抜が有るそうです。なお、大学入学資格を得るには高校に入学を要しますが、広き門ではないようです。
   また、フランスでは "グランゼコール"  という超エリート校が数校在って、この卒業生は若くして指導的立場に立つそうです。その入試と在学時の研鑽は非常に厳しいそうです。

   英国は、元来が階級社会ですから、私立名門校進学については家柄・出身がモノを云うようです。また、国公立の場合は、11歳試験による選別があるようです。

   以上、先進各国は、細部の差異はあっても、11~12歳ぐらいの時点で学業成績による "振り分け" を実施しています。これは当然であって、指導層・管理層はそれなりの学識と判断力・企画力などが求められ、それには相応の素質のある者に教育・訓練をする必要が有るからです。
   身も蓋もない言い方をするならば、素質も能力も欠ける人々に高等教育を授けようとしても、成果は期待できません。その "振り分け"  を11~12歳ぐらいで行うのが妥当であるか否かは議論のわかれる処ですが、欧州諸国では永年にわたり実施しているようです。

   日本には、「分数計算の出来ない、パーセントを理解しない、英語の進行形現在や過去完了がわからない、・・・・・大学生」  が溢れています。日本では11歳試験に該当する選別がなく、大学入試が結果的には選別に近い機能を果たしていますが、それは "Sクラス" , "Aクラス"  の大学のみです。それ以下の大学になると次第に怪しくなり、”Fランク"  ともなると、自分の姓名を正しく書ければ入学できる、とさえ囁かれているそうです。このようなレベルでは、社会に出ても大卒にふさわしい仕事に就くのは困難でしょう。

   また、韓国・中国・インドなどの急成長の国々の受験競争は世に知られています。要するに高学歴が人生の成功に関係すると認識される国々では、程度の差と様式の差があっても、競争と選別は避けがたいようです。激烈な競争無しで誰もが希望する大学に進めるというのは白昼夢に過ぎません。

   繰り返しますが、厳しい競争を経ずに希望する大学に入学できる国も制度も存在しません。むしろ、如何にして国家社会を率いる英才を発掘し育成するかに苦心している筈です。

               < 以下次号 >

2019年6月14日 (金)

No.218 : 日本産業の衰退に想う (6)

 「八つ当たり的妄言多々」

1. 「自分探し・フリーターの蔓延」

  何時の頃からか、「自分探し・・・・」  なるコトバが現れ、無責任な疑似言論人の発言が相次ぎました。高度成長の恩恵で市民生活は豊かになり、正業に就かなくても不定期のアルバイトで、そこそこの日常生活が保てるようになりました。その故か、官公庁・企業などの束縛の多い職場を嫌い、気ままなアルバイトで生活費を稼ぎ、自分の好む趣味・嗜好に没頭するのが有意義な人生の過ごし方である、という風潮が生じました。老生が勤務した企業でも、そのような人は何人か在職していました。その中の一人は、シーズンになると長期休暇を取って海外の名峰にアタックしていました。むろん、企業内での昇進・昇格は始めから放棄していました、昇給・賞与の査定は最低でした。ご当人は、それが生き甲斐なので、それなりに割り切っていたようです。通常の勤務態度は真面目でしたから、周囲の同僚も許容していました。
  しかしながら、このような風潮の蔓延は社会の経済活力を減殺する方に働くのは否定できません。疑似識者は、「自分探し・・・・」  「自己に忠実な生きかた・・・・」  などと、カッコ良いコトバを連発して前途ある若者を惑わし、延いては経済成長にブレーキを掛けたのです。

 

2. 「 "産業戦士" から "社畜" へ」

  高度成長期には、大量の若い労働力が地方から工業地域に集められ、大いに活躍しました。彼らは  "金の卵"  と称され、やがて一人前の  ”産業戦士”  に育ちました。当時は  "猛烈社員"  と云うコトバが現れ、"24時間、戦えますか"  などと云う栄養剤のキャッチ・コピーが流行りました。
ところが、1990年頃に  "社畜"  という不愉快極まるコトバが広まりました。企業に飼いならされて、経営者の云うがままに無批判に馬車馬のように働く勤労者を指す侮辱的な表現です。高名な評論家が多用しました、評論家氏は経営者側への警告・苦言を意図した発言であって、勤労者を貶める意図ではない、と釈明
しました。
   しかし、このコトバは勤労者の意欲を低下させました。海外から、「 "うさぎ小屋" に棲む働き中毒の奴ら」  と云う悪罵を投げかけられた時には黙殺しましたが、今度は違いました。国内の身内からの論難・冷笑と受け取ったのです。勤労意欲は低下し、経済活動が停滞する引き金になったと思われます。

3.   「研究開発者は冷遇される」

  先に記した  "プロジェクトX"  等の中心人物は、前人未到の成功を収めた後でどのように処遇されたでしょうか? 明確に示した資料は少ないようですが、断片的に探ってみると組織内での地位や報酬で充分に恵まれた例は少ないようです。
      例えば青色発光ダイオードの開発でノーベル賞を得た "中村修二博士" は、当初2万円ほどの報奨金を得たに過ぎませんでした。この発明の事業化により、勤務先の 「日亜化学子業」  は地方の中小企業から一躍有名企業に成長しましたが、 "中村博士" への見返りはゼロに
近い微少なものでした。後に "中村博士" は訴訟を起こし200憶円を要求して世に衝撃を与えましたが、結果として8憶円ほどの和解金を得たに過ぎません。遂に博士は米国の大学教授に転身し、国籍も変えました。
"中村博士" は米国の研究者仲間から "Slave Nakamura (奴隷の中村)"  と同情やら揶揄を受けたそうです。
  実は、日本企業では、"企業内の職務に基く発明・特許の権利は企業に属する"  という慣習が有ったのです。老生が就職したのは60年も前ですが、上記のような内容の誓約書を書かされました。(契約書では有りません。)  近時の情報では特許法を改正して、相応の対価を発明者に支払った上で権利は企業に属すると明記されるそうです。この改正案が施行されて、事態が幾らかでも好転するのを期待したいものです。
  "中村博士" のケースは超大型テーマであり、博士自身も積極的に活動したので、紆余曲折を経て最終的には相応の名誉・地位・報酬を得ましたが、大部分の  "プロジェクトX"  の主役は、僅少の報奨金 (一時金) と中間管理職ぐらいのポストで定年を迎えたようです。それどころか、定年間際には
"金の卵" を期待できなくなったとして、閑職に追いやられた例も皆無ではないようです。
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上記左図は "中村博士" の著書、右図はこれまで殆ど知られていなかった理系人の実態を詳述した著作です。どちらも、開発者 (理系人) が仕事の質・量および成果に比して処遇は恵まれない、と強調しています。

 

4. 「成長を懐疑的に捉える言説」

  1972年に "ロ-マ・クラブ" が発表した 「成長の限界」 という報告書は, 世界に衝撃を与えました。その要旨は、世界の経済生長が何時までも続くとすれば、資源が枯渇し、環境が汚染され、この地球上に何時まで人類が生存し得るか、という問題提起です。この報告書は世界各国に流布し、識者によるは啓蒙的な解説が氾濫しました。
  これより以前に日本では高度経済成長を批判した 「くたばれGNP」  などの論説も有りましたが、その内容は、"環境汚染"  と  "過重労働"   の2点から論じたもので、"資源の有限性"  には触れていなかったようです。ローマ・クラブの報告書は  "資源の枯渇"  と云う視点を重視したのが画期的でした。

  この報告書に触発されたのか、経済生長を懐疑的に見る論説・論評・エッセイの類が雨後の筍のように現れました。その多くは 「成長の限界」 の亜流でしたが、中には脱線して技術革新そのものを否定するような粗っぽい説を説く人も現われました。
   例えば、ある作家はデジタル社会を論難し、「誰も頼まないのに、IT オタクが次々と新しい機器やシステムを押し付けて来る」  
と記しました。この作家氏は原稿を手書きするのでしょうか? そうだとしても、出版社側で行う査読・校正・割付・レイアウトには情報技術が使われています。さらに印刷・製本・出荷・販売管理などもデジタル機器が行います。作家諸氏への原稿料・印税の計算・送金もデジタル技術で処理します。このような一連の処理を全く考えた事が無いのでしょうか? ちなみに、この作家氏は米アップル社の創業者を  「小才の利いた男に過ぎぬ」  と切り捨てました。
  このような説を唱える識者 (特に文芸系)  は技術革新の恩恵は黙って享受し、気に入らぬ面は声高に罵倒する傾向が有ります。困った事に彼等は発言・発表の場を持ちますから、市民層に技術革新を批判するだけでなく、否定するような風潮が生まれます。民主党の有力者が 「事業仕分け」 とやらでスーパーコンピュータの開発にブレーキを掛け 「2番ではダメなのか」 と云う大愚問を発して顰蹙を買った例も有ります。

5.  「大局観と総合判断力」

  文系識者の或る方々は、文系人は理系人に比して 「大局観と総合判断力に勝る」   と主張します。しかしながら、その論拠は明示されていません。彼等は、主要産業の経営幹部の経歴・業績を精査して理系出身か文系出身か、どのような経営判断をして、どれほどの業績を挙げたか、というデータは示していません。ただし、上記のような粗雑な論を云う方は文系識者の中でも文芸系の方のようで、経済・経営系の方々はこんな迷論は云いません。
      例えば、世界的企業である  "ソニー"  の創業者の井深大氏は、町工場的な存在に過ぎなかった東京通信業の社長でしたが、
トランジスタの国産化を当時の監督官庁の難色を押し切って断行し、次いでトランジスタ・ラジオ、ウオークマンなどのヒット商品を世界中に広めました。氏はレッキとした理系人です。氏は、後に文化勲章の栄誉に輝き、早大からは名誉学位を授けられました。他にも傑出した理系事業者に、ホンダ自動車の創業者である本田宗一郎氏、京セラの創業者の稲盛和夫氏らの人材がいます。松下電器を世界企業に成長させた松下幸之助氏は米タイム誌に、事業家だけでなく哲学者としても紹介されました。
      文系人で、革新技術分野で業績が明らかなのは、正力松太郎氏ぐらいではないでしょうか? 氏は読売新聞・職業野球などの実績を持っていましたが、”民間テレビ放送"  という分野を立ち上げました。氏は創業に際し、国産機材の整備を待たずに、輸入機材で開業しました。当時、批判は多かったのですが、氏は 「
とにかく、テレビ放送事業を立ち上げるのが先決だ、機器の国内生産などは追い付いて来る」  という発想だったのでしょう。これは氏の大局観による総合判断でした。
      また、ナイロンの国産化に関して、東レ(株)では社内技術が完成間近でしたが、敢えて米デユポン社に高額のライセンス料を払って技術導入を図りました。経営首脳は、デユポン社のネームバリューと先行した実績を買ったのです。事業としては大成功でした、経営首脳 の総合判断の勝利と云えます。
上2例のように文系首脳による「大局観に基く総合判断」が成功した事例は有ります。しかしながら、2例とも海外に前例が有りました。前例も類似例も無い場合はどうでしょうか?

   先に記した  "GAFA"  のケースなどは如何でしょうか? その創業者は、「教養 (文系) を深めた」人材ではなく、「大局観に基く総合判断」 で意志決定をして成功を収めたわけでは有りません。彼等は、自己のアイデアに賭け前人未踏の分野に突進したのです。彼等の創始したビジネスには前例も類似例も無かったのです。前例や類似例のある分野ならば、自社の経営資源 (ヒト・カネ・モノ) と市場・販路などを勘案して 「大局観に基く総合判断」 を推進るのは、さほどの難事ではないでしょう。既成の組織であれば、役員会の決定という 「責任の分散」 も有り得ます。
   日本では、残念ながら  "GAFA"  の創始者のような人材を認め、支援するような組織も風土も充分では無いようです。一部の文系識者は、"哲学・文学・芸術・歴史・・・・・
科学などを広範に詰め込んだ人材"   が 「大局観を備え総合判断に基いて未来を指向するリーダーになる」  と力説しますが、老生は甚だしい違和感を持ちます。そのような人材は、それなりに貴重な存在ですが、未踏分野に的確な判断が下せるとは期待できないと考えます。
                <以上>

 

2019年5月25日 (土)

No.217 :日本産業の衰退に想う (5)

「続・"プロジェクトX" の時代は終わったか」

     テレビが "プロジェクトX" などの番組で、世の関心を集めていた頃に、ノンフイクション作家・評論家らによる先端技術開発の物語が幾つか発表されました。著者は、田原総一郎・柳田邦男・立花隆・内橋克人らの錚々たる人々でした。書物の形だと細部に及ぶ記述が在り、また要点を探しながら何度も調べる事が出来るのでテレビ映像よりも記録としては有効だと思われます。
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  しかしながら、このようなカテゴリーの書物は、2000年ぐらいから、激減したように感じます。低成長時代に入り、画期的な製品が生まれにくくなったのと、人々の関心が薄くなったからでしょうか?
この現象は「ニワトリが先か、タマゴが先か?」の論争と似ていますが、敢えて云うならば実績が先行すると、老生は思います。( ただし、実績が先行するには、ある前提があるのですが )

  1945年の敗戦の時、全土は焼土・廃墟と化し、生活水準は何十年も昔の状態に逆行しました。その時に、米占領軍を介して伝えられたた米国市民の生活は、目が眩むほど華やかなもので、夢の生活と感じられました。日本人の生活が米国のレベルに達するのは、永久に不可能とさえ思えたものでした。
それでも、多くの無名の市民は、幾らかでも生活を向上させようと、必死に努力し知恵を絞りました。その結果、1956年の経済白書には「もはや戦後ではない」と記されるまでになりました。約10年にして経済規模・市民生活は戦前の水準に戻ったのです。
  一方、米国などでは、戦時中に開発された先端技術が民需に波及して行きましたので、市民生活はより便利で快適になりました。それですから、日本が進めば米国はさらに進む、と云う状況で日米格差は容易には解消しませんでした。
1960年に池田勇人総理は「所得倍増論」を提唱しました。その政策
の中には「科学技術振興策」が有り、工学系の高等専門学校を多数新設し、大学の工学部を増強しました。この技術教育の成果は 続く「高度成長期」に示され」、自他ともに認める技術大国に成長しました。そのような社会情勢に於いて "プロジェクトがX” 的な行為は幾らも有りました。その中で大きな成果を挙げた例がテレビやノンフイクション作品で紹介されたのです。
   1980年に "バブル崩壊" にが起こり、金融機関は不良債権 (多くは不動産・建設関連) の処理に苦しみ製造業への融資を引き締めました。そのために、研究開発費が窮屈となり、魅力的な新製品が生まれ難くなりました。それでも営々と努力を重ねて、停滞から脱しかりましたが 2008年にはリーマン・ショッックが起こって、再び不活発な状態に戻りました。
企業は利益を得ても、研究開発費に回さず、社内留保に向けました。このような職場環境では、"プロジェクトX" のような "アンダ
ーグラウンド研究"  さえも困難になります。全ての管理体制が厳しくなり、時間外の無料作業も、廃棄処分資材の流用も出来ません。要するに、高度成長期には黙認されていたモロモロの事が、不況・停滞下では禁止されるのです。それですから、非公認ながら 「金の卵」 を産むかも知れない活動は出来ないのです。
   このような情勢下では、正規の研究開発活動も不活発になります。企業トップは研究開発費を投入するからには、相応の成果を期待します。そうなると、研究開発者も先を読みやすい在来技術の延長のような小型テーマのみを提案するようになります。前人未踏の大型テーマは成功の確率が低く、実験的試作には成功しても、実用品として生産・販売・に繋げるには多大のリスクを伴うからです。

  2000年頃から、日本人のノーベル賞受賞者が続出しました。真に慶賀に値しますが、報道機関の扱いは一過性でした。出版界の反応も鈍いものでした。受賞者の田中耕一氏 (後に東北大名誉博士) や中村修二博士 ( 後に米大学教授 ) は著名大学や大研究機関に属さずに、中堅メーカーの研究開発者として業績を挙げました。お二人には、 "プロジェクトX"  的な秘話・苦心談が幾らもあった筈ですが、ジャーナリズムは関心を示さなかったようです。テレビの特集シリーズやノンフイクション作品の発表は見られません。
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上左図は田中耕一氏、上右図は中村修二教授です。
  停滞期だからこそ、大きく取り上げ士気能力向上を図るべきではないでしょうか?

                               <以下次号>

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