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2021年11月29日 (月)

No.287 : 往時茫々 昭和・平成・令和を生きて (25)

「 旧制中学校教員の種々相 」

         ブロガーは1946年に旧制中学校を卒業しました。その学校は東京都立のナンバースクールの一つで、優秀な教員が揃っていると世間では評価されていました。70年以上も前の事です。ブロガーは、多くの優れた先生に接する機会の恵まれて、大きな影響を受けました。

   ここで、旧制中学校について説明しておきます。
   大正後期から昭和初期の教育制度は、小学校 ( 尋常科 ) が6年、中等学校 ( 普通科・商業科・工業科 ) が5年、高等学校・高等専門学校 ( 商業・工業 など ) が3年、  医学専門学校は4年 , 大学が3年、でした。つまり、" 6・5・3・3 制 "  です。( ただし、当時はこのような云い方は有りませんでした。)
   当時、" 中学校 "  と云えば普通科の中等学校を指し、卒業後にはさらに上級の教育機関に進学するコースでした。将来は社会の中堅層→上級層に至る人材を育てるのが前提の教育機関でした。一方、中等学校でも商業科は " 商業学校 "、工業科は " 工業学校 "  と称して、卒業後は社会人として実務に従事する人材に育てるルートでした。つまり、" リベラル系 "  と " 実務系 "  の2コースが有ったのです、当然のことながら教育内容も教員も異なりました。

         中等学校の教員になるには、複数のルートが有ったようです。正統的なのは  " 高等師範学校 卒業 "    です。東京と広島に有りました、今の " 築波大学 "  、 " 広島大学 "  の教育学部の前身でした。他には旧制大学卆や旧制高等専門学校卆でも中等教員資格は得られました。しかし、中等教員の世界では傍系とされ、主流にはなり難かったようです。
   ブロガーの入学した旧制中学では、校長が東大卒・教頭が東北大卆・事務主任が検定上り、という異色の学歴だったそうです。( 検定上り、とは小学校教員資格者が昇格試験に合格して中等学校教員資格を得た者の事で、世間では立志伝中の人材と認められていました。)
ブロガーが入学した中学は首脳陣が大卒の故か他の一般の中学に比し、教員には大卆の比率が高いと云われていました。
   
   入学当初は、先生方の学歴などは気が付きませんが、学年が進み、また上級生からの噂話などで、各先生方の学歴を知るようになります。そうなると、先生方の授業ぶりや言動について、それなりに論評するようになりなす。何とも小生意気な悪ガキどもでした。

   高等師範学校卆の先生は  " 授業の達人 "   でした。大学卆の先生は  " 博学多識の教養人 "   でした。その例を以下に記します。
   ブロガーは日本史を高等師範卆の先生に、西洋史をK大卒の先生に習いました。各科目の年間授業時間は一応定まっていますが、多くの場合、臨時の行事などが割り込むので、それよりも少なくなります。そのような場合、高等師範卆の先生は巧みに取捨選択を行い、学年末までに  " 神代から現代まで "  を完結させました。
   一方、大卒の先生は重点項目を詳述し、それほどでもない事項は、「 読めば判るから読んでおきなさい 」  という姿勢でした。この先生は 「 フランス革命は如何なる原因で発生したか? 産業革命は後世に如何なる影響を与えたか? を考究するのが歴史を学ぶ目的である。片々とした事象を  " 何時何処で誰が何を如何にした " などを暗記するのが目的ではない 」   と強調しました。このコトバは卒寿を超えたブロガーが今でも鮮明に記憶しています。

   数学の授業で高等師範卆の先生は、一次方程式の説明に  " 天秤秤 "   をモデルとして、左の皿には未知の重さを集め、右の皿に既知の重錘を集めて平衡を得る、というイメージを示して説明しました。
一方、大卒の先生は " 平行線 "   の公理から  " ユークリッド幾何学 "   に及び、さらに  " 非ユークリッド幾何学 "  から  " アインシュタインの相対性理論 "   に至る、学問の世界の深遠に触れるような話をしました。
   高等師範卆の先生は一次方程式の解法を生徒に理解させようと工夫する " 優秀な教育職人 "  でした。それに対して、大卒の先生は学問の片鱗を垣間見させる意識の高い  " アカデミック世界のガイド "  でした。

   ブロガーは、高等師範卆の先生と大卆の先生の優劣を云々しようとは思いませんが、もう一つ感じた差を記します。それは、戦時体制における態度の差です。戦局の苛烈化に伴い、旧制中学から陸海軍の学校に進学する風潮が強くなりました。陸軍士官学校と海軍兵学校がそれです。どちらも旧制中学4年次で受験できました。卒業後は、陸軍少尉または海軍少尉に任官し、数年の現地部隊に勤務を経て成績が良ければ陸軍大学校または海軍大学校に進み得る、エリート・コースの機関でした。
   ブロガーの級友でも、中学終了の形で、そのコースに進む者も少なからず居ました。また、軍部も盛んにスカウトしました。そのような世相・雰囲気の中で、その流れに積極的な賛意を示さなかった教員の方は概ね大卒の先生方でした。一方、高等師範卆の先生方は協力的な態度を示す方が少なくなかったようです。つまり、大卒の先生方は、直接の戦闘員にならずとも、兵器の開発や暗号の解読などの高度の知識を要する分野で活躍すべきである、との見識を持たれていたのです。大局観を以ておられた、と云えます。

   敗戦後、米占領軍が日本各地に駐留したので、通訳者が大量に必要になり、中学校の英語教員が動員された事が有りました。この時に殆どの先生は失格でした。当時の英語の先生は、英文和訳・英作文・英文法には長けていても、Hearing や Speaking は苦手だったのです。これは当然とも云えます。海外留学の経験は皆無、会話の教材 ( テープやレコード ) も零に近かった時代ですから。
   老生の学んだ中学の先生で、一人だけ合格した方が居ました。この先生は某私大卆でしたが、学生時代に映画館で洋画を見て会話を勉強したそうです。戦前の洋画での会話は原語 (殆ど英語) と字幕でしたから、映画館の立て籠って会話を習い覚える事が出来たそうです。しかし、大学英文科の学生の頃は、英文学の書物 ( 多くは英文学の古典名作 )  を読解するのが主たる勉強で、洋画を見て会話を習うと云う行為は異端視されていたそうです。しかし、その努力が戦後に報われたのです。

         老生の在学した旧制中学の先生方は正に多士済々でした。戦後になって左翼系の評論家として名を成した英語の先生がいました、この方は発音にクセが有って悪ガキどもは陰で悪口を並べていましたが、有名な総合雑誌に堂々たる論説を載せて売れっ子になりました。
生物の先生で博士号をお持ちの先生が居ました。この方は戦時研究に動員されて肺炎の特効薬 "ペニシリン "  の開発に関わりました。この先生は、戦後には旧帝大の教授になられました。
   皇室に近い旧華族の先生が居られました。ダンデイな方で、戦争の最中でも頭髪は長髪、服装は三つ揃えの紳士服、ワイシャツにネクタイという姿で人目を惹きました。当時の男性の容姿・服装は、頭髪は丸坊主刈、服は軍服に似た国民服、ノーネクタイ というのが常態でした。それですから露骨に非難する人もいたようですが、ご当人は平気で飄々としていました。

   一方では、時局・世相に便乗するお粗末な教員も居ました。先ず武道  ( 剣道・柔道 )  の教員でした。戦時体制以前の中学では 「 英語・数学・国語・漢文 」   が主要科目として重要視されていました。教員の間でも、それに対応した不文律の序列が存在したようで、「 体育・武道・音楽・絵画・音楽・書道 」  の教員などは二線級と見られていました。
   ところが戦時体制下になると体育・武道の位置付けが上り, その先生方が大きな顔をするようになりました。そのような風潮に便乗したのか、書道の先生が 「 日本精神は文字に現れる 」   などと言い出しました。「 力の籠った雄渾な文字を書く者は日本精神が充実している 」   とも広言しました。
   悪ガキどもでも、その発言の浅薄さは判ります。生徒は、このような教員を陰では軽侮し、むしろ上記のダンデイな教員に人気が有りました。

         1940年代の後期に、いわゆる  " 6-3-3-4 制 "  が導入されました。 " 小学6年ー中学3年 "  が義務教育とされ、その上に " 高校3年 " , " 大学4年 "  が続くシステムです。これは、米国の教育制度に倣ったもので、実施に当り賛否両論が沸騰しました。賛成論は、義務教育が3年も延長されるのは国民の学識を高める、との論拠でした。反対論は、米国の愚民政策の一環である、資質の乏しい者までも巻き込んで教育年限を延長すれば平均レベルは下がる、というものでした。また、敗戦後の疲弊した経済環境に新たな負担を強いるのも、日本再建にブレーキをかける陰謀である、との説さえ現われました。

   この制度の実施に伴い、全国的な教員の不足が生じました。これは当然です。義務教育の年数が 50% 増えるのですから、全生徒数も 50% 増加します。教員数もそれに比例して必要になります、しかも中学になれば教員は専門別です。また、校舎・設備・備品についても同様な問題が生じました。
   新制中学の教員資格が大問題でした。旧制中等学校の教員資格者は新制中学校の教員に移行できましたが、旧制小学校の教員資格者を直ぐに新制中学校の教員には出来ません。ブロガーは、その詳細は知りませんが、何んとか便法を講じて新制中学教員資格者に格上げをしたようです。

   この時に私立の旧制中学校の多くは、6年制の新制中高一貫校に変身しました。今日、進学校として難関大学への進学数を誇る A, K, N などの名門校は、この時期に生まれました。
         その反対に公立の旧制中学の名門・進学校の位置付けが低下しました。例えば、東京都立一中・同四中は第一高等学校 ( 現・東京大学教養課程 )  に抜群の合格者を誇っていましたが、新学制により、新制・日比谷高校、同・戸山高校になりました。私立の中高一貫校は6年間の大学受験対策を詰め込めるのに対して、新制公立高校は3年間の受験勉強期間しか有りませんから、難関大への合格者数が私立一貫校に比して劣るのは当然かもしれません。

   新制高校の教員には、旧制中学教員の有資格者が移行しましたが、多少の問題も在ったようです。ブロガーの卒業した旧制の中学校は新制高校に衣替えしましたが、教員は全員が移行したと聞いています。その中学は高学歴の優秀な教員が揃っていたからでしょう。
   蛇足を云うと、新制高校の教員に移行した人の中には、事務員や生徒に 「 O O 教授 」   と呼ばせたがる方が居て、周囲から失笑されたと云う噂もありました。( 旧制の高等学校では正規の教員は  " 教授 "  でしたが、新制高校の教員は " 教諭 "  です。 )

   旧制の高等学校・高等専門学校は殆どが新制大学に昇格? しました。このケースでも大多数の教員は移行したようです。新制大学は専門課程の前段階として教養課程を必要としましたので、教員の絶対数が不足しました。そこで、旧制中学の教員で著名大学の卒業者をスカウトして員数合わせをした時期が有りました。
   この人事を見て、口の悪い評論家は 「 二階級特進の大学教授 」 と揶揄しました。つまり、中等学校の教員から一足飛びに大学の教員になったからです。
   ブロガーの出身中学の教員からも、大学教員に特進した方は数名以上いたようです。旧帝大卆や早慶卆の方々でした。それらの先生の中には、博士号を得たり、学部長の要職に就いた方も居られたそうです、優秀な先生だったからでしょう。

< ブロガーの放言 >

         昭和初期においては、中学校教員という職業は知識階層の一翼に位置していました。当時、旧制中学 ( 普通科 )  への進学者は、義務教育の小学校 (尋常科) の卆業者の 10% に達しなかった筈です。( 全国的に見ての話です。都会地は高く、地方は低いとされていました。)  当然、中学校の数は少なく、その先生方は一般市井人からは、高等教育を受けたエリートと目されていました。
         その時代の中学校教員の社会的位置付けは、現在の大学教員に匹敵する程でした。1940年代後期の新学制により、中学のみならず高校・大学・大学院に至る大増設・大増員が行われました。これは国民の知識レベルを押し上げ、高度成長・技術革新に寄与しました。
   しかしながら急激な変革のために、教員に玉石混淆が生じたのも否定できないようです。とは云うものの、近年にはノーベル賞受賞者を輩出している実績から見ても、新学制への移行は成果を挙げたみるべきでしょう。
  
             
         
             < 以 上 >

 

 

 

2021年11月14日 (日)

No. 286 : 往時茫々 昭和・平成・令和を生きて (24)

「 " 人類の欲求5段階説 "  が話題になった頃 」

       1954年に米国の心理学者 " A.H.Maslow 博士 "  が " Motivation & Personality "  と云う著書を著し、世界中の知識層に読まれました。日本でも直ちに邦訳され " マズローの欲求5段階説 "  としてサラリーマン仲間での格好の話題になりました。

          Motivation-personaity 

   
   

   その要旨は、「 人々の欲求は、最も素朴で本能的なレベル、即ち ” 生理的欲求 "  から " 安全の欲求 "  に移り、次いで " 社会的欲求 "  になり、さらに " 承認欲求 "  に昇華し、最終的には " 自己実現欲求 "  に至る 」 と理解できます。

   一般に生物は、生存それ自体が目的? ですから  " 食と性 "   が最も基本の欲求です。下等な生物は、この  " 生理的欲求 "  だけで生きています。人類も発生当初はそうでした。それが、一応満たされると次の欲求は  " 安全 "   です。外敵や自然災害から身を守ろうとして、動物は巣を作り、人類は洞穴などに棲み原始的な武器を創りました。
   次の段階は  " 社会的欲求 "   です。動物は群れをつくり、人類も集団生活を始めます。これにより、生理的・安全の欲求の実現がより充実しました。
   群れや集団が形成されると、リーダー的な存在が発生します。 " 猿の群れでのボスの座争い "  などは、しばしばテレビで報じられるほど有名です。人間サマの場合は官公庁や企業など  " 組織体の中で地位争い "   が熾烈です。これが、” 承認欲求 "   の一例です。また、組織に属さないフリーの職業人、例えば芸術家・文筆家・アスリート・芸能人などは知名度・人気・などを求めて努力します。これも、" 承認欲求 "  の一形式でしょう。
   最高の段階は  " 自己実現欲求 "  です。この説明は中々難しく、当の Maslow 博士の著書や、他の紹介書・解説書を読んでも浅学非才の老生にはピンと来ません。老生なりの理解では、孔子の論語の中の一節、「 七十 (歳) にして心の欲するままに行えど矩
を超えず 」  と云う句が近いのではないか、と考えます。敷衍するならば、「 思うままに振舞っても、人間社会の規範から外れる事のないような人格を形成したい 」  という欲求でしょう。

        Maslow 博士は心理学者ですから、多くの資料を漁り、思索を重ねて世界的な大著を著したわけです。一方、日本では、「 金→地位→名誉 」 という願望のステップが、俗世間の人々でも普通に語られていました。

   例えば自営業の人々は、先ず経営の安定化を目指します。換言すれば、あるレベル以上の収益が定常的に得られるように努力します。これは、容易なことでは有りません。老生の父親は呉服屋  ( 和服および生地の売買 )  を営んでいましたが、子供心にも大変さを感じていました。
   自営業者の中でも相応の成果を挙げた方は、同業者の組合幹部となり、さらに商工会議所などのメンバーに選出されたりしました。ここまで来ると、それなりの社会的地位を得たことになります。さらに、そのような立場において業界の発展に尽くし実績を重ねれば、国家的な栄誉を得るケースも有ります。

   " 松下電器産業 ( 現パナソニック ) "  の創業者である  " 松下幸之助 "  などは、その代表的な方でしょう。氏は、一介の町工場主から世界的な大企業の経営者に登り詰めました。その過程において巨万の財を積み、 " 経営の神様 "   と云われる程の地位を築きました。さらに某有名大学からは  " 名誉法学博士 "   の称号を贈られ、米国の有名誌の表紙を飾り、世界的な  " 大実業家・哲学者 "  として紹介されました。
   " ソニー "  の創業者である  " 井深 大 "   も同様です。無名の町工場でありながら、業界に先駆けてトランジスターを国産化し、世界初のトランジスター・ラジオを開発して  " 電子立国日本の礎 "   を創りました。氏は、母校の大学から  " 名誉理学博士 "  の称号を贈られ、国家からは  " 文化勲章 "  を授けられました。
   お二人とも、「 金→地位→名誉 」 の階段を登ろうと
望むようなお人柄ではなかったと思います。自ら天職と信ずる仕事に没頭した結果、期せずして  " Maslow の欲求5段階 "  の高位レベルに達した方と理解されます。

    公務員や会社員などは、地位の向上を目指す人が多いようです。これらの組織の給与は概ね " 学歴別・年功序列 "  です。この給与システがムには多くの批判が有ります。 組織体に対する貢献度に対応した与にすべきだとの正論は常に有りますが、その実施は不可能に近い、と云えます。組織には多くの職種が有り、その各々に就いての評価の尺度を定めるのは困難です。
   老生の経験では、同学歴・同勤務年数の場合、業績評価では相当の差が有っても給与の差は ±10%程、賞与の差は ±20% 程でした。つまり、収入額では大差は付けないのです。それに代わって、昇任・昇格には差を付けました。班長→主任→係長→課長→部長 と云うような役職 ( 地位 )  に就けるのです。それによって、権限・裁量は増えますから給与額の差は多く無くても、ご当人の意欲を高められます。
   さらに、優秀な社員は社外の委員会などに参加したり、政府の審議会に出席する機会が増えます。このような場で相応の業績が認められれば、公的な栄誉 ( 表彰・叙位・叙勲 など )  を得るケースも有ります。
   上記のように公務員や会社員は、地位の向上にともなって、それなりの収入増は得られますが、それでも、世間的には無名であっても実利を得た自営業者よりは遥かに少ないのが実状でしょう。

   学者・研究者・評論家・作家・芸術家などは、名誉 ( 名声 ) からのアプローチではないでしょうか? 学者・研究者の場合は、博士号・論文賞など、評論家・作家などは ベストセラー・文芸賞など、芸術家は作品の評価などです。それを経て地位が定まり、経済的な見返りも増えます。

   ブロガーは、アプローチのプロセスに就いて批判する意図は持ちませんが、敢えてコスパ的な見方を執ると、ずいぶん差があると感じます。
   例えば、プロ・スポーツや大衆芸能の世界では、「 金・地位 」  を同時に、しかも若年時代から得られるケースが多いようです。晩年に至れば国家的な「 栄誉 」 を得る人もいます。また、猛烈な受験戦争などの経験も無くて済みます. 下司の勘繰りで云うならば、コスト・パフオーマンスは高そうです。( 認められるまでの修行や同輩との競争に苦労は多大であっても。 )
   一方、学者・研究者・評論家などは、「 地位・名誉 」   からのアプローチが多いと感じます。その上で「 金 」  が付いて来るケースも有りますが、微々たる値が普通です。( 中には特許料などで莫大な収入を得る方も居られますが例外的でしょう。)  それですから、コスパ的には低いでしょう。
   作家・芸術家などは、「 名誉・地位 」  からのアプローチだと思います。その後には「 巨万の富 」   が追従するケースが多いようです。コスパ的には中程度でしょう。
   ブロガーは技術系の給与生活者でしたが、コスパ的には割が悪いと感じています。公務員や大企業の研究職や技術職に就くためには、然るべき理系に大学・大学院を卒業しなければならず、
そのための学費や勉強量は莫大です。換言すればコストは多大です。その上、就職すれば給与は文系大卆と同一です。組織の中の昇進も一般には遅いようです。勤務外の時間も先端技術を常に追いかけて勉強が必要です、そのために自費を投じる場合も少なく有りません。こんな環境だけを比較するとコスパは最低とも感じます。
しかしながら、自分の好む道に進み、専門分野についての見識は誰にも負けないと云う自負を持てる事や、国際会議などに出張する機会に恵まれるなどのメリットを考慮して、それなりのコスパかな、と自分で自分を納得させざるを得ません。

   Masow 博士の名著の紹介から脱線した感が無きにしも非ず、の拙文ですが、ご披見いただければ幸いです。

                   < 以上 >

 

2021年11月 3日 (水)

No. 285 : 往時茫々 昭和・平成・令和を生きて (23)

「 " I T 企業 "  は隆盛だが  " 情報通信機器メーカー "  は低調? 」

        前回で、" 情報社会 "  の象徴として " IT企業 "  の隆盛を示し、" GAFA "  を代表的な成功例と記しました。それを調べているうちに、その道具立てを開発して提供した  " 情報・通信機器メーカー "  が意外に低調・不振なのに気付いて愕然としました。

   例えば大型汎用コンピューターで世界に君臨した  " IBM 社 "  はどうなったのでしょうか? 今は殆ど話題にはならないようです。また、真空管の世界標準 ( 実質的 ) を確立し、ラジオ・テレビでは特許網を巡らして世界の業界を支配した " RCA 社 "  は姿を消してしまいました。
         さらに、有線電話の創始者の名に因む " ベル研究所 "   は、ノーベル賞級研究者を輩出した名門でしたが、近年は話題にもならぬようですし、無線電信の発明者が起業した
 " マルコニー社 "   も知る人は稀です。   
   日本でも同様で、高度成長期には総合電機メーカーとして世界に覇を競った企業も、今日では採算性の低い部門を売却または閉鎖をしています。

   1900年代後期に、米国  " GE 社 "   の最高経営者である " Jack Welch "   は、「 業界順位が3位以下の事業部は閉鎖する 」   との方針を明言して、 " 原子力 "  ,  " ジェット・エンジン "  ,  " 金融 "   の3事業のみを残し、創業以来の電気機器 や発展性を期待される電子機器の部門の整理を断行して収益を高めました。
         日本企業も 「 選択と集中 」  と云うコトバに意訳して追従しました。( ただし、日本企業の場合は、積極的に推進したと云うよりも、ジリ貧に陥った部門を止む無く整理した、と感じますが。)

   このような現象に老生は、いささか疑問・矛盾を感じます。そもそも、情報機器や通信機器は高度な知恵の集積です。当該メーカーは多数の開発・設計技術者が在籍していますが、彼等は理系の修士や博士が大半です、その人々が衆知を集めて創った装置です、彼等の知識・研鑽が埋め込まれています。それにも拘らず、その製品価格は横這いか低落傾向を示します。

   何故か?  
その理由は量産が裏目に作用したと老生は愚考します。つまり、同一設計の機器・装置が多数生産されるので、開発・設計などの知価は分割されてしまい、その価値を低く見る傾向が生じたのでしょう。

   ( 蛇足です。小説・詩などの知的所有権は、印税と云う制度で出版数に比例して作者にフイード・バックしますが、工業製品の場合の開発・設計などの知価については、個人若しくはグループにフイードバックする制度も習慣も有りません。その上、文学作品の類は全部が対象ですが、工業製品については、その中の一部が特許として知的所有権が認められるだけで、設計全部が対象にはなり難いようです。)

   ところが、それらの機器・装置を使いこなすためのソフトウェアは企業の経営方針や独自性が込められています。これは、" 知価 "   そのもので、量産も模倣も出来ませんし、その優劣はモロに企業の成果に影響します。新しいビジネス・モデルを創出し、それに適したソフトウエアを開発すればば、大きく成功する可能性が得られるからでしょう。

   " GAFA "   の一角を占める " アップル社 "  が パソコンの生産から創業し、現在のスマホに至るまで、メーカーの一面を続けているのは、むしろ例外的な事例かも知れません。

   「 あなた造る人、わたし使う人 」  と云うコトバは以前から有りました。アナロジカルに解するならば、ハードウエアを開発設計する立場よりも、使いこなすためのソフトウエアを駆使する立場の方が優位に立つ、という事でしょう。

    また、江戸時代には 「 士農工商 」  の序列が存在しました。 " 士 "  は  " グランド・デザイン "    を担当し、" 農・工 "   は生活のための ” モノ造り "  を受け持ち、 " 商 "  は  " 製品流通 "  を行います。この3段階の中で、" 商 "  には最も  " 知価 "  が込められていると思われます。  " 農・工 "  も、それなりの  " 知価 "  が込められていますが、かなり固定的でしょう。それに比して " 商 "   はダイナミックな世相に対応する流動的な  " 知価 "  を要します。 " 士 "  に至っては 「 " 神君 ( 徳川家康 ) の先訓に従う 」 と云う先例墨守主義でしたから、" 知価 " としては古色蒼然たるものです。 

    終りに編者の独断と偏見に依る迷論惑説を付加します。

    約300年前の戦国時代から太平の世に至るまでの3英傑に就いて、「 織田が搗き、太閤が捏ねし天下餅、居ながらにして食らう家康 」 と云う街の噂話が有ったそうです。3者ともに卓越した武将でしたが、その 戦略・治世 には独自の知価が込められていたと思われます。

    信長に就いては、長篠の合戦において新兵器の鉄砲を活用した事は周知ですが、城下町を整備して楽市・楽座を設けて商業を振興して財力を蓄えました。秀吉は城攻めに独創性を発揮し、また兵站 ( 戦略物資・食糧の輸送・補給 ) の重要性を認めて整備に努めました。家康は江戸の整備のための大工事・水道の整備を行い、さらに武家諸法度・公家諸法度などの制定を行いました。これらの武将の成功には、ハードウエア ( 武力 ) と共にソフトウエア ( 企画・経営力 ) の充実が有りました、即ち多くの知価が潜在していました。

          < 以 上 >

 

           

2021年10月27日 (水)

No.284 : 往時茫々 昭和・平成・令和を生きて (22)

「 続・ " 知的生産の技術 "  が ブームになった時代 」

   梅棹忠夫 教授が上記書を著した時期に前後して、類似・関係テーマの書物が数種以上出版されました。その中で出色の作は、川喜田二郎 教授の 「 発想法 」 と 野口悠紀雄 教授の 「 超整理法 」 だろうと老生は思います。

   「 発想法 」 は、前記した京大カードの変形だと老生は理解しています。例えば、ある問題を数人で検討する際に、各人が着想や関連情報・対応策などを小紙片に簡明に書き、それを机上或いは床上にランダムに配置します。そうしてメンバーは、それを眺めて関係の深い紙片を纏めたり、新しいアイデイアの紙片を追加したりします。議論をしながら、その作業を重ねて行くと、問題の本質が明瞭になり、自然に対応策も集約される、という手法です。
   この手法は 「 KJ 法 」 として、広く普及しましたようですが、生産企業などでは試行に止まったようです。老生の独断と偏見では、この手法は 「 何が問題か? 」 と云う命題には有効でしょうが、生産会社の現場では、問題は概ね明らかであって、「 如何にして問題を解決するか? 」 という具体策が早急に求められ,その様な要求に対しては 「 KJ 法 」 は迂遠に感じる方々も居たのでしょう。

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   「 超整理法 」 は、収集した多くの資料を如何に整理するか、検索の効率を如何に高めるか、を主にしていると感じます。野口教授の手法は、収集した資料をA4版の封筒に収め、その表に資料名称と日付を明記した上で、日付の順にスチール棚に収納する、という事です。左側には最も新しい資料が、右側には最も旧い資料が並ぶわけです。そうして、必要に応じて取り出した封筒は、用済み後は最も左側に入れます。
これを繰り返すと、自然に検索頻度の高い資料は左側に、検索度数の少ない資料は右側に移ります。
   教授は、資料の分類・整理・保管の技法に時間を費やすより、必要に応じて素早く取り出せる方法を実施するのが先決だ、と判断したのでしょう。そうして、時系列的な記憶が意外に役立つではないか? と結論したのだと思います。蛇足を云えば、殆ど利用されない資料は右端に集まるので、廃棄の対象になり得ます。

 

「 " 脱工業化社会 " 以後の論調 」。

        1962年に米国の  " Daniel Bell "  が  " Post Indusrial Society "  を著し、世界のビジネズマンの話題になりました。その要旨は、人類社会は、 ① 伝統社会、②産業社会、を経て ③脱工業社会に移行しつつ有り、生活形態も価値観も大きく変わる、という事でした。換言すれば、財物の生産から高度情報サービスに重点が移行する、という内容です。
    教授は、そのような社会では、知識階層が増加し、企業運営には経済効率以外の諸要因への配慮が必要になると主張しました。ただし、具体的なグランド・デザインの明示は無かったと、記憶しています。

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   1980年に米国の " Alvin Tofuler "   は、 " The Third Wave "   を発表しました。教授は、人類の社会の進化は、" 狩猟・採取の時代"  から、① 農業革命の時代、② 産業革命の時代、という社会形態を経て、今や ③ 情報革命の時代、に移行しつつある、と説きました。そうして変化のインパクトを  " 波 "  に例えたのです。老生の記憶の限りでは、近未来の社会では、この第三の波に上手く乗れる人、波に押し流される人、と二極化されると警告していたように思います。

   1985年に、" 堺屋太一 "   は  " 知価革命 "   を著しました。この書は、" 第三の波 "   を敷衍した上で  " 知価 "   という概念を創出・強調しました。それまでは、" 情報化 "  或いは  " 情報社会 "   というコトバが氾濫していましたが、その内容について明解に説いた方は少なかったようです。コンピューターおよび電気通信の技術の進歩により、高度で複雑な情報が瞬時に世界に伝わる社会、という認識は有っても、それで社会・文化がどのように変化するかに就いての試論の展開は乏しかったのです。
   堺屋 氏 は、知識・知恵の価値を  " 知価 "   と称し、これが経済社会に大きな要素となると主張しました。コンピューターの  " ソフトウエア "  などは、典型的な例です。ハードウエアの処理速度や記憶容量が如何に優れていても、適切な基本ソフト・応用ソフトが無ければ役に立ちません。

         堺屋 氏 が提唱した頃、殆どの読者は 「 そんなモノか 」 と云う 程度の感じだったようです。しかし、2000年代に入り米国の  " GAFA "   の躍進は著しく、その総資産は在来の世界的大企業を超えると云われル程に急成長した現実を見せつけられて人々は  " 知価 "  の威力を痛感しました。

   " Apple "  は, パソコン・メーカーからのスタートでしたが、当初から OS に特長が有り、画像処理に強いとされました。今はスマート・フオンで著名ですが、部品は海外から調達し、製造も海外に委託しています。同社は設計だけを行なって高収益を得ています、設計方針の策定が即ち知価そのものです。
   " Amazon "   は, 通信販売の企業です。情報・通信の技法を巧みに駆使して、在来の通販企業に比して効率を高める事に成功しました。米国では通販会社が発達していて、プレハブ住宅から ヨット・自家用飛行機 までも扱っていたそうですが、その中で同社が急成長して世界の名を成したのは、" IT "  を巧みに活用したのでしょう。
         " Google "   は, 情報検索 の 分野で世界に君臨しました。ある都市伝説によれば、日本でも同様の着想があったけれども、" 知的所有権 "  についてのトラブルを懸念するあまり、支援・推進する動きが鈍くて、実現に至らなかった、との説があるそうです。
   " Facebook "  は大学生のグループ参加者名簿的な発想からスタートしたようです。これも初期には、" プライバシー "   を懸念する意見が有ったようですが、それを超えるメリットが期待されて、巨大企業に成長しました。

   なお、別の論客は、" 知価  "   に該当するコトバとして  " 情報価値 "   という語を使い、その例として、" ボールペン "   の価格を挙げました。店頭には、100円程度から1000円のモノ、さらには10000円を超す品が並んでいます。しかしながら、筆記用具としての機能は殆ど変わりません。差が有るとすれば、そのデザイン・ブランドでしょう。或いは書き心地、書き味などの拘る方も居られるかもしれませんが、往昔の   " 万年筆 "   ほどには、低価格品と高価格品の差は見出せないと思います。
   それでも、かなりの価格差があるのは、購入者がそのデザイン・ブランドに価値を認める人々が一定数は存在するからでしょう。当の論者は  " 情報価値 "  と称しましたが、堺屋 氏の説く " 知価 "  と同一でしょう。

                       < 以 上 >

 

 

   

 

   

 

 

 

 

 

              

2021年10月21日 (木)

No.283 : 往時茫々 昭和・平成・令和を生きて (21)

「 ” 知的生産の技術 ”  が ブーム になった時代 」

   1969年の梅棹忠夫 教授の著した上記の書は、ホワイト・カラー層に大きな関心を巻き起こしました。" 知的生産 "   というコトバは、学者・研究者の論文・作家の作品・評論家の論説など、及びその作業を指すようです。( 蛇足ですが、手元に在る国語辞書を 数冊調べましたが、" 知的 " , " 生産 "   という個々のコトバ は記載が有りますが、" 知的生産 "   の記載は見つかりませんでした。)
   梅棹教授は、その作業を実行するに就いての  "ノウハウ "   が一般には公開されていない。各人各様に編み出した自己流の手法で処理しているのではないかと指摘しました。さらに教授は各自の手法とは云っても共通する手法が、それなりに有る筈だから公開して共通の知識にすべきであるとの見解を広く流布するために、上記の書を著したと記しています。

   この書物の主な内容は、① 京大型カードの活用、② フラット・フアイルの活用、③ ひらがなタイプライターの活用、の3項目だと老生は理解しています。
   京大型カードとは、B6版ほどの大きさ・はがき程度の紙質 ( 厚さ ) のカードで、これに 「 着想や情報 」   をこまめに書き込み、それをカード・ケースに分類して収めておきます。多くは断片的な内容ですが、頻繫にカードを繰って目を通す事により、頭脳の中で有機的に繋がり熟成して新しい発想が生まれると、教授は説きました。

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   上左図は、その書物の表紙、上右図は A4版フラット・フアイルの外観です。フラット・フアイルとはA3版の厚紙を二つ折りしたモノで綴じ金具などは有りません。教授は、 " 会合の案内 " ・ " 税金や年金に関する書類 "   などで、A4版数頁ぐらいの書類を挟み込むのに使う事を推奨しています。これをケースに時系列的に収容し、折に触れて目を通せば、期日を忘れたり遅れたりするトラブルは防げます。
   " 論文の別刷り "  や、" 資料の切り抜き "   などを入れて整理するにも使えます。使い方は、各人の工夫によりますが、検索の効率を考慮すべし、と教授は説いています。( 例えば、一つのフアイルに1種類の資料しか入ないのは勿体ない、などと考えて数種の資料を入れると、検索に際し手間取るような事態も生じます。)

   " ひらがな タイプライター "   は、" 日本語ワードプロセッサー "   が発達・普及した現在では全く骨董品になってしまいましたが、出現当時は画期的な事務機械でした。
教授は、欧米の知識人は   " タイプライター "   を駆使して論文・論説・記事を量産する、しかも控えを取り易いので、先輩・同僚に下読みをして貰って内容のブラッシュ・アップが出来る, それに対して 日本では手書きの原本が1部しかないので
同時に複数の人々に下読みを依頼できず、論文・論説の質が洗練され難いと指摘しました。( その時代には、コピー機は未だ普及してませんでした。)   その難点の解決策として、" ひらがな タイプライター "    の活用を提唱したのです。ただし、これを実用・普及させるには 「 分かち書き 」  という技法が必要でした。
         これは、例えば 「 規則など様々でも良い 」   と云う文章を、" ひらがな "   で書くには、「 きそくなど さまざまでも よい 」  と3分割して書くのです。これでも相応の習熟は必要ですが、手書きで漢字・かな混じり文を書くのよりは簡便で、且つ複写が容易な利点は有りました。

         梅棹教授よりも以前に笠信太郎というジャーナリストが  「 ものの見方について 」   という書物を著しましたが、その中で氏は 「 欧米人は日常茶飯の書類でも控えを作る習慣が有る 」  と指摘していました。日本人社会は、そのような習慣に乏しく、例えば作家を志す青年が、数年かけて纏めた原稿を編集者に預けたところ、紛失されて悲嘆・絶望したという話を例示していました。

   教授の提唱した " ひらがな タイプライター "    は M社 などで製品化されましたが、あまり普及・浸透しないうちに  " 日本語ワード・プロセッサー "   が開発され、これが欧米におけるタイプライターを凌ぐ機能を備えたので、急激に普及しました。

        梅棹教授の書は、学者・研究者だけでなく、企業人にも話題になりました。当時、老生は某生産会社に勤務する技師でしたが、機器の設計室にカード・システムを採り入れました。ただし、図面や数式の多い業界ですから、それを全部記載する事は出来ません。短い文で済むアイデイアや業界情報などに活用しました。設計室の一隅にカード・ケーを置き、それに各人の抱くアイデイアやニュース・情報の類を記載したカードを入れておくのです。それを随時に覗いてヒントを得たり、さらに上乗せした内容のカードを創ったりしたのです。設計室のチームは、定期的なアイデイア会議を開いていたのですが、このカード・システムの併用により会議が活性化しました。

   現在では、教授の説いた道具立てと用法は、全て  " パソコン "   または  " スマート・フオン "   で実現できます。しかも、遥かに小型である上に通信機能が有りますから、他者に同一の資料を傳えることも容易に行えます。今のビジネズ・マンは、殊更に意識することなく、" 情報収集→分類・整理→情報保管→検索→情報活用 "   を実行している方が多いようです。これは、その前段階である学生時代での 「 卒業研究 」  で先輩や学友から、教えられる機会が多いからでしょう。
        蛇足ですが有力企業が有名大学の卒業生を採用したがるのは、彼等が 「 卒業研究 」  などを介して得た  " 情報取集 " ・ " 情報活用 "   の能力に期待するからだと考えられます。

           < 未 完 >

2021年10月 5日 (火)

No. 282 : 往時茫々、昭和・平成・令和を生きて (20)

「 ケーキ (洋菓子) への憧れ 」

   1930年代、1940年代の頃、 " ケーキ (洋菓子) "   と称するお菓子は、子供らには  " 夢のお菓子 "   でした。その頃は  " おやつ "   と云えば、" 煎餅・かりんう・落花生・焼き芋 "   などが定番でした。さらに云うならば、家族が毎日のように  " おやつ "   を食べる習慣を持つ家庭は、極めて少なかったようです。
   老生の記憶の限りでは、小学校の級友50人の中で5人ぐらいだったようです。大多数の級友は親から1ー5銭ぐらいを毎日貰って、自分の好むモノを買って食べていました。この金額の換算は難しいのですが、粗く云うと今日の50円から250円ぐらいではないかと愚考します。その  " お小遣い " の使い方は多種多様ですが、典型的な例では、紙芝居屋さんと駄菓子屋さんで使ったようです。

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   上左図は、紙芝居屋さん です。自転車に紙芝居の道具を積み、然るべき空き地に子供を集め,飴や菓子を売り、紙芝居を披露しました。子供向きの物語を十枚ぐらいの絵に纏めたモノをめくりながら話したのです。子供たちは、食べ物を口に入れながら、話を聞いて楽しみました。そのストーリーは数十回以上も続き、子供たちは  " 次回のお楽しみ "   と云うコトバに釣られて、毎日集まりました。
   上右図は、駄菓子屋さんの店頭風景です。 売品は、安価な菓子類で、メーカー名などは無く、包装も有りません。ガラス製の壺状の容器にバラで入っている品を無造作に掴み取る、という感じでした。

   老生の母親は、今日の  " 教育ママ "  タイプでしたから、紙芝居屋さん・駄菓子屋さんはオフリミットでした。家での  " 3時のおやつ "   は毎日与えられていましたが、子供心では、自分に与えられたお金で好む菓子を買える友人を羨ましく思ったことも有りました。
        ある日、級友の家に遊びに行った時に、豪華な  " ケーキと紅茶 の おやつ "   を出されました。これは、大変なカルチュア・ショックでした。帰宅して、母親に話すと,「 あの家のお父さんは銀行に勤めている、お金持ちです。ウチでは、そんな贅沢は出来ません 」  と一蹴されてしまいました。以来、老生にとってケーキは  " 幻のお菓子 "  になりました。

       下図左は、 " ショートケーキ " 、右は  " エクレア "  です。
今では、このぐらいの  " ケーキ "   は何処でも買えますが、1930--40年代 の頃は 銀座・日本橋・新宿 あたりでないと 手に入らなかったのです。価格も割高で、子供の  " おやつ "   には過ぎた品でした。
      

    

   1960年代になると、結婚式の披露宴で新郎・新婦が  " ウエデイング・ケーキ "  をカットする演出が一般化したようです。その頃、老生の級友が続々と結婚し、老生も披露宴に出席して、その光景を何回も見ました。
それから数年を経ると、彼氏・彼女の子供が幼稚園児に育ち、ママ友らの間で 「 お誕生パーテイー 」  が開かれるようになりました。 ” バースデイ・ケーキ "   に蝋燭を立て、当の児童が吹き消す、という行事が盛んになりました。
このような世相になれば、もはや  " ケーキ "  は  " 幻のお菓子 "   では有りません。郊外住宅地の一隅に在る普通のお菓子屋さんで買えるようになったのです。

< ブログ発信者の迷論 >
   駄文を弄してきましたが、老生が痛感するのは、「 戦後経済再建の努力とエネルギー 」  です。1945年の敗戦直後の経済社会は、世界の最貧国に近かったのではないか、と思われますが、全国民の必死の努力により、「 高度成長・技術革新 」  に成功したのです。国土面積は狭く、天然資源は乏しい、という制約の下で、世界有数の 「 経済大国・科学技術大国 」  になったのです。
上述したように、 " 夢のお菓子 "    であった  " ケーキ "  が日常的な存在になったのも、その成果の一面です。
   そうして、老生らの年代の者が大きく関わった事を密かに誇りに思っています。

                 < 以上 >                


 

 

             

2021年9月22日 (水)

No. 281 :往時茫々・ 昭和・平成・令和を生きて (19)

「 洋食のマナー 」

   なんとも大時代な表題で、諸氏の失笑を誘うことと思います。しかし、1960年代ぐらいまでの世相では、社会の中堅層でさえも、かなりシリアスな問題でした。ホテルや一流レストランなどでの会食や宴会に出席して、正しいマナーで振舞う、というのは相当なプレッシュアーであったのです。
正装したボーイが背後に控えている中で、ナイフとフオークを巧みに使い分け、左右の列席者と会話を交わしながら、タイミングを合わせて食事を楽しむような経験を持つ人は少なかったのです。
   その頃は、国際レベルのホテルやレストラン々は極めて少なく、フルコースの洋食を知らない人は、
かなり居たのです。以前にも、このブログに書きましたが、1970年に或る調査団の一員として渡米した折、出発前の研修会で、テーブル・マナーやホテル・マナーを仕込まれました。調査団のメンバーは一流企業の管理職クラスの方々でしたが、それでもこんな研修をしたのは、マナーに疎い人も中には居ると見たのでしょう。実際にも、研修中に 「 七面倒くさいな、俺は行きたくない 」   とボヤいた方も数人は居ました。

   和洋折衷と云うべきか、「 カツ・ライス 」 「 海老フライ・ライス 」   などというメニューがデパートの食堂などで流行った時期が有りました。豚カツまたは海老フライにキャベツの千切りを添えた一皿と米飯の一皿をセットにした料理です。食器としてナイフとフォークが付いて来ますが、箸は有りません。これで、米飯をどうして食べるか、というとフオークの丸い背中の上にナイフを使って米飯を盛り上げてから口に運ぶのです。この時、洋食のルールに従って、フオークは左手、ナイフは右手です。
   これは、何んとも不自然な馬鹿々々しい手法です。フオークに米飯を盛るならば、丸み下にして、スプーンのように使う方が自然で、ナイフで盛り付けなくても済みます。ところが、周囲を見ても、誰一人、そのような人はいませんでした。フオークは丸い背中を上にして使うべきで、それを下にするのはマナー違反なのでしょうか? これは、老生が子供の時からの疑問です。
序に書けば 「 お子様ランチ 」  には、スプーンが付いて来ます。これはスープ用でしょうが、子供は、これで米飯も食べていました。
   ある毒舌で有名なノンフイクション作家は、このようなケースに際し、堂々と 「 箸 !! 」  と要求したそうです。「 箸は有りません 」  との返答を受けると、料理長を相手に「 日本人の客が米飯を食するのに箸の備えが無いとは怪しからん 」  と説教したそうです。これがキッカケになったのか、現在では、殆どの洋食店が箸を備えているようです。

   蛇足を書きますと、フルコースなどを食べるに際し、食器の扱いに不手際があると、ボーイなどから「 マナーを知らない人 」 と軽蔑されるのではないか?  という過剰な被害妄想を持つ人が、戦前には少なく無かったっようです。老生が旧制の中学に入学した時、英語の教員からテーブル・マナーの話を聞きました。その中で、先生仲間でもテーブル・マナー恐怖症の方が居るような話がありました。その時、殆どの生徒は別世界の話と受け取ったものでした。1940年代には、子弟を中学校入れる家庭は中産階級に属していた筈ですが、それでも洋食のテーブル・マナーを子供に教える機会は少なかったのです。

   ここまで書いてきて、思い出しました。それは旧帝国海軍には立派な  " 料理の教科書 "   が存在し、その中には、洋食・ ケーキ ( 洋菓子 ) からテーブル・マナーに至るまでの詳細な記述が在ったという事跡です。その復刻・紹介 本を手にし読んだ記憶も有ります。今、改めてネットを探ると果せるかな、数種の紹介書が刊行されていました。また、舞鶴市には原本が保管されている事も知りました。

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  上記の書物には、" ビーフ シチュー "  ・ " チキンライス "   などの主餐から  " プリン " ・ " ワッフル " ・ " アイスクリーム "  などのデザートに至る詳細な調理この法が記載されているそうです。このテキストは 1908年 ( 明治41年 ) に刊行されたそうです。日本の海軍は英国海軍をモデルに創設しましたから、料理からマナーまでも学んだのでしょう。なお、タイトルが 「・・・割烹術 」  としてあるのも時代を感じます。
         戦前の日本は徴兵制度を採っていましたから、成年に達した男子は2年間の兵役に就きました。近代の文化生活に接する機会の無かったような地方育ちの若者が、科学の粋を集めた軍艦に乗り組み、複雑な武器・機械を操作し、見たこともない洋食を摂る、という事は「 目が眩む 」ようなカルチュア・ショックであったでしょう。

             < 以下 次号 >

2021年9月 7日 (火)

No.-280 : 往時茫々 昭和・平成・令和 を生きて (18 )

2-2  「 航研機 」  の長距離飛行世界記録

           1938年5月、東京帝国大学 航空研究所が開発した試作長距離機 「 航研機 」 が長距離飛行の世界記録を樹立しました。木更津→銚子→太田→平塚の周回コースを29週し、周回航続距離 11,651,011 km,  平均速度 186.197 km/hr  がその データー です。
   飛行機の国際記録については、「 国際飛行連盟 」  が管理していました。速度・航続距離など幾つかの項目と、その承認を得るための詳細な規定が有ります。当時、それらの記録は全て欧米先進国に握られていましたから日本は航空後進国と見られていました。そのような時期に突破口を開いたのが 「 航研機 」  の壮挙でした。

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   「 航研機 」  の開発は、1932年に最初の会議が開催されました。1933年に基礎設計に着手、1934年には 「 東京瓦斯電気工業 」  の手で設計・計算、製図および実物模型製作が行われました。1937年3月に実機が完成、5月25日には試験飛行が実施されました。
   数回の試験飛行と改修を経て、1938年5月13日4時55分木更津を離陸した飛行で世界記録を達成しました。飛行時間は、62時間22分49秒でした。この長時間、乗員は殆ど 「 飲まず・食わず・眠らず 」  の状態だったと伝えられています。また、燃料満載のために無線機を搭載せず、空気抵抗を減らすために風防を極小型にしたので操縦席からの視野は制約されたそうです。要するに長距離飛行記録のために、あらゆる過酷な環境条件を乗員に課したのです。

         「 航研機 」  は軍用機ではありませんが、その技術データは、陸海軍の軍用機開発に少なからぬ影響を齎したのではないか? と老生は忖度します。日本の軍用機、特に海軍機は航続距離に秀でた機種が多かったように思います。

3 ) 航空先進国に至る道

     前記の3例の快挙は、1930年代後半に相次ぎました。これは欧米の航空先進国にキャッチ・アップしようとした 「 軍・産・学 」  の施策と研鑽・努力の成果と見られます。日本は第一次世界大戦に参戦しましたが、いわば友軍の立場であって、この大戦に初登場した航空戦を殆ど経験しませんでした。
    それは、苛烈な戦いでした。陸上戦・海上戦とは全く異質でした。航空機の性能の優劣がモロに勝敗を決しました。航空機の進歩は早く、まさに日進月歩でした。乗員の訓練には時間と費用を要し、しかも実戦に於いての消耗率は大でした。
    このような実態を観戦武官などを通じて知った陸海軍は、将来の戦いに備えるべく幾多の施策を推進しました。その中に軍用機の国産化が有りました。東京帝国大学の工学部に航空学科を
創り、技術者の養成を図りました。軍は陸・海ともに技術・研究の組織を設けました。製造会社は欧米から技術者を招きレベルアップを策しました。
    日本では軍用機の形式名称に、" 八八式偵察機 " 、" 九一式戦闘機 " 、" 九三式重爆撃機 "、などのような数字を付した時期が有りました。この数字は軍に制式化された年度を示します。即ち、" 皇紀 25XY年 "   の下2桁を採ったのです。( 当時の日本では  " 西暦紀元 "  を使わず  " 皇室紀元 "  を使いました。数値としては、西暦紀元に660年を加算すれば、皇室紀元になります。)
         八八式とは皇紀2588年、すなわち 西暦1928年、昭和3年に制式化された機種です。先に記した " 96式陸上攻撃機 "  は昭和11年、" 97式司令部偵察機 "  は昭和12年 に制式化されたわけです。 粗く云うと95式以前の機種は、外人技師の指導で開発され、96式以後の機種は、日本人技術者のみによって開発されたようです。
   1930年代、日本の航空技術者は、独力で新機種を開発設計できるレベルに達しました。また、世界の航空機の設計方針は複葉・固定脚から単葉・引込み脚に移行しつつ有りました。このような革新期には、従来の知識経験を追随せずに、自ら新しい設計方針を開拓しなければなりません。当時、活躍した主任設計者は、異口同音に「 先例に縛られる事無く、新しい発想を自由に展開できた 」  と述懐しています。彼等の年齢は、当時 20歳代から30歳そこそこでした。

4 )  " 空冷エンジン "  ,  " 水冷エンジン "   論争

    当時の航空機の動力は、殆ど 「 カソリン・エンジン 」  でした。これは、シリンダー内にガソリンと空気の混合気を吹き込み、電気火花で爆発を起こし、ピストンを上下させて動力を発生します。( 自動車のエンジンと原理は同じですが、構造は大きく異なります。)   それですから、高熱を発生するので、冷やす必要があります。その冷却方式に  " 空冷式 "  と  " 水冷式 "   が有ります。
        飛行機は大気中を高速で飛びます。また、一般にエンジンは機体の前部に配置しますから、或る程度の冷却効果を期待できます。しかし、それだけでは不十分なので、シリンダーの外面に冷却ヒレを付けるなどの工夫をしたのが  " 空冷式 "  です。
   " 水冷式 "  はシリンダーの周囲にパイプを配し、水を循環させて冷やす方式です。冷却効果は大きいのですが、構造が複雑となり重くなります。

   軍用機の場合、大馬力で高空性能の良いのが要求されます。さらに、構造が簡単で保守・整備が容易であることも必要です。この要求を満たす両機には、どちらの方式が望ましいか? これは永年に渡る論争のタネでした。老生が小学校上級生であった頃に読み耽った航空雑誌には、その論争が頻繫に掲載されていました。その論旨の大要は、「 " 空冷式 "  は構造が簡単で生産・保守・整備も容易であるが、空気に晒す面積を大きくするので流体力学的には不利となり、高速機には適さない。" 水冷式 "  はそれと反対の特徴を有する 」 との事でした。
        大筋の利害得失はその通りですが、実用器材にどのように適用するかは、各国の設計思想や国情によります。日本・米国は概ね  " 空冷式 "  を多用しました。独国・英国は " 水冷式 "  が殆どでした。世界一の自動車生産国である米国が空冷式を主としたのは、意外にも感じますが、「 苛酷な戦場で使用できる 」 事を主眼とし、空気抵抗の大きい不利は大馬力で克服しよう、との発想の依ると推察できます。独国は精密技術を得意とし、英国は産業革命の伝統を持ちます、それですから、生産性の不利を押し切っても高性能を狙ったのでしょう。日本は未だ工業力・技術力が未熟でしたから、構造の簡単な空冷式を多用せざるを得なかったと思われます。

   日本の軍用機で大戦中に活躍した水冷式エンジンを搭載した機種が2機種有ります。陸軍の3式戦闘機   " 飛燕 "  と海軍の艦上爆撃機  " 彗星 "  です。両機とも、独国から技術導入を図り国産化したエンジンを搭載しました。両機とも、その性能は卓越していましたが、それはエンジンが完全に稼働した場合でした。当時の日本の工業レベルでは、原型と同性能のエンジンを量産するのは難事でした。
その故に、生産が難航して、機体は出来てもエンジン生産が間に合わぬという破局状態でした。
   そこで、軍部は苦肉の策として、既存の空冷エンジンを装着しました。これは、容易な事ではありませんが、技術者は苦心の末、換装に成功しました。その結果、最高速度はやや低下しましたが、稼働率は格段に改善されました。

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上図は3式戦闘機 ( 水冷式 ) 、下図は5式戦闘機 ( 空冷式 )、です。3式の方が空気抵抗が少ないのは一見して明らかです。しかしながら、稼働率は格段に改善出来ました。

    第二次世界大戦の末期、独国は  " フオッケ・ウルフ FW-190 戦闘機 "  を投入して英米の爆撃機に対抗しました。これは、独国には珍しく空冷式エンジンを装備していました。また、高速機であるにも拘らず格闘戦にも強かったと云われます。一方で、米国は  " ノース・アメリカン P-51 戦闘機 "   を登場させました。こちらは米国としては珍しく水冷式エンジンを採用しました。この機は高速機でありながら、長距離航続力を備えていました。 

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      P51          

上図はフオッケ・ウルフ FW-190 戦闘機、下図はノース・アメリカン P-51 戦闘機です。

   両機とも、それぞれの国が必ずしも得意としなかった方式のエンジンを敢えて採用したのは、何故か? 航空マニアの興味を惹く謎です。しかも、どちらも第二次大戦の最高傑作機と称されています。

5 )  武装の様式:多数の機銃か、機銃・機関砲の混載か

  機関銃とは、口径7.7mm および 12.7mm を指し、機関砲とは口径20mm 以上を云うようです。一般に口径が大きくなるほど破壊力は大きくなります、特に20mm 以上になれば、弾丸に爆薬を内包できるので破壊力は格段に強まります。一方、口径が大きくなれば搭載できる弾丸数は減りますし、発射時の反動が大きいので機体の強度を増さねばなりません。このような観点から、どのようにトレードオフを図るか、それぞれの国の戦術思想によります。

   英国は、7.7mm 機銃を多用しました。名機として著名な  " スーパーマリン・スピットフアイア戦闘機 "  は、7.7mm 機銃を8挺を装備して、独国の  " メッサーシュミット戦闘機 "  と互角以上に交戦しました。この銃は初速が速く威力があったと伝えられました。
      米国は、12.7mm 機銃を多用しました。 " グラマン F4F" 、 " 同 F6F " ,  " ノースアメリカン P-51 "   等は12.7mm 機銃を6挺で猛威を振るいました。
   独国は、" フオッケ・ウルフ FW-190 "  に 20mm 機関砲2門と 12.7mm 機銃2挺を装備して、英米の4発爆撃機を悩ませました。
   日本では  "零戦 "  に、20mm 機関砲2門と 7.7mm 機銃2挺を搭載して活躍しました。大戦末期の  " 紫電改 "  は 
20mm 機関砲4門で本土に襲来した米機に対抗しました。

    上記のような差は、それぞれの国の戦術思想と工業技術の基盤によるものでしょう。
上記の例は、戦闘機の固定機銃・機関砲についてですが、空戦では守勢に立つ爆撃機は、旋回機銃・機関砲を備えます。その口径・配備・操作方式の選定にも、各国のノウハウが有るようです。

[ 元 軍用機オタク少年の云いたい放題 ]

        以上の雑文のタネは、老生が 12~16歳 の頃に貪り読んだ航空雑誌で得た知識と、オタク同士の情報交換によっで得た資料です。戦時下には、この種のオタク少年は、クラスに数人は居ました。老生は戦後に、某大学の理工学部で電気通信工学を学びましたが、級友の大半は軍事オタクでした。彼等は戦後に、米占領軍の指令により、あらゆる軍事技術研究が禁止された折に、目こぼし的に免れた分野に進学したのです。
   後年、この分野は 「 電子・情報・通信 」 という大産業に成長し、日本の技術力は世界的にも高く評価されました。敗戦後の日本が世界トップ・クラスの産業国家に成長したのは、旧軍部の技術士官が大学・研究所・メーカー等に移籍して研究開発を推進したからだ、との説が有り、概ね肯定されています。老生はさらに当時の軍事オタク少年が、その後を引きついた、と付け加えたいと思います。

               < 以 上 >

2021年9月 1日 (水)

No.279 :往時茫々 昭和・平成・令和を生きて (17)

23. 軍用機オタクの少年

  老生は今年、92歳になりましたが、戦時下には12から16歳でした。この位の年齢だと、新聞雑誌の類は読みますし、大人の話も理解します。その上、軍用機・軍艦などの兵器に関わる知識・情報は一般の軍人よりも豊富でした。当時は  「 航空朝日 」 「 飛行少年 」 「 海と空 」  「 機械化 」  などと銘打った軍事科学雑誌が10種ぐらいも発行されていたのです。老生ら、理系の軍国少年は貪るように読んで知識を得て、仲間に披露しあったのです。
  戦後、80年近くも幸いに平和が続いていますが、毎年8月ななると、戦時の回想記や論評が登場します。それらの筆者は、殆どが老生よりはかなり若い方が多いようです。それですから、ご自身の直接の体験では無く、記録を調べたり経験者にインタービューしたりして纏めた記事が殆どです。また、敢えて苦言を呈すると軍事技術についての知識が甘い、と感じる記事も散見します。
  本稿はその欠落を幾らかでも補いたいとの意図で記します。

1)  軍用機の用途と名称

      一口に、軍用機と云っても、種々の用途が有り、それに対応した名称が有ります。また、細かく云うと国により、あるいは陸軍・海軍によって種々の名称が有ります。とは云うものの、一般には、" 戦闘機 " 、" 爆撃機 " 、" 偵察機 "  と大別します。
  " 戦闘機 "  とは、相手の軍用機を空戦により撃墜する機種です。" 爆撃機 "  とは相手の軍事施設などに爆弾を投下して破壊する機種です。" 偵察機 "  とは、敵情を調査・観察して味方に報告する機種です。
さらに、海空軍では " 雷撃機 "  という機種が有ります、これは魚形水雷を以て艦船を攻撃します。また、爆弾・魚雷のどちらでも搭載できる機種を " 攻撃機 "  と云います.
    日独あるいは米英とも、大枠としては、上記の分類に依りました。その上に軍用機としての型式名称・番号
を付与します。  
  ところが、数多い回想記や論評の筆者の中には、この機種名称について充分な知識を持たぬ方を散見します。「 戦闘機の爆弾を受けた 」「 爆撃機の機銃掃射を受けた 」  などという文章を何度か見ました。この種の記述は、筆者の無知を露呈しています。一般に戦闘機は爆弾を積みませんし、爆撃機で機銃掃射などの低空からの攻撃は行いません。( 戦闘機でも小型爆弾を搭載できる機種が有りますし、小型の爆撃機では爆弾投下の際に " 行きがけの駄賃 " とばかり機銃掃射を行うケースが有りますが、これは逆に相当詳しい方でないと実態を知りません。)     
   たいていの方は、戦闘機といえば、日本海軍の  " 零戦 "   と米海軍の  " グラマン F6F "  、爆撃機といえば米軍の  " ボーイング B29 "   を知っている程度ではないでしょうか?   実戦に投入された軍用機の型式名称は多種多様なのですが。

2)  軍用機オタクが感銘を受けたトピック 

2-1 中日戦の於ける渡洋爆撃 
   1937年に始まった日中戦争の初期、九州や台湾などの基地から出撃してシナの要地を爆撃した事が有ります。
それには東シナ海を超えて長大な距離を往復できる機体と、洋上航法に熟達した操縦士らが必須です。この条件を満たすのは、海軍の  " 96式式陸上攻撃機とその乗員"   でした。
   その壮挙が新聞に公表された時、全国民は熱狂しましたが、特に軍用機オタクのメンバーは狂喜しました。それは初めて新聞紙上の写し出された  " 96式陸上攻撃機 "   なスマートな雄姿でした。

            96

上図のように流線形の胴体は   " 魚雷型 "   と云われ、主翼は伸び伸びとした直線テーパー形、垂直尾翼は2枚という特徴を有する名機でした。英国筋では「双舵の美女」と評したと伝えられます。
   この機体が発表されるまで、日本の軍用機は世界水準から遅れているのではないかと、多くの飛行機マニア、軍用機オタクの人々は思い込んでいたのです。軍部が秘密主義をとっていた故か、公表される機体は旧態依然とした複葉機や不格好な形の単葉機ばかり
でした。航空雑誌に掲載される海外の新鋭機に比して見劣りがしました。そのコンプレックスを一挙に払拭したのが、この機体でした。
   96式陸上攻撃機は優秀な機体でしたが、後尾銃座が無いので後方からの攻撃に弱い、防弾装備が不備である、との指摘も有りました。それ故、当時としては高速で有ったにも拘わらず、空戦での被害は予想よりも多かったと戦記は記しています。
   この機は1939年に毎日新聞社に提供され、「 ニッポン号 」 と名付けられ、世界一周の飛行を敢行しました。自動操縦装置・無線帰投装置など当時の最新鋭の電子航法機器を装備して安定した飛行を遂行しました、( 未だ、レーダーは出現していませんでした。) 航路は 北米→南米→欧州 の予定でしたが、折悪しく欧州で戦乱が勃発したので、途中で中止せざるを得ませんでした。   
   米国において、この機を見た某高官は 「 極東の小島国に棲む黄色人種が独力で、このような機体をビス (螺子) 1本から創り上げるとは、恐るべき民族だ 」 
と驚嘆したそうです。( 白色人種には、自分らは優秀人種であるが、有色人種は劣等人種であるとの偏見が今でも残っています。) 

        なお、96式陸上攻撃機は、1941年に開戦した大東亜戦争  ( 太平洋戦争 )  の初期、マレー沖海戦に於いて、英東洋艦隊の2戦艦を撃沈する偉功を立てた後に第一線機から引退しました。

2-2   「 神風 」 の欧亜間飛行
   1937年に朝日新聞社の高速連絡機「 神風 」は東京・パリ間を100時間以内で翔破する壮挙を成し遂げました。当時、フランス空軍省は、パリー東京 間の100時間以内の飛行記録に懸賞金を提示しました。現在なら、ノンストップで12~15時間の飛行ですが、当時は数日を要しました。その頃の飛行機では途中で給油・整備の必要が有り、10ヶ所ぐらいで着陸・離陸したのです。
   朝日新聞社は陸軍の  " 司令部偵察機 キ-15 "   の提供を得て、このコンペに参入したのです。実は既に、高名な欧米の飛行家が何人かが挑戦したのですが、不成功でした。
朝日新聞社は操縦者に飯沼正明、機関士に塚越賢璽の両氏を配し、見事に成功を収めました。10ヶ所を経由しましたが、全所要時間は94時間余、実飛行時間は51時間余という素晴らしい記録でした。

     Oip
   この  "キ-15"  は司令部偵察機という機種で、戦闘機より速く、双発爆撃機なみの航続力を持つ。という画期的な設計思想の下に開発されました。最高速度 480 km/h,  航続距離 2400 km,   というデーターは高性能を如実に語ります。敵地の奥深くに飛行して敵情を探り、迎撃されれば高速を利して離脱するわけです。防戦のための機銃さえ持ちませんでした。なお、制式化されてからは  " 97式司令部偵察機 "   と呼称しました。
   神風号の塗装は某工業デザイナーの手によるそうです。今日、羽田空港などで見かけたとしても、違和感をもたない程の出来栄えです。
                < 未 完 >



 

 


     


  

 

 

 

 

                   

 

 

2021年8月24日 (火)

No.278 : 迷論 怪説 「 VTR の方式争いと関ケ原合戦 」

1.   徳川家康の天下取りの端緒となった 「 関ケ原合戦 」  は、歴史マニアの最大の話題であり、時代小説の絶好のテーマとなっています。老生も、この分野の話は嫌いではなく、多くの小説・エッセイ・論説の類は、かなり読みました。
       その中で、老生が興味を惹いたのは、「 理と利 」 という観点から考察したエッセイでした。その論者については、不覚にも記憶も記録も残っていませんが、卓見であるとの印象は残っています。
論者の云う  「 理 」 とは、" 大義名分 "  という事です。関ヶ原の合戦で云うならば  " 豊臣政権 の正当性を守るために危険人物である徳川家康 を排除する "   という論理です。一方、「 利 」 とは、" 次の天下人と見られ、実力を持つ徳川家康に味方した方が 利益を得られる "   という判断です。


  「 理 」 を主張したのは、石田三成の一派、豊臣政権の実力文官です。これに対して「 利 」 に協力したのは、福島正則らの豊臣政権における実戦派武将です。豊臣秀吉に従い、地位も権力も得た彼らが、何故分裂したかに就いては、多くの解釈が有り、講談・小説の種は尽きません。一般には、秀吉子飼いの実戦派武将は、戦国乱世の時代には大活躍して大名の地位を得たが、天下統一が成し遂げられた時代に於いては、政治体制を整備し秩序を保つ役目の文官の発言力が増した事に不快感を持ち、事々に対立する傾向が有ったのを、家康が巧みに扇動して味方に引き入れた、とされています。
   現代のビジネス社会でも、これに類した話は幾らも有ります、組織の成長に伴う不可避な摩擦でしょう。以上を前置きとして、電子産業界の発展期に於ける 「 VTR の方式争い 」   についてアナロジカルな考察を試みます。

2.   日本は  " 磁気録音・録画機器 "   の生産大国です。1950年頃に、S-社が国産初の磁気テープを記録媒体とした  " テープ・レコーダー "   を開発しました。発売当初は、製品を見た人々は 「 面白い、便利だ、・・・・・・ 」  とは云うものの、購入の意欲は弱かったようです。S-社は販売ルートを模索した結果、教育機器として販路の拡大を図ったようです。

  1953年には、テレビ放送が始まり、技術者は次のテーマとして映像の記録機器の開発の着手しました。ところが、これは大変な難題でした。テレビ信号の情報量はラジオなどの音声信号の情報量に比して1000倍も多いのです。しかも、アナログ・デジタルの複合信号です。また、人気の番組を録画するには、2時間を要します。

  要するに、音声を録音する技法の延長・拡大では、映像・音声の複合信号を記録する事は不可能で、飛躍した発想・手法が求められたのです。電気メーカー各社は人材を投入して研究開発に努めました。多くの試行・提案がありましたが、最終的には、S-社の " β 方式 " 、V-社の社の  " VHS 方式 "  に集約されました。この2社の提案する方式は卓越していましたが、優劣はつけ難く、他社は、どちらを採用すべきか判断に苦しみました。まさに上述した 「 理 」 と「 利 」  の選択と同様の事態です。

  この場合、「 理 」  とは、技術の分野です、高性能・高機能は当然の項目ですが、生産性・信頼性・コスパ 等も重要です。「 利 」  は営業部門の最大関心事です。宣伝 等にかける経費が少なく、黙っていても大量に売れるのが理想です。
  VTR 戦争は結果としては、VHS 方式の勝利でした。「 理 」 に関しては S-社 が優位にあったようです。磁気記録のパイオニアであり、高性能を要求される放送局用機器でも高い評価を得ていました。「 利  」  については劇映画などの録画済テープを多数準備した V-社 が有利と見られました。
  V-社は、自らカメラを操作して映像 ( 動画 )  を記録し、それを再生して楽しむ人々は少なく、発売されている録画済の往時の名画 ( 映画 ) を鑑賞する人々の方が多い、と予想したのです。
同社は、蓄音機・レコ-ド ( 音盤 ) を製造・販売する企業として1930年頃にスタートしました。
  その当時、人々は録音済のレコードを購入し、それを蓄音機により再生して鑑賞しました。レコードには、クラシック音楽・流行歌・落語・浪花節などが吹き込まれていました。当時は一般人が好む音源を選んで録音する機器は存在しなかったのです。V-社などのレコード・メーカーは、歌手・作曲家・作詞家などと契約して自前のレコードを生産・販売しました。
  V-社は、その経験を活かして、映像の場合も、録画済テ-プ  ( 映画・演劇・音楽・競技 など )  の提供が有望であろう、と考えたのでしょう。そうした考えに従って仲間つくりを推進したのです。録画済のVHSテープが売れれば、VHS-VTR が売れる、と云う「 利 」を説いたようです。

      VTRの方式争いも、結局は「 利 」 の方に軍配が上がりました。企業は営利追求の組織ですから、当然と云えますが、一般に技術者は「 理 」 を求める習性が有るので、社内では S-社と組むか、V-社と組むか、侃々諤々の論戦が電気メーカー各社内で交わされました。技術者側は S-社を支持しましたが、営業側は V-社を支持したようです。

  関ケ原合戦の前にも、各大名家の中では多くの議論があり、それなりの対応が有った筈です。明らかな例は、信州 真田家です。父・昌幸と次男・幸村は大阪方に付き、長男・信之は関東方に付きました。どちらが負けても真田家の血筋は残る、という深謀遠慮によると史書は伝えています。事実、真田家の子孫は今も健在と伝えられてます。

  VTR のケースでも、同様な考えを持った経営者が居たかもしれませんが、設備投資・人材の育成などに巨額を要するので実行には至らなかったようです。
  また、同一社内でも、S-社 を支持した社員が  " 冷や飯を食わされた "   という噂はかなり伝えられました。 

  とにかく、「関ケ原合戦」は歴史の大事件でしたが、現代のビジネス社会でも類似のミニ版は、時々、見られるようです。

             < 以 上 >

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

           < 未 完 >

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