無料ブログはココログ

2020年9月15日 (火)

No. 247 : 「 面接 」 というコトバについて

1. 「 面接 」 と云う語は何時頃から使われたか

   先日、老生は 「 昭和16年の敗戦 ( 猪瀬直樹 ) 」  を読んでいて、その中に 「 面接 」  というコトバの由来が示されていて、興味をそそられました。
この著作は、大東亜戦争 ( 太平洋戦争 )  の数ヶ月前に創立された 「 内閣総力戦研究所 」  の実態を活写しています。その研究所は官僚・民間人の英才を集めて設立され、国家の大方針について研究する事を意図したようです。今日流にいえば  " シンク・タンク "   という存在でしょう。
   " 総力戦 "   という概念は第一次大戦により生じました。それ以前の戦争は前線で兵士が戦うもので、銃後の市民は直接には関与しませんでした。( 間接的な関与は、戦国時代でも有りましたが )   しかしながら、第一次大戦では、近代兵器の役割が増大し、その開発・生産には非戦闘員である市民も大いに関わりました。また、そのバック・グラウンドには国の  " 工業力・経済力 "   が有りました。
ここにおいて、" 総力戦 "   というコトバが生まれました。
       第一次大戦に際し、日露戦争の名参謀と称された将軍が戦時下の英国を視察した折、兵器工場に於いて婦女子が生産に携わっている現実を見て驚嘆したという話が有ります。将軍は、日本では近代戦を行えぬ、と嘆じたそうです。当時の日本では、近代的な工業は未成熟であり、年少・非力な作業員が高度な兵器を量産するなど考えられなかったからです。

   話を戻すと、昭和16年当時は日中戦争が膠着状態に陥る一方で、米英支蘭の4ヶ国は対日包囲陣を強化していました。それ故、戦略物資 ( 石油、ゴム、錫、鉄 など )  が不足し、そのまま推移すれば日本国はジリ貧状態に追い込まれるのは自明でした。この危機に際し、「 如何なる打開策が有るか、また。それが可能か 」  と云う命題を模索するのが同研究所の使命とされたようです。
   そのために、既存の組織・機関の枠を超えて英才を集めました。官僚・軍人・民間人と出身は多様でしたが、各組織から選ばれました。その発足にあたり 「 各組織からの選り抜きの人材ではあるが、研究所としての責任から、試験・選抜を行うべきではないか? 」  との意見が出たそうです。そこで、簡単な口頭試問を課す事になり、「 
面接 」  と云うコトバが生まれたそうです、提唱者は海軍から派遣された " 松田千秋大佐 "    でした。
このコトバが以前から中国などには存在したか否かは不明です。著者の猪瀬氏は言及していませんし、浅学の老生には語源の追及などは出来ません。しかしながら、これを契機として「 面接 」 なるコトバが世間に定着したのは確かなようです。

2. 「 口頭試問 」 と 「 面接 」

        猪瀬氏の著述によれば、「 口頭試問 」 というコトバ は以前から存在したが、「 面接 」 という語は総力戦研究所の発足に伴い、普及したと受け取れます。 
       実は、老生には「 口頭試問 」 に関しては痛切な想い出が有ります。それは、旧制中学校の受験制度が大幅に変わり、受験生であった老生も大きく影響を受けたからです。 昭和10年代半ばまで、旧制の有名中学校の入試には高度の学課試験が課せられていました。それに応じて小学4年生ぐらいから、受験勉強に没頭したものです。
   ところが、1942年の入試から、学課試験を廃止し、体力試験と口頭試問により選抜するという大変革が強行されました。時の文部大臣は 荒木 某 という陸軍の将軍でした、この人は、苛酷な受験勉強が若者の体力を低下させ軍人
として役に立たぬ、という暴論を振りかざして学課試験を廃止する暴挙に出たのです。これは、受験生にとっては、驚天動地ともいうべき変革でした。
   今でも覚えていますが、体力試験の目標として、懸垂6回・100メートル走16秒・立ち幅跳び2メートル・2000メートル走9分・手榴弾投擲35メートル、でした。これは、満20歳の地方育ちの強健な男子を対象にした値ですから、都会育ちの12歳の児童がクリヤできる筈はありませんが、とにかく一つの目標数値でした。  
    もう一つは口頭試問です。今日の就職試験の面接でも、種々のノウハウが伝えられていますが、当時は、そんな情報は有りません。せいぜい、" 姿勢を正しく " 、" 口調はハキハキと " 、" 服装は清潔に "    、と云う注意事項くらいでした。むしろ、何を聞かれるか? が心配のタネでした。 " 国語・歴史・算数・理科などの知識か " 、"勉学に対する意欲・態度か " 、 " 家庭環境か " 、" 将来への目標か " 、" 戦時体制への覚悟か " 、・・・・・と際限が有りません。12歳の少年少女に、こんな心配をさせるのは、難問といわれる学課試験よりも苛酷ではなかったか、と今でも思います。
  
    老生が受験したのは、東京府立の某ナンバースクールでした。( 今の東京都立K高校 )  事前に危惧していた口頭試問は、幸いに得意な " 理科系の知識 "  を問う質問でしたのでクリヤ出来ました。しかしながら、他のナンバースクールを受けた友人は、" 大東亜戦争にのぞむ決意 "  などと云う戦意高揚に関わる質問をされて返答に窮したそうです。恐らく中学側もどんな設問をするか暗中模索したのでしょう。
   
    とにかく、老生ぐらいの年齢層は、こんな入試を強いられたのです。なお、このような愚策は1945年の敗戦を機に消滅しました。それですから、この被害を受けた人は、今の年齢で91~87歳の人々の筈です。

    社会人になって10年も経ると、入社試験の面接委員の役が回って来ました。専門及び一般教養のペーパー・テストをパスした受験者にを面接して、社員としての適格であるか否かを判断するわけです。
面接委員は人事部のベテランと各部署からの1名で構成し、計5~6人でした。
判断のモノサシをどうするか? これは、毎回論議のタネになりながら、これは、という決定版は出なかったように思います。社員として、会社の業績に貢献してくれる人材が望ましいのは当然ですが、さて、具体的な判断基準は何か、となると誰も明言は出来ません。専門分野に卓越した学識が有り、周囲のメンバーと良く協調し、上層部には積極的に意見具申を行い、グループを率いては指導力を発揮する、というような資質が望ましいとされますが、そのレベルを面接により判断するのは至難の業です。
    総合判断としての最後の決はベテランの人事部員に任せ、老生は技術担当として専門の学識について判断しました。技術者には必須の  「 OOの原理 」 「 XXの法則 」   などの本質をどれほど理解しているか? 表面的な丸暗記ではないのか? という観点から切り込みました。老生の独断と偏見で云うと、一流大の学生と格下の大学生とでは歴然とした差異が認められました。

           面接委員のノルマが一段落した後で、毎度感じるのは 「 果たして有能な人材を採ったのか、優秀な人物の採り零しは無かったか? 」 とう反省です。巷間、「 バランスのとれた平均的な人材よりも、" 尖った人材を "   」 という説が盛んですが、それを自信をもって判定できる人は居るのでしょうか?
    米国の巨大 IT 企業の創始者や幹部は、どれも一筋縄では行かぬ人物のようです。おそらく既成の大企業の枠には入らなかったでしょう。日本においても、同様あるいはより厳しかったでしょう。

3. あとがき

   猪瀬氏の著作では、総力戦研究所は疑似内閣をつくり、来るべき大戦に如何なる対応策が可能かを詳細に検討した結果、「 敗戦は避けられない 」  という結論に達したそうです。その報告書は、国の最高指導層に伝えられました。時の総理大臣・東条英機は、研究所員の労を多としながらも、「 戦いは理屈通りに行くものではない 」  との一言で斥けたそうです。開戦後の経過はまさに報告書の通りに推移したのは周知の事実です。

   「 面接 」 と云う語を広めた松田千秋氏は、戦後には事務処理機械の会社を創業し経営する傍ら、「 反省会 」  を開き往時を回想した記録を纏めていたそうです。このような事跡から見ると、一介の軍人に止まらぬ見識を有する人物と思われます。

   蛇足ですが、入社試験に関わる談話・記事などで「 面接官 」  なる語が屡々現れますが、老生は違和感を持ちます。国家公務員試験ならば、" 官 "  は妥当でしょうが、民間私企業の入社試験には不適切だからです。この件について、老生は嘗て某大新聞に投書したことが有ります。その時、編集長の方から丁重な返事を頂きました。
   その要旨は、編集者の会議でも話題になったが、適当なコトバが見当たらない、 " 面接者 " 、 " 面接係 " 、" 面接担当 "、 " 面接委員 " 、などが検討されたが、どうも座りが悪い、一方 " 面接官 "  なる語は既に既成事実化しているので、それに従ったという事でした。

   老生は一応は了承しましたが、自身は使わない様にしています。

                < 以上 >




    

 
    

 

 

           

            <  未 完  >

2020年7月16日 (木)

No.246 :芸術は長く、人生は短い、先端技術はさらに短い (2)

3. スマホに至る携帯電話の歩み

   " 携帯電話システム "   が出現する前の個人用通信システムは  " 有線固定電話機 "  が有るのみでした。このシステムでは、特定の家屋や事業所に電話機を設置し、それには固有の電話番号を付与していました。通話に際しては、送話者も受話者もそれぞれの電話機の近傍に居なければなりません。例えば、自宅の電話機から勤務先の電話機と交信する、或いは勤務先の電話機から取引先の電話機と交信する、というようなケースです。
どちらのケースでも、電話機は特定の場所に設置されていて、通話者はその場所に行くのです。
   このシステムは1876年に  " A.G.Bell "   により発明されました。その基本原理・構造は100年近くも変わりませんでした。100年の間には、交換接続が手動方式から自動方式に進化し、信号伝送線路が銅線から同軸ケーブル、マイクロ波、光ケーブルと飛躍しましたが、有線固定電話システムの基本システムは不変でした。
   1980年代になって日米欧で殆ど同時に実用化された  " 自動車電話システム "   は、画期的な通信システムでした。自動車のように絶えず位置が変わる移動体に電話機を設置して、走行中でも通話できるシステムです。このシステムでは、電話機の位置は一定しません。従って、情報を伝えるためには無線回線 ( 電波 )  と有線回線を融合した技術が必要です。
   無線技術は1893年に G.Marconi によって発明されました。無線通信は当初は、船舶・航空機・離島・大陸間などの分野に
活用され、有線通信とは別々の発展経過を辿りました。
   通信の理想は、「 何時でも、何処でも、誰とでも、交信できる 」 とされています。この中で、「 何時でも、誰とでも 」  は有線系のみで可能ですが、「 何処でも 」  を実現するには無線系が不可欠です。さらに云えば、" 交信相手が何処にいるか "   を探し出す機能も含みます。ここで生み出されたのが  " セルラ方式 "   です。これは、" 小ゾーン方式 "   とも云われます。詳説は避けますが、ヘーゲル哲学が説く 
「 正→反→合 」  の考えを適用すれば、「 正:有線系 → 反:無線系 → 合:セルラ方式 」  と云えると思います。
   " セルラ方式 "   は妙手・奇手と云うよりも、むしろ単純・素朴な発想を物量で強行する技法とも見られます。世界中の何処かに、しかも時々刻々と移動するかも知れない交信相手を、電話番号だけの情報を手掛かりに探し出して、瞬時に通信回線を形成して通話を可能ににする、この一連のプロセスは多様の高度な技術の某大な集積により可能になったのです。
    それが可能になったのは、半導体とデイジタル技術の飛躍的な進歩が有りました。さらに、多くの加入者の中から特定の二者を結ぶ回線を構成するための   " マルチチャンネル・アクセス "    や回線の制御のためのデジタル符号に生じやすい符号誤りを自動訂正する ” 符号理論 "  、精度の高い周波数を発生させる  " PLL回路 "    などの研究開発なども必要でした。また、初期にはダンボール箱ほどの大きさであった機器を小型辞書ほどの大きさにまで小型化するには、部品・素子の超小型化・高密度化も必要でした。

    以上、極めて粗い概説を記しました。個々の細部については、多数の学術論文・特許資料・解説書が有りますから、ここでは触れません。
強調したいのは、A.G.Bell  の 電話 ( 有線 ) の発明から約200年を経て、今日の「 スマホ時代 」 が生まれた事実です。その間に、数千人を超える研究開発者、数万人を超える設計技術者の不断の研鑽努力が有りました。恐らく大半の当事者は 「 研究人生は有限、開発課題は無限 」 という現実を痛感していたと思われます。
 

4.   不発・薄命に終わった革新技術

    既述したように携帯電話機の技術革新は急激ですが、その流れは連続しています。一方、技術開発の歴史において、画期的と云われながらも大成せず短命に終わったか、不発で消滅した製品が有ります。

4-1 " ポケット・ベル "

    例えば、自動車電話・携帯電話に先行した「 ポケット・ベル 」  は好例でしょう。これは、社外に出ているセールスマンに、本社から緊急の連絡事項が生じた時などに活用されました。本社の固定電話機から呼出の番号をダイヤルすると、電話回線 → ポケット・ベル局 → 呼出信号発信 ( 電波 ) → 呼出信号受信、というプロセスを経てセールスマンは本社からの  " 呼出 "   を知ります。そこで最寄りの固定電話機から本社に連絡して用件を知ります。今から見れば、ずいぶん迂遠な手法と感じますが、当時としては、画期的なシステムでした。
このシステムは米国ベル社が先鞭を付け、日欧などが追随し事業化しました。間もなく、数字列なども送れるようになったので、簡単な情報は扱えるようになり、グループごとに独特の数字暗号を作り活用しました。特に若い女性の間に流行しました。
           このシステムは、日本では1966年に始まり、1996年には加入者数 1000万 に達しましたが、十数年遅れで開業した自動車電話・携帯電話に押され、2007年には廃業に至りました。研究開発は、1950年代から始まり、幾多の論文・特許が生まれました。老生の知人には、その分野の研究で博士号を得た方もいます。後から批判すれば、携帯電話に至る脇道の一つだったとも言えますが、この分野に半生を賭けた研究開発者は少なく無かった筈です。
   12-2

上左図は標準的ポケベル、上右図はフアッショナブルなモデルの例。   

4-2 " パ-ソナル無線機 "

    個人が使用できる無線機器として1982年から実用化されました。それ以前の無線機器は、軍隊・海保・警察・消防・などの安全保障にかかわる分野および航空・船舶・鉄道・輸送・電力・ガスなど業務に限定されていました。1982年に個人または小規模事業者にも開放されるようになり、パーソナル無線というカテゴリーが制定されました。
    この無線機の有効通話距離は10数 ㎞  で、数人~数十人のグループで使われました。宅配業者・運輸業者・保安業者・登山隊などが活用しました。1985年には98万局, 1992年には170万局
に達しましたが、続いて現れた携帯電話機に押されて次第に衰退し、2018年には制度も廃止されました。
この機器は、かなり高度の技術が盛り込まれていて、他の分野にも波及効果を及ぼしましたした。
    この制度が実施された時に、多くの業者が参入しました。" 通信機器メーカー "   は当然ですが、" 家電(白物)メーカー " , " アマチュア無線機メーカー " , " オーデイオ機器メーカー ", " カーステレオメーカー "   から  " 雑貨用品業者 "   に至るまで数十社が名乗りを上げました。しかしながら、無線機器の販売・アフターサービスにはラジオ・テレビなどとは異なるノウハウが必要とされますし、ユーザー側にも相応の知識や技法が求められた所為か市場は期待されたほどに伸びませんでした。
    しかも、やや後発の携帯電話機が、遥かに使い勝手が良く多機能であったので
、急速に普及したのに反し、期待と前宣伝が大きかった " パーソナル無線機 " は消滅してしまいました。

     22-2

上左図は携帯型、上右図は肩掛け型のパーソナル無線機の例。


4-3 " ハンデイ・コピー機 "

    比較的少量の文書や図面の要点を、出張先で手軽に複写したい、という要望は潜在的に在りました。その資料が借り出せるモノならば、自社に持ち帰り処理できます。また、最寄のコンビニ店や文具店でコピー機を利用できるならば、短時間借り出して複写できます。しかし、そのような手段が不可能であれば、その場で手持ちのノートの要点を手書きするしか有りません。
    このような問題に応えて出現したのが、" ハンデイ・コピー機 "  です。1980年代末に " F社 "    が発売した " 写楽走 "   と云う商品が嚆矢のようです。小型辞書より、やや大型ですが、携行して手軽に使用できたので、かなり話題になり各処で活用されました。しかしながら、鮮明なコピーを得るには操作にデリケートなコツが必要でした。資料の上にコピー機を載せて手動でスライドするのですが、一定速度で完全な平行移動を行うのが望ましいのですが、相当な熟練を要しました。
また、ハンデイ機とは云うものの、かなり嵩張り書類カバンには収納できず、ショルダーバッグなどが必要でした。
    これらの難点があった故か、あまり普及しないうちに市場から消えました。当初は追随する製品が数種現われ、それなりに工夫はしたようですが、上記の難点は克服できず、同じ運命を辿りました。

    3_20200904140301  
上図はハンデイ・コピー機の一例。

 

4-4   " 電子スチルカメラ ( フロッピー・カメラ ) ”

   電子技術の急速な発展により、映像・写真の世界にも電子化の気運が起こりました。S 社、C 社、F 社 などが製品を発表しました、1988年頃でした。映像情報はアナログ式で、2インチのフロッピー・デスクに保存しました。再生画像を見るには、テレビで見るのが原則でした。撮影して直ぐに大きく見られるというのが売りとされていたようです。しばらくして専用のプリンターが売り出されましたが、印画紙は専用で割高でした。
   また、充分に成熟した銀塩フイルム・カメラに比して、交換レンズなどの付属品の整備は充分ではありませんでした。形状もかなり大きく、使い勝手は良くなかったようです。そんなこんなで、大して普及しませんでした。
   1994年に、映像情報をデジタルで処理し、メモリー・カードに保存する  " デジタル・カメラ "   が出現しました。この方式は既に普及したパソコン・プリンターとの相性が良く、使い勝手が良いので、急速に広まりました。その一方で対照的に  " フロッピー・カメラ "   は姿を消しました。

     
上図はフロッピー・カメラの一例。

 

4-5 " インスタマチック・カメラ および フイルム " 

         カメラの初心者が悩まされるのは、フイルムの取り扱いでした。カメラに装填する、撮影ごとに1枚分巻き上げる、全部撮り終わったら巻き戻す、カメラから取り外す、という一連の作業には細心の注意を要します。これを誤ると、フイルムが露光してしまい何も映っていないという悲劇に見舞われたり、二重写しの憂き目に遭ったりします。観光地などに行くと若いカップルやお年寄りから、" カメラにフイルムを入れて呉れ " 、 " フイルム交換して呉れ " 、などと依頼された経験をお持ちの方は多いと思われます。
    この悩みを解決すべく、米コダック社は " インスタマチック・フイルム "  及び  " カメラ "  を発表し、各国のメーカーも追従しました。

     フイルムはカートリッジに収容され、それをカメラに入れれば、直ぐに撮影できる構造でした。すなわち、未撮影フイルムを入れる円筒状ケースと撮影済の部分を入れる円筒状ケースをプラスチック板で連結し一体構造としました。使用者は購入したフイルムの外箱を除去し、裏蓋を開いたカメラにポンと入れて、蓋を閉じれば、撮影 OK となります。撮影済となれば、カートリッジを取り出し、そのまま  " ラボ "  に持ち込めば、あとの処理はすべて 「 あなた任せ 」  で済みます。

    フイルム・サイズは、126 ( 26mm X 26mm ) と 110 (13mm X 17mm ) が有りました。126 は1960年頃より、110 は1970年頃より発売されました。各サイズに適合するカメラは各国で製造されましたが、「 手軽に使える 」 と云う謳い文句の故か、比較的簡素な機能の製品が多かったようです。そのためか、初心者層の拡大には効果があったようですが、マニア層からは軽視されました。
    特に日本の場合は、得意の電子技術を採り入れた高機能の製品が好まれていましたし、精巧なメカを駆使することに誇りを感じる国民性と相俟って、簡素・低価格のインスタマチックは人気を得ませんでした。蛇足を云うと、某コメンテター ( 非理系人 ) が、インスタマチックを称揚し、「 日本人は独創性に欠ける 」、などのタワゴトをテレビで言い触らしたことが有りました。
    フイルム・サイズが小さいのも弱点にされました。大きく引き延ばしても鮮明な画像が得られるのはライカ版 ( 36mm X 24mm ) が限度のようです、それも超高精細のレンズを用いての話です。その上、懸案であった " デジタル・カメラ "   が急速に性能・機能を高めてきたのも不運でした。
    2000年代になると、インスタマチック・システムは消滅してしまいました。

  51-110  52-agfa110

上左図は、110フイルム、上右図はインスタマチック・カメラの例 
               
  

4-5 " ビデオ・シート・レコーダー "

   磁気テープに映像・音声を記録する  " VTR ( Video Tape Recorder ) "   は日本家電のヒット製品で、世界市場を独占しました。その時期に前後して " 磁気シート "   に録画・録音する装置が数社から発表されました。R社・C社・V社などです。
   記録媒体がA4版、
シート状で扱いやすく、印刷・手書きも出来るのが売りでした。しかしながら、技術開発は進んでも用途開発が追随せず、一過性に終わりました。

   R社は教育機器を狙い、一部の教育者の支援を得て英語・国語・社会などの教材を整備し、" マイ・テイチュアー "   と名付けて市場拡大を図りましたが期待ほどの成果は得られませんでした。C社は読書機という位置付けで拡販を図ったようですが成功には至りませんでした。

    Photo_20200906091101

上図はR社の製品の一例です。


5. 発行人のタワゴト

   思いつくままに、1900年代後期に「 画期的な新技術・新製品 」として脚光を浴びながらも、大を成すに至らなかった事例を示しました。もとより浅学菲才の身で、調査不十分の事項も独断と偏見による思い込みも多々あるかと存じます。
   老生が指摘したかったのは、今日の快適且つ便利な生活を支えているのは、多数の真摯な開発技術者の研鑽努力の成果である、という事実です。
その恩恵を受けている人々の大半は、そのような事実に想いを致さぬようです。
   また、開発技術者の努力にも関わらず、ビジネスとしては大成しなかった例は少なく有りません。後から分析すれば、戦国時代の覇者が痛感した
「天の時・地の利・人の和」の条件の何かが欠けていたのでしょう。
   こんな事項を頭の片隅に置きながら、この一文をまとめました。

               < 以 上 >

           

 

2020年6月27日 (土)

NO.245 : 芸術は長く、人生は短し、先端技術はさらに短い (1)

1. 芸術は長く、人生は短し。

      一般的な解釈は、「 芸術作品は、数百年あるいは数千年に及んで歴史に残り評価されるが、人間の方は100年に満たぬ期間しか生存せず、しかも忘れ去られてしまう 」  というほどの理解でしょう。

      しかし、異論もあるようです。老生が見た資料では、" 芸術 "  とは " 医学・医術 "   を意味し、「 学ぶべき事は余りにも多く、一生を賭けても極く一部しか学び得ない 」  と云う医師の嘆きが本来の意味だ、との説が有ります。老生はこの解釈に触れた時に、賛意を覚えました。

       老生は、" 情報通信技術 ( ICT ) "  の中の一分野である " 移動無線機器 "  の開発設計に30余年も関わり多くの機材を設計しました。しかしながら、会心の作と云うほどの自信作は極めて僅かでした。
一般に
工業製品は要求された性能・機能を満たし、営利事業の立場からは、コスト・バランスを得られれば合格です。これを最小の労力と時間で達成するには、デッド・コピーが最も簡単です。既に世の中に流通している製品を、そっくり真似するのです。( ただし、この作業は専門外の方が想像するほど簡単な作業ではありません。オリジナルな技術者の設計思想を推察し、追随できる技術力を必要とします。)
       学窓を出たばかりの若手技術者であった老生は、デッド・コピーのような姑息な手法を避けて独自の設計を意図しました。ところが実作業に就くと、何から何処から着手するか全く五里霧中でした。大学で学ぶのは基礎理論であり、対象を細分化して錐を揉み込むように鋭く解析するのですが、製品設計は所要の性能・機能を持つ器材を具現化するという総合化
作業であって、全く逆の流れなのです。
   況して、既存製品に比して、何らかのプラス・アルフアを加えようとするならば、既存技法の盲点を探したり、既存技術に何らかの改善を加えねばなりません。これは、苛酷な難事業です。山のように有る文献資料を調べ、それを理解した上で、実用器材の設計に適用してメリットを得る見込みの有無を判断しなければなりません。
   
このような作業に没頭していると、「 技術のタネは無限、それを具現化する時間は有限 」  との感に悩まされたものです。このような心境は、難病患者を前にした医師が自らの知識・技能の不足を嘆く心境が痛いほど理解できます。

2. " 人生は短いが、先端技術はさらに短い "

   老生の経験を通じて、さらに痛感したのは先端技術の有効寿命の短さです。その例として「 携帯電話 機 」  を挙げれば、何方も首肯されるでしょう。その開発の起こりは  " 何時でも、何処でも、誰とでも、交信できる電話機 "   を意図したツールでしたが、今や多機能の情報機器として、広く活用されています。しかも、その進歩は極めて速いのを痛感します。
   初めて携帯電話が登場したのは、1980年代でした。当時は音声通信  ( アナログ方式 )  のみの機能で、交信範囲も限られていました。形態も大きく、ショルダーバッグ又は小型辞書ほどの大きさでした。価格も高く、医師・高級官僚・経営者などしか使用できませんでした。この時代の機器を第一世代 ( 1G )  と称します。それ以来、ほぼ10年毎に新技術が導入されて機能を拡大してきました。下記のとおりです。

  第一世代 (1G) 1980年代 アナログ方式 音声通話
  第二世代 (2G) 1990年代 デジタル方式 パケット通信
                                         
電子メール
  第三世代 (3G) 2000年代 世界共通デジタル方式
                                           インターネット接続

  第四世代 (4G) 2010年代 動画 SNS 
  第五世代 (5G) 2020年代   あらゆるモノをインターネッ
               ト
接続 (IoT) 自動運転
                                            ロボットの遠隔制御

       各世代の機器は、業界一流の研究開発担当の技師が心血をを注いで世に生み出した製品です。その業務に直接に関わった技師の人数は、全くの推定ですが国内で数百人 世界では数千人に及ぶでしょう。その上に、膨大な「 カネ・モノ 」 が投入された筈です。( ここに挙げた人数は、機器の設計者のみに就いてのヤマカン的な見当です。)  この他に " 通信方式の研究 " ・ " 部品素子の開発 " ・ " 課金方式の検討 "  などの担当者が居ますし、 " 基地局設備の設計・建設・運営 "  などのスタッフが存在しました。
   これらの大量の資源を投入した成果は市民生活に大きな影響を齎しました。しかも、ほぼ10年毎に新世代の機器が出現します。その技術革新は素晴らしいと感じますが、反面において技術の有効寿命の短いのを慨嘆したくもなります。正に " 先端技術は、人生よりもさらに短い "   と痛感させられます。

 3.アナログ時代 (1G) の機器の説明   
                               
           

   左図は1970年の大阪万博に出品された  " ワイヤレス・テレホン "   です。世界に先駆けて公開された機器で世界から注目されました。当時は半導体の技術が充分ではなかったので、開発者は苦心したそうです。また、交信範囲は万博会場を中心として限定されていました。
   中図は1980年代に実用化された  " 自動車電話機・TZ-801型 "   です。今日から見れば高価な大型機器でした。加入料金は 83,000円、月間基本料が 30,00円も、通話料金は280円/3分でした。さらに
保証金として200,000円も要しました。それですから、「 自動車に電話機が付いているのではない、電話機に自動車が付いているのだ 」  と揶揄されました。加入者は医師・弁護士・経営者などの高所得者に多かったようです。また、機材の本体は車のトランクに装備し、アンテナは屋根に取り付けました。送受話器 ( ハンドセット )   だけが運転席近くにセットされました。
   右図は  " ショルダーホン・100型 "   という肩掛け方です。新聞・テレビなどの報道記者が活用しました。これらの機器は音声 ( アナログ方式 )  のみで、今日の  " スマホ "   のような多機能ではありませんでした。交信範囲は東京・大阪などの大都市圏が中心でした。

4. デジタル時代 ( 2G 以後 ) の機器の説明

  Photo_20200803091301    Photo_20200803091401

      左図はNTTから発表された  " デジタル・ムーバ "  です。左から " N 型 "  ,  "F型 "  ,  "P型 "  , "D型 "    と称します。 性能・機能は同一ですが、メーカーが違います。この機材はデジタル方式でしたが、今日の機器のような多機能では有りませんでした。
  中図はNTTの  "FOMA らくらくホン "   で機能は大幅に拡張されました。今日の " スマホ "   の先駆とも云えますが、国際規格化されなかったので世界的には普及せず、今日では " ガラケー "   という揶揄を込め言い方をする人がいるのは、残念です。彼らは「 私、使う人 」 であり 「 造る人 」 の研鑽努力に想いを馳せぬ浅薄な人々です。
  右図は国産の  " らくらくスマホ me F-03K "   です。米アップル社の  " i Phon "   に匹敵する多機能機です。 

5.   発行人の一言 

  今日のスマホは、単なる携帯電話機の域を遥かに超え、万能の携帯情報端末機になっています。有線系・無線系の統合を目指した自動車電話システムが当初の意図を遥かに超えたシステムに成長した事は驚異です。その技術的基盤は半導体、特に ”CPU ( 中央処理装置 ) "  の発達・高度化です。

   「 日進月歩 」  というコトバは 100年も前から有りましたが、半導体が発明・実用化された1950年代頃より 「 秒進分歩 」   というコトバが流布しました。半導体は ” 産業のコメ " と称せられるように、あらゆる工業製品に活用され、延いては市民生活・社会体制に大きな影響を与えました。
しかも、その半導体そのものの進歩は極めて速いのです。 その特徴を 速やかに把握した上で、有効に活用する回路技術を模索し、電子機器として纏め上げた製品はライバル企業と競争せねばなりません。
それも性能・機能だけでなく、操作性・耐久性・コスト・生産性・保守整備性など競争項目は少なく有りません。

   真に、人生は短く、学ばねばならぬ学識・技能は多く、しかも先端技術を盛り込んだ製品の有効寿命は人生よりも短い事を慨嘆したくなります。 

             <以下次号>

 


 

 

 

 

 

 

 

 

                    

2020年5月26日 (火)

No.244 : 蔵書についての迷論惑説 (2)

3. 市民知識層の蔵書量はどのくらい ?

   知識層の定義は明確ではないようです。一応、大学卒かそれ以上の学歴を持ち、ホワイト・カラー的な職業に就いている階層とします。今や18歳人口の 50% は大学生だと云われますが、卒業後にホワイト・カラー的職業に就ける者は、半分ぐらいだそうです。このように想定すれば成人人口の 25% は知識層と見込めますが、それは過大とも感じます。
近時の大学生の中には、「 分数計算ができない 」  「パーセントの意味内容を理解していない 」  「 英語の進行形や "be 動詞 "  を知らない 」  人が少なく無いようですし、卒業後の就職もグレイ・カラー的かそれ以下の人も相当いるそうです。それらを考慮すると、知識層に値する人は成人人口の 10% ぐらいかもしれません。
   その詮索は、一応棚上げにして、知識層の蔵書量は幾らぐらいでしょうか? 
老生が独断と偏見を駆使して、見積もれば1000~3000冊も有れば、相当な読書好きと思います。その根拠は、購入費用と収納場所です。 毎月5000円を投じれば5冊ほど、1年で60冊、30年で1800冊になります。また、4畳半ないし6畳間を書斎として占有すれば、幅90cm  高さ180cm  ぐらいの既製書棚を4~8個は置けます。書棚1個に300冊入るとすると1200~2400冊は収納できます。
実は、このくらいの資金と場所を工面できるのは、相当な愛書家であり且つ奥方の理解を得られる方でしょう。
    この推定で、書籍購入費は180万円になりますが、これを高いと感じるか否かは各人の生活感覚や人生観によるでしょう。蛇足を云うならば、小型乗用車の価格や海外観光旅行の費用と比べれば、贅沢な出費ではないと老生は感じますが。

. 蔵書の活用・管理・保管に関わるモロモロ

   老生の私見では、相当な愛書家・読書人でも個人持ちの書物に就いては、自然体で扱っているようです。つまり、図書館で行うように蔵書票を貼り、分類番号を記載する事はせず、専ら所有者個人の感覚・記憶に頼って管理しているわけです。個人持ちの程度であれば、概ね可能のようです。
   老生の学生時代の経験では、教授の研究室には膨大な書籍・文献・資料が無造作に書棚に詰め込まれていましたが、特に分類も整理もしていませんでした。それでも教授は配属された研究生に対して、的確な指示を行い必要な資料を取り出させました。教授の頭脳には、学術資料の内容や価値だけでなく、その収納場所までも明瞭に刻み込まれていたわけです。
        学者・研究者が学術論文を書く際には、参照した文献・引用した文献を正確に記載するのがルールです。それですから、文献・資料の取り扱いには細心の注意を払います。教授の研究室には、恐らく数千以上の図書・文献が有る筈ですが、それを目録なしに自由に検索・閲覧する手際には敬服します。もっとも、研究室に助手や大学院生が在籍していますから、それらの方々が陰でサポートしているケースも有るでしょう。
   作家や評論家の中には、秘書を身近に置いて書籍や資料の管理を任せている方もいるようです。さらに上を行くのは、複数の助手に原稿を分担して受けもたせ、それを総合・アレンジして作品に仕上げるライターがいるそうです。まさに文章工房の主という形です。このような話を聞くと、「 それでも作家か 」  と疑念を抱く方も居ると思います。しかしながら、学術書では、権威ある監修者の下に数人の著者が各部を受け持つ共著の形式は珍しく有りません。
   都市伝説に近い話ですが、海外からの学術書が貴重であった時代に、同じ書籍を2冊購入した学者が居たそうです。1冊は大事にしまい込み、1冊には、傍線・書き込み・付箋貼り、などをして完全に理解しようと努めたそうです。或いは、製本をバラして1頁ごとに白紙を挟み込ませて再製本させる方も居たと云います、この白紙には読者としての注記・感想・追記を書き込むのです。その当時は海外の学術書は極めて高価ごでしたが、それでも敢えて上記のような手段を執ったのは、海外に追い付く必死の策だったのでしょう。蛇足を云うならば、現在では複写機・パソコン・簡易製本具などを駆使して、同様な効果を得られます。

5.蔵書の処分に関わるモロモロ:古書店主の情報網

   収納スペースの制約と読書嗜好の変化から、10年も経れば蔵書の一部を処分する人は多いと思います。老生も、過去に何度か古本屋さんと交渉を持ちました。その経験から感じるのは、世情の変化と共に古書の価格が変動する事です。例えば1950年代では、戦前に刊行された百科事典・文学全集・哲学書の類が高値で取引されました。戦災で多くの蔵書が失われ、その後の再刊は困難だったからです。
1960年代になると、漸く再刊書・新刊書が現れるようになり、戦前版の古書の価格は特殊な品を除き低下しました。旧版の百科事典などは甚だしかったようです。
         老生の親族に音楽大学の教授が居て、その人の死後に蔵書の整理をした経験が有ります。その時に、専門古書店主の情報網の凄さを経験しました。故人と交渉のあった芸術専門の古書店に電話すると、早速ライトバンを駆って現れました。故人は  " 西洋中世音楽史 "  の権威として、貴重な文献資料を多く所蔵していると学者仲間では知られていたそうですが、却って近親者は知らず、専門の古書店主の方が熟知していたのです。
来宅した古書店主は書棚に並ぶ横文字の本を一睨みしただけで
「 はい、OO万円 」  と云い切りました。遺族側の人々は全く専門が違うので、異論も反論もなく、取引は済みました。その後でお茶を飲みながら、業界の事情を興味深く聞きました。
   今から約40年ほど前に、芸術・音楽系の大学の新設、あるいは既設大学の芸術・音楽系学科新設が盛んに行われました。その際には膨大な資料を関係官庁に提出して審査を受け、認可を得るのです。資料の中には蔵書のリストが有ります。新設の学部・学科の内容や学生数などに応じて、備えるべき図書の種類や冊数が指定されるので、その条件を満たさねばなりません。
そのための書類を整え、且つ現物を手配
・配列する作業は容易なことでは有りません。そこで、一連の作業を有力な古書店に丸投げする事例も有りました。古書店側は情報網を巡らして学園側の新設計画を察知して、それに対応するメニューを創り、学園側に売り込むわけです。現に老生が交渉を持った古書店主は、数ヵ所の大学の注文に対処したそうです。
    このような事例は、老生も後年に経験しました。民間企業で開発設計の技師であった老生は役職定年後に地方私大の教員に転職しました。その時、その私大で学科新設の企てが有り、その折に上記のような専門古書店との交渉に新任の老生も顔を連ねましたが、古書店主の情報通には驚かされました。
    やはり、都市伝説でしょうが、卒業論文のテーマにに悩んだ大学生が、古書店主に愚痴ったところ、古書店主は適切なアドバイスをして呉れたそうです。その古書店主は学生の指導教授の学風・研究態度などを熟知していたからだと伝えられています。これも、古書店主の実力を示す挿話でしょう。

6. ブログ発行人のタワゴト

    老生は子供の時から読書好きでした。しかし両親には、その性向・習慣は有りませんでした。母親は歌舞伎を好んでいたので、「 世話狂言傑作集 」  「 時代狂言傑作集 」  の類が10数冊ほど有りました。老生は親から与えられた小学生向きの名作シリーズなどは忽ち読破したので、前記の狂言集までも読み漁りました。
    旧制中学校に入学してから、級友の家を訪ねた時に、壁一面に並んだ書棚に収められた文学全集の類を見て、別世界の感を抱きました。また、別の級友の家では 「 少年倶楽部 」  「 新青年 」  「 子供の科学 」  などの雑誌がズラリと並んでいるのを見て驚嘆しました。老生の家庭は、多数の書籍が本棚に整然と並んでいるような環境では無かったのからです。
大學は理工学部でしたが、級友の中には文芸系の書物を多数読んでいる者が相当数いました。実験やレポートに追われる多忙の間にも、「 岩波文庫をXX冊読んだ 」  「 世界文学全集を読破した 」  などの話が飛び交っていたのです。これは脅威でした、老生は読書好きを自称していましたが、老生を上回る読書家が少なからず居たのです。
    上記のような幼少期から青少年期の読書経験を経て、今や卒寿を超えるに至りました。すべての職業をリタイアして20年のなります。この間、毎週のように図書館の通い、目についた本を借り出しています。80年以上も読書を続けられているのは幸せです。
< 以上 >        

2020年5月22日 (金)

No.243 : 蔵書についての迷言惑説 (1)

1. コロナ篭りと蔵書整理

    コロナ篭りが続くと、家庭内のモロモロの物品の断捨離に精出す人々が少なく無いようです。老生は公営共同住宅に住んでいますが、その不用品廃棄置き場には、多種多様の家具・器具・備品の類が溢れています。企業も学校も自粛・閉鎖となり、自宅にゴロゴロしている状態が長引けば、この際、家庭内の断捨離でもするか、と云う気分になるのでしょう。
         その中で老生が興味を引くのは、かなりハイレベルな書物類の廃棄が少なく無い事です。ハード・カバーの文学全集・専門学術書・百科事典なども多く、読み捨ての週刊誌や大衆娯楽誌などはそれほどでもないようです。この現象は矛盾しているように感じるかも知れませんが、老生が敢えて忖度すれば、手軽な雑誌の類は日常的に少しずつ
処分している故に目立たないが、ハードカバー書籍は処分に際しても再三再四も考慮した挙句に " エイヤッ "  と思い切り、廃棄品として出すので目立つでしょう。
   そのような光景を眺めていると、一般市民は、どのような種類の書籍を何冊ぐらい所持しているのだろうか?  世に識者  ( 学者・研究者・評論家・作家・ジャーナリスト・・・・・ )   と称せられる人々は、どれ程の書籍を保有し、それをどのように管理・活用しているのだろうか、また、その購入資金はどうして捻出しているのだろうか? と云う疑問を生じます。
  そこで、手近な資料・情報を調べ、その上で独断と偏見を以て迷論を展開します。

2. 著名な蔵書家と蔵書数

  確かな統計資料は見つかりませんが、日本では、" 渡辺昇一 "  、 " 谷沢永一 "  、 " 井上ひさし "  、   " 司馬遼太郎 "  、 " 立花隆 "  、等の諸氏がトップ・クラスで、10万冊を超えるか、それに近いと云われているようです。

  " 渡部昇一教授 "  は、多くの著書が有りますが、その中で自身の読書遍歴・収集ポリシーに就いて触れています。教授は研究者 ( 文系 )   は本物の文献を自前で持たねばならぬ、と強調しています。教授は、「 図書館を活用すれば充分だ 」  などとの俗論を排撃しています。また、大英百科事典などは最新版だけでなく、旧版も備えて同じ項目でも比較参照する必要がある、とも説いています。まあ、教授は英語学のプロですから、そのような厳しい姿勢を示すのでしょうが、その方針は傾聴に値します。
教授は喜寿に達した頃に、立派な書庫を建てたそうです。耐震・耐火構造で空調設備を備え、個人用としては世界有数の完備した書庫であると海外からも評価されたと云われます。
  " 谷沢永一教授 "  
は嘗て、日本一の蔵書家と称されました。その蔵書は後に勤務した大学に移管されたそうです。" 井上ひさし "  、" 司馬遼太郎 "   のケースでは個人名を冠した文庫 (小図書館)  が、開設されているそうす。

2_20200524094701  Photo_20200524093601   Photo_20200524093701    
 渡部昇一教授    谷沢永一教授     井上ひさし

" 立花隆 "  は「 猫ビル 」  と命名した書庫兼書斎兼事務所を建てました。10坪ほどの狭小な土地に造った3階建てですから、忽ち満杯になり、別にロッカ-・ルームを借りる羽目になったそうです。

    文豪・" 夏目漱石 "  は、個人図書館の所有を念願としていたという話が有りますが、実現はしませんでした。東京都新宿区喜久井町の旧居は戦災で全焼し、近年になって整備した小公園の中に小さな記念館が在りますが、漱石の著作の一部が展示してあるだけです。また、名古屋市の近郊に在る 「 明治村 博物館 」  には夏目漱石旧居の再現が見られますが、蔵書に関する展示や資料は無かったと記憶します。

            ジャーナリスト・ノンフィクション作家・評論家の開祖とも云える " 大宅壮一 "   は、雑誌・雑書のコレクターでも有りました。氏のコレクションは 「 大宅壮一文庫 」  として、保管・公開しています。取集した雑誌は1万種類・80万冊に及びます。
索引は人名索引と件名索引の2本立てであり、ジャーナリスト諸氏の参照が多いそうです。
   

                 < 以下次号 >

2020年5月10日 (日)

No.242 : 小説を読んで疑似社会体験 (2)

5. 作家の吉村昭は、科学技術者を主人公とする多くの作品を発表しました。その中に 「 零式戦闘機 」  と題する名作があります。名機・零戦を生み出した主任設計者 " 堀越二郎 "  を中心とする設計陣のメンバーの努力と苦難を活写した実録小説です。その中の名場面は、試作機の試験飛行の描写です。「 機体が陽光に輝き、エンジンを始動した時、それは単なる無機物ではなく、生命を得た生き物として、大空に飛び立って行った。・・・・・ 堀越らは光る構造物に生命が宿りつつある事に、胸のうずくような感動を感じ続けていた。」   という一節を老生は何度も読み返しました。
  老生は、嘗て無線通信機器の開発技師でした。技術内容は大差が有りますが、試作機器の動作試験に際して予期した性能・機能を実現した時の喜びは何度も経験しました。それですから、作品の記載には大いなる実感・共鳴を感じます。
   また、氏には 「 深海の使者 」  なる作品も有ります。第二次大戦に於いて、日本軍部は同盟国・独国より秘密兵器の導入を策します。しかしながら、そのルートに関わる制海権・制空権は既に連合軍に握られていましたから、潜水艦による単独隠密行動が唯一の手段でした。この作戦の投入された日本の潜水艦は4隻でしたが、日独間の完全往復は1隻のみ、他は往路または復路で撃沈されました。
その中の1隻に乗り組み、貴重な技術資料の一部を持ち帰った海軍技術士官の手記を基にした実録小説が、この一編です。
その中に、敵艦の爆雷攻撃を避けるために、長時間潜水するシーンが有ります。潜水中の潜水艦の頭上の海面には多数の対潜艦艇が遊弋しています。その包囲網から逃れるために機関を始動することは出来ません、機関音を捕捉されて忽ち爆雷を投下されます。それを避けるには機関を停止し、艦内の人の動きや会話を止めて無音の状態を保ち、敵の艦艇が諦めて退去するのを期待するのが唯一の対策です。
氏の作品はこの情景を詳述しています。潜水・停止の潜水艦で深刻なのは、
音の問題よりも酸素の欠乏です。潜航開始時には、艦内の空気は清浄ですが、時間を経るに従い酸素は欠乏します、この状態から逃れるには浮上して外気を採り入れるしか有りませんが、未だ敵艦艇が警戒態勢に在るならば、その途は死です。
氏の作品では、この極限状態を詳述しています。酸欠の限度に近つ"くと常識では想像も出来ない珍現象があると記しています。例えば、机の引き出しを開けると、中の空気が透明に澄んで見える、との事です。それほど艦内の空気は汚れ濁っている、というわけです。このような文を読んでいると、息苦しさを感じ思わず深呼吸をする程です。それほど迫真味が有る記述です。換言すれば強烈な疑似体験に引き込まれるのです。

6.  感染症の流行により、都市や国家が壊滅状態に陥った歴史は、何度もあったようです。それらを採り上げた文芸作品には、" アルベール・カミユ "  の 「 ペスト 」   や  " エドガー・アラン・ポウ "  の 「 赤き死の仮面 」   などがあります。老生は数十年前に読んで慄然とした事を思い出しました。感染を避けて富裕階層の人々は、山荘に立て籠もり、その中で浮世離れした歓楽に日々を過ごす、という物語は現代人にも疑似体験を提供しもているとも云えそうです。
また、伝説的な大予言者    " ノストラダムス "    はペストが猛威を振るった時期に忽然と現れ治療に腕を振るったと云う話も有りました。その中で、「 防護服を身にまとい、予防薬を口に含み 」   などの記述も有るそうです。

7.  SF の開祖と称される海野十三の作品には、多くの未来世界を描いた作品が有りますが、これは一種の疑似体験を提示しているとも云えるでしょう。
   ここで採り上げたいのは 「 空襲下の日本 」  という昭和初期の作品です。某国の爆撃機の空襲により帝都が壊滅するという物語で、昭和初期の作品ですが、いま読んでも 的確な予想に一驚します。
その予想とは、「三次元空間を飛来する敵爆撃機を完全に阻止するのは、不可能である。成層圏の高々度を飛行する敵機には8センチ高射砲では届かない、10センチ級の高射砲が要る。迎撃戦闘機も高々度で格闘戦を行うための性能と機能を持たねばならぬ・・・・ 」   と云う内容でした。
この予測というか警告は10年後の太平洋戦争で恐ろしい程、的中しました。
   また、「 太平洋雷撃戦隊 」  という作品では、米本土からハワイ基地まで戦略物資を運ぶ輸送船隊を日本潜水艦隊が攻撃して、米軍を物資不足に陥らせるという展開です。ところが実戦では逆に日本が南方から内地に資源を送る筈の輸送船隊が米潜水艦の攻撃に曝されて壊滅する羽目になりました。この作品も、その予測のキーポイントは見事に的中しました。
   氏の、この種の作品は、未来の戦いの様相を読者に疑似体験させた、と見ることができると思います。氏は理工系大学を卒業し、某国立研究所に勤務した経歴を持ち、海外の科学事情に精通していたそうです。

8.  以上、いささか老人のタワゴトを書き並べました。コロナ篭りの毎日で、旧い蔵書を引っ張り出して読み返しています。それで改めて痛感したのは、何十年もの社会経験を経ていた故か、読後感も初見の時とは、かなり異なるという事です。若年未熟の時には、「 えーっ、そんなこともあるのか? 」  という驚きの感じでしたが、海千山千の人生を経た現在では 「 いろいろ有らーな 」  という程度の軽い受け取りです。
ともあれ、「 忙中閑有り 」  ならぬ  「 閑中忙有り 」  を無理に創り出している毎日です。
 < 以 上 >

2020年5月 4日 (月)

No. 241 : 小説を読んで疑似社会体験 (1)

1. コロナ篭りの日々が続きます。家庭内で過ごすには、テレビ・読書・家庭内の整理、軽い体操、DIY ( 日曜大工や趣味の工作など )  ぐらいが最大公約数ではないでしょうか?
卒寿を超えた老生も、かなりの時間を読書に充てています。とは云っても新刊書の購入は経済的な制約があり、公共図書館は休館中ですから、旧い蔵書から選んで再読するしか有りません。

2.   「 黒革の手帳  ( 松本清張 ) 」  を読み返しています。 40年も前の作品です。この作品は上昇志向の強い銀座のバーのオーナーママのサクセス・ストーリーです。作品が発表された頃、老生は某上場企業の中間管理職でしたが、通読して別世界の感を抱きました。当時は高度成長・技術革新の嵐の中でしたから、老生は開発部門で成果を挙げるのに没頭していたからです。同期の仲間でも営業部門にいる連中は、顧客の接待に明け暮れていて、銀座の高級クラブに馴染みを持つ人もいました。しかしながら、技術系の者は全く無縁でした。
   今回、再読して作者の調査能力・物語の構成力に感嘆しました。そうして、世の中には膨大な 「 裏金 」  が存在し、その流れが表の社会にも少なからざる影響を与える事を再認識しました。
作品の登場人物の一人に、婦人科・美容外科の病院長がいます。健康保険の適用外の治療・手術で得た膨大な金額を、銀行には架空名義・無記名で分散して預金して、税金の網を逃れるというテクニックが詳しく記されています。受け入れ側の銀行も、その実態を知りながらも黙認・協力します。
また、医大受験予備校の理事長は、合格率を上げるために医大の経営層や監督官庁の幹部に働きかけます。いわば、裏口入学の仲介役をするわけで、その間に多額の運動費が予備校生の父兄から流れます。当然、少なく無い手数料が理事長の手に渡るわけです、税金などはかかりません。
このような裏金の秘密を知った30台の女性銀行員が、それをタネに勤務先から巨額の金を横領します。銀行側は、その事実を知ってからも対外的な信用失墜を恐れて不問に付します。
   当の女性行員は、その金で銀座に小さなバーを開きます。オーナー・ママとなった彼女は、ホステスの確保に、ライバル店との苛烈な競争に、パトロンの獲得などに辣腕を振るって、業界ナンバーワンを目指します。その間には、闇社会のボスや政財界の陰のフイクサーとの交渉も有ります。
もとより、小説ですから実録では有りません。しかしながら、「 事実は小説より奇なり 」  とも云われます。この作品はフイクションでも、部分的にはかなり真実に迫るのではないかと感じました。
   ここで独断と偏見で云うならば、勤務先と家庭の間の往復に明け暮れる平均的なサラリーマン氏に、" 
別社会の実態を疑似体験させる "   効用が有ると云えるように思います。

3.  大正期から昭和初期にわたって活躍した  " K. K "  と云う作家がいました。氏は作家と云う職業がビジネスとして成立することを実証した最初の人だと評されたそうです。氏は作家としての地位を確立した上に、文芸を中心とした総合雑誌を創刊して成功したのです。
氏は、機会を捉えては 「 世間に未熟な若年者は、小説を読み世の実態を知って、一時の誘惑に負けて軽率な行動をしないように自戒すべきである。」   と云う意味の発言をしたそうです。氏の作品は男女の交情を描いたたものが多いので、「 マッチ・ポンプ 」  の感を免れませんが、そのような読み方も有り得ます。
換言すれば、" 小説を読み未知の世界の疑似体験を積んでいれば、不良男性の陥穽に陥る危険を回避できる  "   というわけです。

4. 老生は、高度成長・技術革新に関わった人物・組織の物語を好んで読みました。それは、老生自身がその世界の末端に在籍し微力を尽くした経験を持つからです。
1945年の敗戦の結果、日本社会は破産状態でした。国土の大半は焼け野原となり、モロモロの産業は壊滅状態でした。市民の生活は「 住むに家無く、食うに食無し 」 という窮状でした。それでも、人々は総力を結集して努力した結果、10年にして戦前の経済に戻り、20年にして高度成長に成功し、30年で幾多の技術革新を成し遂げ世界の先端に伍しました。
この時期には多くのノンフイクション作家が技術開発の物語を著しました。記憶を辿ると 「 日本の半導体開発 」 「 電子立国日本の自叙伝 」 「 プロジェクトX 」 「 匠の時代 」   などが有りました。これらの記録に登場する人物は、当時の老生にとっては、尊敬に値する先輩、同年配のライバル、頼もしい後輩でした。たとえ専門分野は違っても、開発についての情熱・努力・献身には魅せられました。
これらの作品の登場人物の専門分野と老生の分野とは異なるケースでも、技術開発という大枠では相通じる事も多く、大いに参考になりました。疑似体験というよりも実体験そのものという感覚でした。

                   < 以下次号>

 

 

2020年4月18日 (土)

No.240 : 「 緊急事態宣言 」 に想う

     新型コロナ感染症の蔓延は止まず、遂に  「  緊急事態宣言  」  が全国47都道府県に及びました。この報に接して卒寿の老生 は反射的に往時の  「 戒厳 令  」  を想起しました。

「 戒厳 令 」 について

   これは、 " 戦時 " 、" 自然災害 " 、" 暴動 " 等に際して、軍事力を以て国家の一部若しくは全部を統制下に置く事です。この際、国民の権利を保障した  " 憲法 "  などの諸法規の一部を停止したり、" 行政権 " 、" 司法権 "  の一部若しくは全部を軍部の統制下に移行します.
        日本では、日清戦争および日露戦争において、軍事基地を有する地方都市に実施された例が有ります。さらに、" 緊急勅令による行政戒厳 "   が発令された例があります。それ
は、1905年の 「 日比谷焼き打ち事件 」、1923年の 「  関東大震災 」、 1936年の 「 二・二六事件 」  の3回です。
   最後の 「  二・二六事件  」  の時に、老生は小学2年生でしたから、詳しくは判りませんでしたが、それでも父親が新聞  ( 多分、号外?)  を片手に 「 大変だ、大変だ 」  と云っていたのを覚えています。また、東京には珍しい大雪が降っていました。その時、子供心にも、非常な不安に襲われたものです。
         第二次大戦後、日本は数年間にわたり米占領軍の支配下に在りました。内閣も官僚組織も存在しましたが、政策の大筋は米軍から発しました。過激なメーデーや大規模ストライキは米軍の指示で鎮圧されました。この状態は実質的には、戒厳令下の市民生活だったと老生は感じています。
これは、日本人にとって、4回目の大規模な 「 戒厳 令 」  と見られるのではないでしょうか?

   戦後、日本には軍部は存在しませんから 「 戒厳 令 」 の発動は法的には起こり得ません。しかしながら、「 それでも良いのか? 必要な事態が起きる可能性はないのか ? 」 という危惧は存在します。

「 緊急事態宣言 」 について 

        
この場合は、現在の政権および地方自治体が、現行法規の範囲で行動します。従って、" バー " 、" クラブ " 、" ライブ "   などの三密を想定される事業者に営業自粛の要望は出しても、休業命令では無く、また要請に従わなくても罰則は有りません。自粛しない業者名を公表するなどと云っていますが、実効は有るのでしょうか? 強制力も罰則も無いのでは効果は期待できないでしょう。
  
 一方、諸外国のコロナ対応の映像がニュースに紹介されますが、警察官が強い態度で臨んでいるケースを散見しますから、ある程度の強制力が有るようです。

   老生は法規や国際事情には疎い者です。それですから、一見同じような法制用語でも日本と諸外国では内容に差が有り、公権力の行使も異なるとは想像しますが、細部については無知です。しかしながら粗く見ると、諸外国での緊急事態は  " 戒厳 令 "   にかなり近いようですが、権力が軍部に移行するか否かという視点では大きな差異があるのでしょう。

「 卒寿老人の妄想 」

          老生は1929年の生まれです。戦前の  「 二・二・六事件 」  を微かに知っています。さらに1937年に始まった日中戦争,1941年からの大東亜戦争 ( 太平洋戦争 ) , 1945年からの米占領軍による統治、を全て経験しています。これらの時代は、実質的には 「 戒厳令下 」  に在ったと云っても過言ではないと思っています。思いだすままに事例を記しています。 

   戦況が苛烈になるに従い、不急・不要の産業は一切停止になりました。例えば、老生の父親は呉服店を営んでいましたが、和服とくに婦女子向けの商店などは戦時下には相応しくない、として廃業に追い込まれました。そして父親は軍需工場で兵器生産の作業員になって生計を支えました。また、老生は中学生でしたが、学業は殆ど棚上げされ、軍需工場に動員されました。 
   衣食などの生活用品は 「 配給制 」  になり、 " 家族数 " 、 " 職業 "   などに応じて割り当てられた量が指定の店を通じて指定の期日に配給されました。その配給量は充分でなく、そのために非合法の流通ルートが横行する事態になりました。また、配給の実務を受け持ったのは在来の   " 米屋さん "  、" 酒屋さん " 、" 煙草屋さん"  、などでしたが, 俄に態度が大きくなり役人風を吹かすようになりました。
   さらに、空襲の
危険が迫ってくると、家屋の  「 強制疎開 ( 取り壊し) 」   が強行されました。これは木造家屋の密集地域での延焼被害を軽減するために、ある間隔で指定した家屋を破壊廃棄して 「 空き地 」 を造ったのです。当時中学3年生であった老生は、この作業にも動員されました。その家屋の持ち主に対する経済的な保障はゼロに近かったようです。また、住人は移住する羽目になりますが、その費用も恐らく同様だったと思われます。
   以上は、ほんの一例ですが、軍部の強権を身に染みて感じさせられました。「 戒厳 令 」 が発令されたわけでは無く、法的に軍部が政権を掌握したのでは有りませんが、政治家・官僚が軍部の意向に沿わざるを得ない情勢でした。実質的には戒厳令下の生活と見られます。

   戦後の占領時期は、当然の事ながら ”GHQ ( General Head Quaters : 占領軍総司令部 ) " が全権を把握しました。日本の閣僚も官僚も  " GHQ "  から出る命令や勧告に従うだけでした。時には強権の行使も有ったようですから、正に " 戒厳令下 "   に在った、と云っても過言ではないでしょう。

   ここで老生が独断と偏見で云うならば、現在の  「 緊急事態宣言下の生活 」  と  「 戒厳令下の生活 」  はかなりの共通項が見られると感じられます。どちらも、個人の生計に関わるほどの制約があり、しかも保障は殆ど期待できないようです
   
例えば、緊急事態では、三密状態の職場  ( バー、クラブ、カラオケ、ライブ、イベント など )  の自粛を要請していますが、それによる経済損失の補償は明言していません。また、フリーのタレント氏なども出演の機会が減り苦境に在ると云いますが、救済策は明示されないようです。過去の戒厳令における窮状の有様は上記しましたが、現在の状況はそれにかなり近いケースも有りそうです。

          人生80年時代と云われます。日本では健康保険が充実して寿命が延び、、年金制度が普及して経済的に相当のセーフテイ・ネットが存在しますから、人類の長い間の願望は相当に達せられたように感じます。しかしながら、視点を転じると、ヒトは一生の間に、数回の不可抗力的な危機に襲われるような気がします。
   老生は、「 二・二・六事件 」  「 日中戦争・太平洋戦争 」   「 米軍占領下 」  「 コロナ禍 」   などを経験していますし、親の世代は、「 関東大震災 」  「 二・二・六事件 」  「 日中戦争・太平洋戦争 」  「 米軍占領下 」  で辛酸を舐めました。地域によっては、" 地震 " 、 " 洪水 " 、 " 津波 " 、 " 放射能 "  などに見舞われた方々もいます。
   一生を通じて、これらの危機・災害に無縁の人は殆ど居ないのでは無いでしょうか。 「 人間万事塞翁が馬 」   と云う古語を身に染みて感じる日々です。
  
                < 以上>

 

   

 

 

 

                     

 

 

 

2020年3月16日 (月)

No. 239 : 諸賢の高説・名言・警句 (4)

「 新聞記者ほど傲慢な職業はない !!  」

  新聞記者ほど傲慢な職業はない。彼等は、その道の専門家に数時間ぐらいのインタビューをしただけで、専門家が半生を費やして獲得した学識・経験・見識を把握した心算になって、モロモロの政策・社会現象・学芸など批判するような言動を臆面もなく表明する。しかも、批判するだけで対案を示さず、況してや実現のための具体案を提言する事は無い。
 ( 某大新聞の論説委員のエッセイ より)

{ 発行人の妄言 }

       上記の文は数年以前に某誌に掲載されたと記憶します。それを読んで共鳴しノートに記録したのですが、不覚にも出典・筆者を明記しなかったので、ここには明示できません。

       老生は、" 新聞記者 "   と云う語を  " コメンテーター諸氏 " に拡大したいと感じています。例えば連日、報道される 「 新型コロナ・ウイルス感染症 」  についてもコメンテター諸氏がテレビに登場して名論卓説らしい発言をしていますが、その何パーセントが実態を把握しての発言でしょうか?
感染症の専門家や医療行政のベテランでも意見が一致しない事例が有るような難問に対して、お気軽なコメンテーター諸氏は " 聞きかじりの耳学問 "  や " その場限りの思いつき "  を表明しているのではないでしょうか?
   まあ、
あの種の番組は、ワイド・ショーの形式を執った娯楽番組であって、学識経験豊かな人士が侃々諤々の論を交わす場では有りませんから、目に角を立てるほどの事はないとは思います。とは云うものの、コメンテーター諸氏の多くは、芸能人・アスリート・弁護士・評論家などの社会的には有名人が多いので、その片言隻句が独り歩きをする危険性が有ります。
   冒頭に挙げた新聞記者氏は、自分の立ち位置を充分に認識した上で自戒の念を篭めての発言をしたと思われます。コメンテター諸氏がこのような真摯な態度の人士のみであれば良いのですが、現実には、そうでない人々も混じっているらしく、思わず首を捻りたくなるような発言を聞くことが有ります。

   やや旧いケースですが、永世中立を標榜するスイスを理想化する論が盛んであった時期が有りました。多くの識者が採り上げてテレビ・新聞などで力説しました。しかし、論者の多くはスイスが " 国民皆兵 "  の制度を持ち、有事に備えて食糧などを家庭に備蓄する事を義務付けている実態には触れませんでした。同国の市民は自宅に銃を保管し、定期的に " 射撃訓練 "  を受け、核シェルターの建設を促進しているそうですが、全く触れませんでした。
   それですから、牧歌的な観光国家の印象とは対照的に " ハリネズミ "  のような武装で自衛している一面を備えているのが実状です。一部の識者は、" 永世中立 "  に " 非武装 "  を絡めて、日本もかく有るべし、と力説しましたが、とんでもない認識不足あるいは思い込みに基く暴論でした。

   一応は識者と見なせるコメンテーター氏でも、テーマに依っては怪しい言説を云う方々もいるわけです。特に話題が理系がらみである場合には、少なく無いようです。

        例えば、嘗て民主党が政権を得た折に目玉政策として 「 事業仕分け 」 が有りました。この時の論争で " スーパー・コンピューター "  を採り上げて、「 2番では駄目なのか 」 という大愚問を発した政権幹部がいました。この時には、旧7帝大及び早慶の学長が抗議に声明を発して、取り下げられた一幕が有りましたが、当初は支持するコメンテーター氏も少なからずいたようです。彼らはスパコンの機能も効果も知らず、知ろうともせず、予算額の大きさと、反自民党の空気で仕分けを肯定する姿勢を執ったのでしょうか?
   また、同時期に  「 東京には科学博物館が3館もある、無駄だ、統合すべきだ 」  という暴論もありました。この時には、某大物芸能人がコメンテーターとして某テレビ番組で言及していました。

   他にも大きな害毒を流した例には、学者・作家などの「 共産国家礼賛 」 が有ります。彼等は当該国から招待され、公式見学コースを案内されて、表向きの面しか見ないで帰国して理想社会だと持ち上げたのです。彼等は  「 中国の文化大革命 」 を " 世紀の偉業 "  と讃え、「 北朝鮮 」を  " 地上の楽園 "  と持ち上げました。さらに軽量級のコメンテーターとやらも追随しました。
   その後に、その実態は次々と暴露されたのは、皆様、ご承知のとおりです。

              <以上>

 

2020年2月19日 (水)

No.238 : 諸賢の高説・名言・警句 (3)

「 古代人が辿りついた長生きのヒント 」

  私たちが  "長生きしたい" と云う時、無意識にある条件をつけています。その条件とは、” 健康である "  は当然ですが、" 充実した時間 " , " わくわくした時間 " , " 喜びに満ちた時間 "  を持つ事です。換言すれば、" 充実した時間が多ければ、実質的な寿命が永い "  と云う考え方が生じます。
平均寿命15歳と云われた古代人は、少しでも長く生きたいという願望が現代人よりも強かった筈です。彼らはそのために試行錯誤を重ねたでしょうが、生物的な寿命を延ばすことは難しかったのです。しかし、充実した時間を増せれば、実質的には寿命を延ばせたことになると気付きました。換言すると、生きるための作業や苦行に要する時間を短縮できれば、浮いた時間を楽しい事に振り向けられます。これは、実質的には長く生きたことに相当します。
   そのために、取り組んだのは「 道具の発明 」です。例えば狩りの場合、素手で行うよりも  "棍棒"  を使えば、効率は上がります。" 槍 " や "弓矢" の発明はさらに有効でした。また、水を入れる容器の発明により、川や井戸に行く時間を短縮できます。
現代人は、このような発明は 「 便利のため 」  「 エネルギーの効率化のため 」 と思い込んでいますが、実は潜在的には全く違った目的、" 時間の節減 "   のためになされたものなのです。時間を短縮することを可能にした数々の道具によって、人類の使える時間は著しく伸びました。
それにより生物学的な寿命は変わらずとも実質的な寿命は延びたのです。道具の発明は 「 死 」 から逃れられない人類の潜在的な恐怖心によって生み出されたものでした。
            ( 百田 尚樹 :週刊文春 誌 より
抄録・引用 )

{ ブログ発行人からの蛇足 }

        人類が道具を発明したのは、" 生活の効率化 " , " 労力の軽減化 "   の為であると一般には説かれています。さらに、道具を創り活用する生物は人類だけである、とも云われています。しかるに、百田氏は、「 生活を楽しむ時間を増して実質的な寿命を延ばすため 」 との観点から論じました。これは、真に意表を突いた卓見だと思います。
        従来、" 道具 "  や " 機械 "   の発明は、" 利便性 ”  および " 効率性 "  の観点から論じられて来ました。時間の節約が云々されても副次的で、それが人生における有意義な時間を増加させたという指摘は殆ど無かったようです。
   1970年代にベストセラーになった電子計算機 ( コンピューター )  の啓蒙書が有りました。著者は有名大学の教授で、システム工学者として令名高い方でした。その著書の冒頭で機械の発達を、" 筋力機械 " 、" 感覚機械 " 、" 頭脳機械 "  の3段階に分けて説明していました。 
   " 筋力機械 "   とはヒトの " 腕力 " や " 脚力 "  を増強する機能を持つモノで、" 交通機関 "  や  " 土木・建設機械 "  が該当します。また、" 工具 "  などのような簡単な構造のモノでも、この範疇に入ります。
   " 感覚機械 "  とは、ヒトの持つ " 五感 "   の働きを強化するモノで、" 眼鏡 " 、" 望遠鏡 " 、" 顕微鏡 " 、" 集音機 " 、" 拡声器 " 、" 電話 "   、" ラジオ " 、" テレビジョン "  、" 糖度計 " 、" 粘度計 " などが該当します。
   " 頭脳機械 "  とは、ヒトの有する " 記憶力 "  , " 計算力 " , " 思考力 " , " 判断力 " , " 分析力 " などの働きを強化するマシンで、コンピューターが代表的な存在です。

   この記述を読んだ当時、老生は斬新な考えとして深い感銘を覚えたものでした。しかしながら、利便性、効率性の追求が主で、労働時間の短縮には言及しても、" 有意義な時間の創出→有効寿命の延長 "  には触れなていなかったと記憶しています。
         1960年代に家庭電化機器のブームが生じました。この時期に某電機メ―カーは、主婦が洗濯に要する労力・時間が如何に大きいかと数値で示し、電気洗濯機はその労働を一挙に解消できるとのキャンペーンを大々的に行いました。
この時に毒舌をもって知られた某評論家は、「 主婦が余暇を得ると " 小人閑居して不善を為す " という事態が危惧される 」 というような皮肉混じりの論説を著して物議を醸しました。これに対する反論としては「 家事労働に費やす時間が軽減されるから、その時間を教養・社会活動などに振り向けるべきだ 」 などが現れました。
   その後の世相を見ると、大都会の郊外に住む中産階層を舞台にした不倫ドラマがテレビで流行ったりしましたが、一方では女性の大学進学や社会進出が増加しました。してみると、評論家氏の危惧とそれに対する反論は、どちらも正鵠を射ていたようです。 
   老生は某私大で 「 情報社会論 」  を講じた経験が有ります。その時に  " 情報技術の発達は、時間・空間の壁を超えた " , " 文化の浸透・普及の遠近格差を無くす "  などと説きました。まあ、百田氏の説とも一脈通じるのではないかと思っています。
                   <以下次号>
           

 

                  

 

 

 

 

«No.237 : 諸賢の高説・名言・警句 (2)