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2011年9月 3日 (土)

No.10:江川太郎左衛門英龍 終焉の地 探訪

東京都墨田区の緑町公園の向かいに、「江川太郎左衛門英龍 終焉
の地」という碑が在ります。江川英龍は江戸幕末期に技術官僚として
傑出した手腕を示し、多くの業績を残した人物です。

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英龍は1801年に伊豆韮山の代官の次男として生まれました。江川家
は鎌倉時代から続く名門で、幕府天領の民政に代々携わってい
ました。

英龍は幼少時より文武の修行に努め、国防に関心を持ち、西欧の軍
事技術の先導者となりました。一方には民政を充実させて、領民から
は慕われました。

英龍の業績で著名なのは西洋砲術の導入です。東京湾・品川に砲台
を築き、伊豆韮山には反射炉を造って銃砲の製造を企図し、さらに塾
を開いて人材の養成に努めました。

江戸時代の末期、文化年間以降には、日本近海に外国船がしばしば
現われ、時には水や燃料を求める事態も頻発しました。韮山代官の
管轄区域は広く、伊豆・相模の海から江戸湾の入口にも及びましたか
ら、海防に関する責任を痛感して、多くの先覚者・海外通の人々と交
わり研鑽に努めました。

川路聖護・渡邊崋山・高野長英らの俊英と意見を交わし、後には長崎
に赴き高島秋帆から西洋砲術を学びました。1841年に高島秋帆は武
州徳丸ケ原で、幕府要人を前に西洋砲術のデモンストレーションを行
い威力を誇示しましたが、これは英龍のアレンジによるものでした。

03  英龍は韮山に砲術の塾を開き、多くの
 人材を育てました。その中には佐久間
 象山・橋本左内・桂小五郎などの歴史
 に残る人材もいました。

 英龍の実力は次第に認められ、時の
 老中 阿部正弘の信任を得て、江戸を
 防御する品川台場(砲台)の建設を指
 揮しました。
 この時に高島秋帆や米国帰りの中浜
 万次郎が補佐しました。

 英龍は勘定吟味役に抜擢されて幕閣
 に列するという異例の昇進をしました。
 さらに勘定奉行に内定していたのです
 が不幸にして病に倒れました。

 1855年の事でした。未だ55歳の働き
 盛りであり、武芸で鍛えた身体でした
 から、激務の余りの過労死ではなか
 ったか、とも云われています。

 英龍の活躍ぶりを見ると正にスーパ
 -・テクノクラートの感を深くします。

 名門の出であり、充分な教育を受け
 る機会には恵まれましたが、殿様芸
 を超える技能・識見を備えていまし
 た。

 さらに云うならば武家社会において
は技術系の職務は軽んじられる風潮があった中で、自ら手を下して技法に習熟すべく努めた態度は賞賛に値します。

また、身分や格式に拘らず、格下の高島秋帆に教えを乞い、漁師上がりの中浜万次郎とも交わる姿勢を堅持しました。

英龍は領民に種痘を勧めたり、植林を推進するなど民政にも意を注ぎ
ました。また、軍用食として製パンを試み、パン業界からは開祖と崇め
られています。

江川英龍の名は、歴史書の片隅に記載されるていどの扱いですが、
福沢諭吉は高く評価しています。勝海舟・大村益次郎・榎本武揚らの
テクノクラートの先駆と位置づけて然るべし、と思われます。
                                    以上。

   

  

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