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2012年4月10日 (火)

NO.29:続・水道碑記など探訪

前回に載せた説明板の「玉川上水水番所跡」には建設当時の高札文
が示されていて、昔の掲示の文章を伺い知ることができます。
以下に転記します。

「 玉川上水水番所跡
                  所在地 新宿区内藤町87番地

玉川上水は、多摩川の羽村堰で取水し、四谷大木戸までは開渠で、
四谷大木戸から江戸市中へは石樋・木樋といった水道管を地下に
埋設して通水した。

水番所には、水番人一名が置かれ、水門を調節して水量を監視し
たほか、ごみの除去を行い水質を保持した。当時、水番所構内には
次のような高札が立っていた。

一、此上水道において魚を取水を浴び、ちり芥捨べからず 何にても
   物あらそい申間敷
   並両則三間通に在来候並木下草其外草刈取申間敷候事
   右之通相背輩あらば可為曲事者也

     元文四巳未年十二月   奉行                      」

高札の文章を老生なりに現代訳してみると、次のようになります。

「この上水道では、魚を採ってはいけない、水浴びをしてはならぬ。
ゴミの類を捨ててはいけない。喧嘩などの争い事は絶対にしてはい
けない。
水道の両側に植えた並木や下草などを刈り取ってはいけない。
これらの規則に違反する行為を行えば厳重に処罰する。」

如何でしょう、300年も前でも、それなりの衛生管理・公衆道徳が求
められていたわけです。

付近に「四谷大木戸跡碑」が在ります。1612年に江戸幕府は甲州街
道の江戸への出入り口として設けられました。通行人や荷物を取締
るための関所です。

624_2  地面は石畳を敷き、木戸の両側に石垣を設け
 夜間には閉めて交通を遮断したそうです。

 1972年以降には、この木戸は撤去されました。
 江戸の治安が保たれた一方、経費節減の意
 図もあったとされています。

 それでも大木戸の地名は、現在に至るまで残っ
 ています。近くの新宿御苑の出入り口には大木
 戸門というのが在ります。

 大木戸は水番所の近くに在りましたが、直接の
 関係は無 いようです。前者は甲州街道の要
 衝、後者は玉川上水の基幹設備というわけで
 すから職務内容は異なります。

 時期的には大木戸が先行します。

この碑に使われた石材は1959年、地下鉄丸の内線の工事で出土
した玉川上水の石樋を利用して造られました。それですから全くの
無関係とは云えないかも知れません。

また、実際の大木戸の位置は、この碑より約80メートル東の四谷4
丁目交差点のところでした。東京都指定旧跡に指定されている筈で
すが、それらしい表示は見付かりませんでした。

あるテレビ局が江戸時代の地理・地勢を探る番組を放送していまし
たが、それによると、玉川上水の建設のために四谷大木戸の付近
で甲州街道が曲げられたとの事です。

前述しましたが、僅かな高低差を利用しての自然流水路ですから、
そのために道路の方が迂回する箇所も生じたのでしょう。

玉川上水は市中に入ってからは地下の石樋・木樋を介して配水した
のは驚異です。そうして地下の要所に池(水溜り)を設けました。これ
が当時の井戸で、釣瓶などを用いて汲み上げました。
今日の水道のように水圧をかけて高所まで水を送ることは出来なか
ったのです。

それにしても、300年も前に水道システムを構築した先人の企画力と
実行力には感心させられます。

玉川上水の建設に多大の貢献をした玉川庄衛門・清衛門の像が多
摩川の羽村堰に建てられ、彼等の功績を称えています。

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                                    <以上>

  

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