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2013年5月29日 (水)

No.85:日本橋界隈の史跡 (1)

東京都中央区の日本橋界隈は江戸時代から栄えた地域ですから、かなり多くの史跡が在ります。ところが日本のビジネスの中心とも云うべき土地ですから区画整理や再開発が頻繁に行われ、幾多の史跡も埋没したり所在不明になったりしているようです。

老生は機会有る毎に、それらを訪ね歩いています。今までに見つけた史跡の一端を披露します。

「八重洲の由来」 ヤン・ヨーステンについて

東京駅を含む一帯の地域は中央区八重洲として知られていますが、徳川家康に仕えたオランダ人 "ヤン・ヨーステン" の名に由来します。

18_2 19_3 

上図は八重洲地下街外堀地下一番街の壁面に設置されたヤン・ヨーステンの像と説明文です。記念像の碑文は以下に示すの通りです。

"ヤン・ヨーステンは和蘭人で西暦1600年豊後の海で難破した和蘭船に乗っていた。そのまま日本に住みつき徳川家康の信任を得、外交や貿易について進言する役目についた。その江戸屋敷は和田倉門外の堀端にあったので、後に彼の名に因んで八代洲河岸とと称せられ、更に八重洲となっ。ここに彼を偲んで記念像を置く。"

また、説明文は、より詳細です。

"八重洲の由来となったオランダ人ヤン・ヨーステン ?-1623

ヤン・ヨーステン(オランダ人・日本名、耶陽子・やようす)は、ウイリアム・アダムス(日本名、三浦安針)等とともに慶長5年(1600)に豊後(現・大分県)に漂着したオランダ船リーフデ号の船員だった。
ヤン・ヨーステンは徳川家康の通訳として重宝され、江戸城下の今の日比谷あたりに屋敷を与えられたので、このあたりを八代洲(やよす)河岸といった。「八代洲」は後に「八重洲」と書かれ、初めて町名になったのは明治5年(1872)のこと(現・千代田区丸の内一丁目付近)。
その後大正3年(1914)に東京駅が開業すると、八重洲町の大半は東京駅になるが、昭和29年(1954)には東京駅東側一帯が「中央区八重洲」となって今日に至っている。
日本人と結婚したヤン・ヨーステンは、幕府より朱印状を得て、東南アジアを中心に幅広く貿易を営んだ。また、慶長14年(1609),長崎・平戸にオランダ商館が開設されると、日本とオランダの貿易の発展に尽力した。
後に帰国を思い立ったヤン・ヨーステンはバタビア(現・ジャカルタ)に渡り、帰国交渉をしたが不調に終わり、日本へ帰航途中、船が難破して亡くなった。"

ヤン・ヨーステンの碑は、他にも在ります。八重洲中央通りと日本橋通りの交差点近くの中央分離帯の植込に見られます。

71_2

上図は、レリーフの部分、リーフデ号も示されています。この後方には "平和の鐘" が建っていて散歩の際の一休みの場にもなります。

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上左図はその全景を示します。
上右図はリーフデ号の模型像で、これは丸ビルの左側の歩道に在ります。かなり
精巧な作品ですが、ビルに近接している上に目立つような掲示が無くて見落しそうです。また、適当なカメラ・アングルを探すのが難しいと感じました。

ふだん、何気なく往来している八重洲の街ですが、このような歴史が秘められているのを痛感した探訪でした。
                      <以下次号>                        

                                                                                                             

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