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2014年2月15日 (土)

No.105:東芝未来科学館の見学 (1)

2月1日に「東芝未来科学館」がリニューアル・オープンしました。同館は、いわゆる企業博物館の草分け的存在で、1961年に "東芝科学館" として川崎市の小向工場内に設けられていたのが、川崎駅前のビル内に移転し、内容も一新したと報じられました。

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先日、機会を得て、同館を見学して来ました。

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上図は同館の展示物の配置を示すパンフレットです。大別して (1)創業者の部屋、(2) 1号機ものがたり、(3)エネルギーの未来へ、(4)まちの未来へ、(5)ビルの未来へ、(6)家の未来へ、(7)ヘルスケアの未来へ、(8)じょうほうの未来へ、(9)サイエンスゾーン、という配置です。

これは、なかなか巧みな配列で(1)(2)は中高年齢層向き、(3)~(7)は現役世代向き、(8)(9)は若年層向き、という意図が感じ取れます。実際にも見学者の群りには世代の差が見受けられました。       

01b_3Haiken_photo02_3 東芝の創業には2人の天才的な技術者が関与しました。 左図はその1人である田中久重と、彼の作製した"万年自鳴鐘"の復元品です。
久重は1799年生、幼少時より発明の才を示し、特に"からくり人形"の製作に秀でて"からくり儀右衛門"と称されました。1820年作の"弓引童子"は傑作として知られています。1847年には京都に赴き天文歴法を学び、その成果は1851年の"万年自鳴鐘"に結実しました。これは、西洋時計と和時計のほか、曜日や二十四節気、旧暦の日付、月の満ち欠け等のあらゆる"時の概念"、"匠の技"を一つに凝縮した傑作です。(数年前に国立科学博物館や時計メーカーと共に復元しました。)
久重は1873年に上京して電信機の生産に着手、輸入品に劣らぬ好評を得ました。1881年に没、二代目田中大吉が事業を継承、後に芝浦製作所と成りました。
 

他の1人は藤岡市助 (1857-1918) です。氏は工部大学校 (東大工学部の前身) の第1回生です。近代工学技術である電気工学を日本で初めて正規に学んだ逸材でした。

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上左図は藤岡市助の像、上右図は氏の卒業論文です。そのテーマはガルバノメーター (微小電流計) についての研究です。当時ですから手書きの英文で118ページの大作でした、指導に当たったエアトン教授が絶賛したと伝えられています。

市助は日本の近代工業の創成期を担う重責を負い、八面六臂の活動をしています。主な業績を列記します。
1878年、アーク灯を銀座に点灯、3月25日の事でした。因みに、この日は「電気記念日」に制定されました。1884年、渡米し、エジソンと会見、近代国家には電気工業が必須であるとの信念を持つに至りました。1886年、この信念を具現化するべく大学を去り実業界に転進しました。
1890年、三吉正一と白熱舎を創設、白熱電球の生産を開始。同年に初の電車運転、エレベーター建設なども。1891年、初の水力発電所を完成(指導)。1906年、第一回国際電気標準会議に日本代表として出席しました。真に席の暖まる間もない活躍ぶりでした。

白熱舎は、1899年に東京電気㈱と社名を変えました。一方、田中久重の創始した田中製造所は芝浦製作所と社名を変えていました。この両社が1939年に合併して東京芝浦電気㈱となり、さらに1984年に㈱東芝と社名を変更しました。日本を代表し、世界的にも知られる大電気メーカーの淵源が、田中・藤岡の2大技術者である事は、この科学館の展示で明らかです。このような先人の事績は永く伝えらるべきだと愚考します。

                      <以下次号>

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