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2016年3月 6日 (日)

No,146:デッド・コピー物語:キャッチ・アップの時代 (4)

「続・カメラ産業の黎明期から頂点への道」

1925年、ドイツのライツ社から「ライカ」という画期的なカメラが現れました。映画用の35mmフィルムを使い、小型軽量で携帯性・即写生に優れていました。初期のモデルⅠ(A)はレンズ交換機能は無く、距離計も有りませんでしたが、瞬時に変る人の容貌や自然現象などの撮影に適しているので、熱狂的な支持者を得ました。数年後のモデルⅠ(C)はレンズ交換が可能となりました。
1925 1931c_2 
上左図はⅠ(A)型、上右図はⅠ(C)型です。1932年には、連動距離計を組込んだⅡ(D)型を発表し、次いで低速シャッターを装備したⅢ型を世に問いました。下左図はⅡ(D)型、下右図はⅢ型です。
1932d_21933_2   
日本のメーカーは"ベスト・コダック" "スプリング" "二眼レフ"などについては数年遅れで追随しましたが、ライカについては、その精緻な工作技術に驚き、追随しがたい「夢のカメラ」として、国産化を躊躇したようです。


ところが、遂に国産化を目指す人々が現れました。「ライカも分解してみれば、金属とガラスとゴムなどで構成されている、同等のモノが造れぬことはない」との意気込みだったと伝えられます。
数人の有志が精機光学研究所(現キャノン)を立ち上げ、研究開発に打ち込んだ結果、早くも1934年に"カンノン"を試作し、1935年には"ハンザ・キャノン"(下左図)を発売しました。


25_1935   1939_s_2
このモデルはライツ社の特許を避けてファインダーが連動距離計の上部に跳び出す構造にしたので、ビックリ箱との愛称で呼ばれました。なお、レンズは日本光学のニッコールを使い、距離計についても日本光学の援助を受けたそうです。1939年には"キャノンS型
"(上右図)が発売され、形態も洗練されました。 

ライカの国産化は戦時体制の進展とともに加速されました。即写性を要する戦場で使う高性能小型カメラとして他に比肩するモデルが無かったからです。各国の軍部および報道記者は敵味方ともにドイツ製ライカを使用しました。しかし所有する数に限りが有り、且つ戦場で消耗しますから、各国とも同等製品の自国生産を図りました。
日本ではキャノンに続き、昭和光機が"レオタックスA型"(下左図)を1942年に、光学精機(後にニッカ社)が"ニッポン"(下右図)を1941年に発表しました。

28_1942  Nippon_camera1941  
"レオタックス"は距離計の右側にファインダーを配置しました、これにより距離計の精度が低下シ、ファインダーの視差が大きくなるという問題が有りましたが、特許を避ける苦心の策だったのでしょう。一方、"ニッポン"は特許に縛られずにライカと同じ配置・構造を採りました。この件については軍部の意向があったと伝えられています。戦時という超非常体制下であり、ドイツは同盟国であるから容認されるであろう、との雰囲気があったのでしょう。
戦時体制下に造られたライカのコピー品が、どれほど原型に迫り得たかは明解な資料は無さそうですが、1950年代のカメラ雑誌の記事に「ノーモア・ライカ」なる文言を見た事があります。これに依るならば、10数年を経て同レベルに達したと推察されます。

1954年に、ライツ社は画期的な新製品"M3"を発表しましたが、成熟期に達した日本のカメラ工業は追随せずに、電子技術を駆使した独自の一眼レフを完成させて、世界を席巻しました。ここに至るまで半世紀以上にわたる多くの先人の努力の集積が有ったわけです。           <以下次号>


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