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2016年10月12日 (水)

No.158:「教養談義」に潜む「文高理低」の陋習

最近はやや低調になりましたが、数年前には「教養談義」が花盛りの時期が有りました。これは、現在でも残っています。
この風潮は著名な放送ジャーナリストの "IA"氏が某理系国立大学のリベラル・アーツの教授に就任したのがキッカケの一つでした。
この方がその大学に招聘された折に、学長から「本学の学生は理系の専門分野については優秀だが、文系の教養に弱い傾向がある、その弱点を補強して貰いたい」との要請を受けたそうです。
氏は就任後、数ヶ月のうちに、「その大学の学生の半数は、文系の教養にも関心を持ち能力もある、しかし残りの半数は文系の教養には無知・無関心である」との実態に触れたそうです。
氏は大学での講義だけでなく、広く社会に対して講演・放送・著書を通じて啓蒙に活動しました。広範な学識、精力的な情報収集、巧みな表現は「生きた教養の塊」と感じさせるほどです。

近時、氏の啓蒙書を読む機会があり、「さすが!これあるかな!」と共感する箇所も多かったのですが、天邪鬼の老生には異議を申し立てたい文も幾つかありました。
それは、下記の3項目です。

その一つは「文高理低」の考えが見え隠れすることです。
その二つは「教養無くして新しいビジネスを創出は出来ない」と主張することです。
その三つは「先端技術は直ぐに陳腐化するから米国の一流大学では教えない」と伝えていることです。

以下、各項について老生の奇想・怪説を述べます。

1. 「文高理低」の底流について

"IA"氏に限らず教養を説く多くの識者は「理系人も教養(文系)を持つべきである」と力説しますが、「文系人も教養(理系)を持たねばならない」とは云わないようです。
老生の知る限りでは、立花隆氏が「東大生はバカになったか」という論説の中で「米国の大学では文系であっても"情報科学"と"生命科学"を必修にしている」と指摘しているのが例外的に在るのみです。
どうやら識者(文系)の頭には、明治開国以来の「文高理低」の陋習が刷り込まれているようです。

"IA"氏の著書の内容も「理系人にハッパを掛ける」というトーンに終始しているように感じました。
氏の著作では、「教養を身に付けるとは、歴史・哲学・文学・心理学・芸術・生物・数学・物理学など様々な分野の基礎的な知の体系を学ぶことで、世界を知り、自然を知り、人を知ることです。それで世の中の理が見えてくる・・・・・・」と説いています。
この文では一応、理系の分野も挙げていますが、その後の論述では、文系人にその必要性を説く箇所は見つかりません。
ところが、理系人に文系の教養が必要だという主張は、手を替え品を替えて何度も力説しています。
 

2, 「教養を欠いては、新しいビジネスを創造できない」とは?

"IA"氏の著書では、近年の日本産業の不振に言及し、社会にインパクトを与える画期的な製品が生まれないのは、関係者に教養が足りないからだ、と明言しています。
氏は既存の枠組みの中で、在来の手法に固執して、効率を狙う手法だけでは行き詰る。枠組み自体を全く新しく構築しなければ新しいビジネスは創造できない、それには教養の力が必要である、と主張します。
一応は尤もらしく感じますが、老生の私見では、教養は充分条件であっても、必要条件では有りません。

氏はアップル社のスティーヴ・ジョブを例に挙げています。ジョブは大学でコンピューターも経営学も学ばずにドロップアウトしましたが、"カリグラフィー"だけは熱心に学んだそうです。彼は「ペンによる西洋書道にハマり傾倒した、それだから、文字フォントの美しいマッキントッシュを生み出せた」と云っているそうです。
しかし、これは彼一流の意表を突く発言と受け取るべきです。
マッキントッシュがヒットしたのは、特徴ある基本ソフトに基づく優れたグラフィク機能に依るものであって、美しい文字フォントや洗練れた外形デザインだけで人気を得たのでは有りません。
彼の強烈な個性による設計方針の下に多くの先端技術に習熟した多数の技術者が参画した筈です。ジョブのカリスマ性は高く評価されるべきですが、それは文系識者の唱える教養(文系)によって身に付けたものではないでしょう。

日本でも技術革新を成し遂げ、新規ビジネスを立ち上げた人々は、その分野に没頭しました。ソニーの創始者である井深大氏、ホンダの設立者の本田宗一郎氏も高尚深遠な文系の教養を身に付けていたという話は聞きません。
お二人とも折に触れて独自の経営哲学を語ることが有りましたが、それは実務体験を経て熟成されたものです。哲学や文芸の教養に触発されたものとは思えません。

蛇足を加えると、理系人が文学・芸術などの雑知識を持っていると、文系出身者の多い政治家や経営首脳と話の接点を持つ機会を得やすく、予算獲得や事業化に際して有利な場合が有る、との事例は散見します。
日本ロケットの父と云われる糸川英夫博士などは、その好例でしょう。老生も現役当時に何度か経験しています。

3, 「先端科学・技術は直ぐに陳腐化するから米国の一流大学では教えない」?

理系の学問・技術は日進月歩で直ぐに陳腐化するのは厳しい現実です。しかし、それだから教えない、と云うのは如何なものでしょうか? いったい、何を教えればよいのでしょうか。
"IA"氏は例として米国の有名工科大学について述べています。
その大学では、立派な音楽教室を備え、ロビーには文系の学問をビジュアルにパネル表示しているそうです。

その大学では理系バカでない、専門バカでない、音楽やアートやさまざまなリベラル・アートを本格的に身に付けた教養ある人材を育てている、と紹介しています。
この話は理想論と云うよりも「無いものねだり」だと老生には感じます。
業績を挙げた学者・技術者の中には、音楽・芸術・文学などにも造詣の深い方が居られますが、それは天性の能力が有り余っている稀有な人材です。
平均か、やや上回るていどの人々に文理両系にわたり、深遠な教養を備えよと云うのは不可能です。無理押しすれば創造力も実行力も乏しい評論家タイプの擬似研究者・技術者を量産するだけです。
古来、「二兎を追う者は一兎をも得ず」と云う戒めが有ります。

ここで老生の実体験を披露します。
老生が大学を卒業したのは60年以上も前のことです。その時に教授から「大学で学んだ学術・技術は5年も経てば時代遅れになってしまう、それから先は自分力で切り拓いて行かねばならない」との訓示を受けました。
社会に出て数年後、この訓示を痛感させられる事が起きました。それはトランジスターの出現です。それまでの通信工学・電子技術は真空管を巧みに使いこなすことが基盤でした。ところがトランジスターの出現により、学生時代からの10年をかけた研鑽が無用・無効になってしまったのです。この新しい個体活性素子を知る人は国内には一人も居ません。いや、当の米国でも一握りの研究者が居ただけでした。

それで、どうしたか? 大学も企業も公式・非公式の研究会を立ち上げ、あらゆる機会を捉えて情報収集を行い、追加実験を重ね、必死になって謎の解明と産業化に挑戦しました。
その結果、数年で米国の先端に追い付き、10年後には世界トップの座を得ました。
この一連の開発に関わった人々は、学生時代には真空管および真空管回路を充分に学んだ筈です。それは当時の先端技術でした。彼等はトランジスターの出現に対して直ちにその特徴・将来性を看破して、その開発・事業化を推進しました。
つまり、学生時代から先端技術を身に付けていたからこそ、次の世代の先端技術にスムーズに転換できたのです。

このような話をすると「それは後追いであって真の独創ではない」などと批判する人が現われます。このような方は「無から有は生まれない」という大原則をご存知ないようです。老生には擬似教養人としか思えません。

4. その他モロモロ・老生のタワゴト

"IA"氏の著作は、これまでの多くの識者(文系)の説くような高踏的・超俗的で晦渋な表現は有りません。むしろ、実務的で利益誘導とも取れるような表現が目立ちます。
例えば、「教養とは与えられた前提を疑う能力である」「新しい規約を創造できる能力である」「あらゆる環境変化に対応できる能力である」「仕事で人生で生き残る最強の武器である」「新しいルールを創る側に回り、ビジネスを有利に展開できる」等々。
また、「四の五と云わず、本を沢山読め」
さらに、「ライティングとプレゼンテーションに習熟せよ」
とも云っています。

これらのご意見に異議はありません。ただし、実利を求める学術と対極の位置にあると思われている教養(文系)の概念からは、かなり乖離しているように老生には感じられました。

老生がタワゴトを云うならば、世に「文系バカ」は少なくありません。
例えばテレビのニュース解説的なワイドーショーに出演する評論家・作家・経済アナリストなどの識者は、理系的な話題に及ぶと「自分は文系だから・・・・・」と云って、頭から逃げる態度を示します。
彼らを「文系バカ」と云うのは云い過ぎでしょうか。
老生が独断と偏見で云うならば、文系人で理系分野に疎い「文系バカ」と理系人で文系分野に弱い「理系バカ」の割合は、前者の方が遥かに多いものと思います。
それにもかかわらず、文化人の多くが「理系人」を批判したがるのは何故でしょうか?
               <以上>


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