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2017年1月23日 (月)

No.163: 理系人の世界を活写した吉村昭の作品 (5)

「深海の使者」

Photo 第二次世界大戦の中期以降、米英側に制海権・制空権を抑えられ、日独間の交流は殆んど途絶する窮地に追い込まれました。無線通信による情報連絡が僅かに保たれていただけで、艦船による軍需物資の輸送は絶望的でした。

軍部は、この窮状を打開するために、潜水艦による日独間の連絡と物資輸送を計画・実行しました。しかし、その成果は惨憺たるもので、5隻の派遣で、往復を完遂出来たのは僅かに1隻(イ-8号)、南方基地まで帰還したものの、日本内地への航海途中で失われた艦が2隻(イ-30号、イ-29号)、独への往路で失われた艦が2隻(イ-34号、イ-52号)という有様でした。
また、独伊潜水艦により日本への航行も数回行われましたが、成功例は極めて僅かでした。

このプロジェクトは国家の最高機密であり、関係の公式文書は焼却処分され、一切残っていません。吉村昭は、僅かに残った個人のメモを探し、数少ない生存者とのインタビューを行い、壮大なドラマの再現に務めた、と記しています。

この作品の特徴は、潜水艦乗組員の言語に絶する苦闘を生々しく活写していることです。
潜水艦の特徴は隠密性です。敵側に自身を曝すことなく、至近距離に近接して必殺の魚雷攻撃により、一撃で巨艦をも葬り去る能力を持ちます。ところが、その代償として、もし事前に敵側に発見され、攻撃されると極めて脆弱であるという宿命を持ちます。

日独間の連絡を至上の使命として出発した潜水艦は、敵側に発見されぬように、隠密行動に徹する必要が有ります。とは云っても、全行程を潜水して航行することは出来ません。当時の潜水艦の水中速度は僅かに2ノット(約4km/h)に過ぎず、また連続航行は20時間程度に限られます。
それですから、危険性の少ない海域では浮上し、ディーゼル機関により航行するとともに、発電機を駆動して潜水時の動力である電動機用蓄電池の充電も行います。つまり、敵情を察知しながら水上走行と潜水航行を反復して長途の航路を完遂するのです。それでも、浮上しての航行でも速度は20ノット (約37km/h)ほどでしたから、空母・巡洋艦・駆逐艦などに比べると遥かに低速です。

このように、本質的にハンディを持つ潜水艦が隠密性だけを頼りに単独で、敵機・敵艦の跳梁する海域で地球半周もの航海をするのは困難を極めます。吉村昭はその実態を活写しています。

作品の中には幾つかの見せ場が有ります。例えば、アフリカ沖における日独潜水艦のランデブー(邂逅)です。どちらの艦も故国の基地を出港して数ヶ月、数千キロメートルの航海の末に、出会い得たのには一驚します。当時は、GPS などは無く、無線交信は封鎖され、専ら天体観測と走行記録だけで自艦の位置を推定するのです。この作品では定められた日時に浮上すると数百メートルの位置に相手の独潜水艦を視認したと記しています。 この事実は、双方の卓越した航海技術を物語っています。

また、潜水航行中は艦内の空気(酸素)には限りが有りますから、その消費を極度に制限します。そのため、無用に身体を動かさず、不要の会話は禁止されます。その行動は酸素を余分に消耗するからです。不動の姿勢で無言の行を長時間にわたり強いられる、この描写は読者をして、息苦しく感じさせられるほどの臨場感が有ります。

インド洋からアフリカ南端を迂回して、ドイツ海軍基地に到着した日本潜水艦は大歓迎を受けますが、厳しい批判も受けました。それは、潜水航行中に発生する音響が大きいとの指摘でした。日本の潜水艦は太平洋を西進して来る米大艦隊を途中で邀撃する意図で設計しているので、高速・長航続力・重武装であり、必然的に大形化し機関も強力で、音響の発生が大きくなるです。その上、防振ゴムを使用して低音化を図るなどの対策がされていないので、独技術者からは「太鼓を叩いて潜水航行しているようだ」と酷評されました。この件については、独技術者が献身的に協力してくれて、低音化の改装が施されました。

一方、ドイツの潜水艦は輸送船の攻撃を意図し、活動範囲も比較的限られているので、日本艦に比すれば中速・中航続力・軽武装であり、小型の設計でした。むろん、低音化は施され、高性能の電波探知機も装備していました。さらに、小型でありながら乗員の居住環境は日本艦よりは優れていたそうです。

この作戦は多大の犠牲を要しました。乗員は艦長以下、選りすぐりの精鋭を充てましたし、使命を帯びて搭乗した人々は優秀な技術将校と民間企業の技師でした。それらの人々の多数が不運にも戦死または殉職したのです。
使命の大半は、日独の軍事技術の交換でした。日本側はドイツのロケット戦闘機・レーダー・高速魚雷艇のエンジンなどの資料を欲し、ドイツ側は日本の酸素魚雷や空母などの資料および金塊・錫鉱石・生ゴムなどの物資を求めました。
狭い艦内には武器などの実物を積む事は出来ませんから、図面などの製作資料と部品素材の一部に限られました。

日本側が渇望したのは、レーダー「ウルツブルグ」でした。日米の開戦前に、その高性能に着目した軍部は何度も技術移転を切望しましたが、最高機密の故にヒトラー総統の許可が得られずにいました。その後、戦局の悪化とともにドイツの方針が変わり、条件付で認められるに至りました。技術移転に際し、特に練達の技師・フォーダス氏が指導のために来日することになり、氏は独軍指揮のイタリア潜水艦に乗艦して南方基地に着き、それからは空路で東京に至りました。
「ウルツブルグ」の技術資料は、失われた部分も多かったのですが、フォーダス技師の指導により、国産化が進み、あと一歩にまで迫ったそうです。

ロケット戦闘機"Me-163" も、米空軍の"B-29"爆撃機への対抗手段として期待されましたが、これも一部の資料しか届きませんでした。日本の技術陣は僅かな情報に独自の研鑽を加えて「秋水」の試作に漕ぎ着けましたが、実戦には間に合いませんでした。

この作品は、特定の科学者や研究者は登場しませんが、搭乗者は、殆んどが理系に属する人々です。また潜水艦の乗組員はハイテクの塊である艦の機器操作に熟練した軍人・兵士です。
これらの人材が極限事態に際し、どのように思考し行動するかを詳細に描写した筆力には感銘を受けます。

[ たまの玄太からの蛇足 ]

老生は戦後の1952年に社会人としてY電機に入社して、電子技術者の道に進みました。
この時の上司 F.S 氏は、元技術将校であり、"ウルツブルグ・レーダー" の国産化に関与した人でした。しかも、独人フォーダス技師からドイツ流のハード・トレーニングを直接に受けたそうです。
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左図はハインリッヒ・フォーダス技師、右図は"ウルツブルグ・レーダー"を示します。

F.S 氏はその時の回顧談を折りに触れて若手技術者に語りました。その話で、今も老生の記憶に残っているのは、「良い設計をして、良い材料を使い、正しく工作し、厳しい検査をすれば、優秀な製品が出来上る筈である」とのコトバでした。フォーダス技師はF.S 氏らに向って常に力説していたそうです。
"ウルツブルグ"の国産化に関しては、設計そのものは卓越していたわけですが、それを生産する工程は当時の日本では、高いハードルでした。材料(部品・素子) の性能不足に加えて均質性に乏しかったので、使用に耐える物を選別する必要が有りました。工作(配線)についても、在来の日本流では配線工に任される範囲が広く、個人差が有りました。検査に至っては、然るべき測定器は皆無でした、フォーダス技師は自ら検査具を考案・製作して生産体制を整備したそうです。

敗戦後、フォーダス技師は米占領軍により抑留・軟禁されましたが、やがてドイツに帰国したとの噂を残して暫く消息が絶えたそうです。
”ウルツブルグ"の国産化には軍・官・学・産の優秀な人材が総動員されました。戦後にそれらの人々の多くは産業界・学界に復帰しましたが、彼らは高度成長期に多大の貢献をしました。"ウルツブルグ"の国産化に際しての研鑽・努力・経験が役立ったのです。

日本国内では戦後の混乱期を経て漸く社会が安定に向った頃に、このプロジェクトに関った人々の間に「フォーダス会」なる集まりが開かれるに至りました。この会合には有力企業の首脳・幹部や著名な教授・研究者が顔を揃えたそうです。因みに老生の上司であったF.S 氏はこの会合では最末席であり、会場の設営や日時の設定・案内通知などの庶務を担当したそうです。

戦後数年を経て、フォーダス会のメンバーの数人は海外出張の時に、フォーダス技師の消息を尋ね、テレフンケン社に復職していた事を知り、技師に面会し帰国後の生活を知り得ました。
それより、さらに数年を経て、フォーダス会として技師夫妻を日本に招くように奔走し、遂に実現しました。この時の歓迎会には電子技術に関る官・産・学の有力者が多数参加したそうです。

戦時下、波濤万里を越えて"ウルツブルグ・レーダー"の技術を伝えた技師の播いた種は、戦後十数年を経て大きく花開いた、と云っても過言ではないと老生は感じます。
戦後70年を経て、前記のような秘話を知る人は数人居るか否か、だと思われます。老生はF.S 氏を思い出しながら、この一文を記しました。
                
                 <以下次号>

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