無料ブログはココログ

« No.163: 理系人の世界を活写した吉村昭の作品 (5) | トップページ | No.165 : 理系人の世界を活写した吉村 昭の作品 (7) »

2017年2月 1日 (水)

No.164 : 理系の世界を活写した吉村 昭の作品 (6)

「ふぉん・しいほるとの娘」

Photo 幕末期に長崎出島のオランダ商館付き医官として赴任した"フォン・シーボルト"の娘であり、日本初の産婦人科医師として活躍した"お稲"の波乱に満ちた一生を描いた作品です。
"シーボルト"は日本に西洋医学を伝え、多くの日本人医師を育てました。日本の近代医学は彼によって道が拓かれた、と云えます。それと共に、日本の動植物・地理・風俗・絵画・彫刻などに興味を示し精力的に調査・収集を行いました。

彼は日本人女性"お滝さん"を愛し、二人の間に娘 "お稲"を得て穏やかな日々を暮らしていました。ところが膨大な収集品の中に、国禁の資料(地図など)が含まれていたのが発覚して幕府の忌避に触れて、国外追放されるという事件が起こったのです。

この作品は1823年の"シーボルト"の来日から、1903年の"お稲"の死に至る80年にも及ぶ長編です。中心人物は、むろん、"お稲"ですが、彼女を取り巻く"シーボルト"の弟子、母親・"お滝"に関る親類縁者の人間関係、"お稲"の医学修行を支援する人々等の行動や心情が活写されています。
また、幕末から維新を経て近代国家を形成する激動の時代であって、安政の大獄・ぺりー来航・開国・大政奉還・明治政府の富国強兵策などが次々と押し寄せて来ました。氏の作品は、このような内外の政治・社会の情勢にも触れ、その中で"お稲"が逞しく生き抜いて行く有様を詳述しています。さらに、数多の英傑・奇才との邂逅により啓発され、運命を切り拓いていくシーンも活写されています。

"お稲"が産科医になって実績を重ねていた頃に"村田蔵六(後の大村益次郎)"にオランダ語を習いましたが、"蔵六"の発音が下手であるにもかわらず、読解力に卓越しているのに驚くシーンが有ります。"蔵六"は後に海外の兵学・兵術を学び実戦で成果を挙げ、日本陸軍の創始者とも云われた鬼才でした。その片鱗が作品に描かれています。
"お稲"は修行中に「解体新書(ターヘル・アナトミアの翻訳書)」を筆写しました。印刷出版されてはいたのですが、高価だったのでしょう。とにかく、全文を筆者するという熱意と努力には感心します。

"お稲"が30歳を超えた頃、産科医としての地位を得てたにも関わらず、来日した"ポンペ"医師の講義を聴講しました。彼はオランダ商館の医師として赴任して来たたのですが、初めて西欧の医科大学のカリキュラムに準拠した医学教育を伝えた人です。それまでの日本の医術は症状に応じたハウツー的な治療をする、という流儀でした。
それに対して、西欧医学は生物学・生理学などの基礎から出発し病理学・解剖学・薬学などを学習してから診断・治療に至る、という体系化されたものでした。"お稲"は、このような医学界の新風を察知したのでしょう。なお、長崎大学医学部のロビーには"ポンペ"の功績を称えるレリーフが現存しています。
明治期になって、"お稲"は"福沢諭吉"の知遇を得、その推薦により高貴な女性の出産に関りました。この女性は脚気を患っていたので牛乳の服用を進言したそうです。不運にも、この意見は上司により拒否され、女性は死去という悲劇に終わりました。
ビタミンBの存在も効用も知られていない時代に、牛乳の服用を唱えたのは驚くべき着想です。恐らく、臨床医としての経験によるものでしょう。

"シーボルト"は国外追放から数十年を経て、再来日し父・娘の再会を果しました。異郷に残した愛娘が立派に成人したのみならず、医師としの地位・名声を得ていたのは大いなる感激と喜びであったと思われます。
この時に嘗ての弟子にも再会しましたが、彼らの学識・経験は、"シーボルト"を凌ぐレベルに達していたと、記されています。医学の進歩の激しさと日本人医師の精進を示すワンカットです。

この作品に登場する人物は多数ですが、学識と技芸で新しい時代を担おうとするタイプの理系人が殆んどです。これまで、あまり関心を持たれなかった分野に光を当てた吉村昭の作品は、評価すべきと考えます。

{たまの玄太の蛇足}
老生は12年ほど長崎に赴任していました。その時に「シーボルト記念館」「出島オランダ商館跡」など、多くの史跡を訪れ調査した経験を持ちます。吉村昭が長崎を訪れた時の講演を聞く機会も有りました。そんなわけで、この作品には深い思い入れが有ります。
                 <以下次号>

« No.163: 理系人の世界を活写した吉村昭の作品 (5) | トップページ | No.165 : 理系人の世界を活写した吉村 昭の作品 (7) »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/575020/64837986

この記事へのトラックバック一覧です: No.164 : 理系の世界を活写した吉村 昭の作品 (6):

« No.163: 理系人の世界を活写した吉村昭の作品 (5) | トップページ | No.165 : 理系人の世界を活写した吉村 昭の作品 (7) »