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2017年2月23日 (木)

No.166 : 夏目漱石の理的センス

夏目漱石の出世作「我輩は猫である」は小説の形をしていますが、漱石山房に集まった知識人による文明批評の一面を示していると思われます。                                     
2 その中で理学士・水島寒月君と美学者・迷亭氏との問答には、漱石の理的センスが巧みに埋め込まれています。
水島寒月君は博士論文「蛙の目玉の電動作用に及ぼす紫外光線の影響」を執筆するための実験器具としてのガラス球を自作する苦労話を語ります。
この話を聞いた迷亭氏は「ガラス球など、何処でも手に入るだろう」と云いますが、寒月君は「元来、円とか球とかは幾何学的な定義であって、その定義に当て嵌まる円とか球は現実世界には存在しないのです。」と答えます。

すると迷亭氏は、いとも簡単に「無いものなら仕方がない、そんな研究はやめたらどうか」との意見を云います。
これに応じて寒月君は「実験に差し支えのない程度のガラス球を造り、それを使って研究を進めるのだ」と云い、続いて
「その程度のガラス球を造るのも実は容易ではない、数ヶ月の間に数個のガラス塊を摩り潰した」と述懐します。

この問答は、実験研究の基本に関る前提を指摘しています。

一般に物理や化学などの学問は、一分の隙も無い精密な理論体系が成立していると受け取られているようですが、それは一種の過大評価です。教科書に明記されている「OOの法則」・「XXの定理」などは、多くの事象に対して何等かの仮定・近似を設けた上で抽出・集約して得たものです。
新しく「△△の法則」を発見し提唱する場合も、この原則は変わりません。それですから、寒月君は、真のガラス球は得られなくても、それに近い球体を自作して、実験の精度を高めようとしたのでしょう。

小説の中の一場面に、このような学理の根本に関る問答を描いているのは敬服に値すると老生は感じます。漱石は門下生である寺田寅彦博士(寒月君のモデル)との交流から、理的センスを研ぎ澄ませたのでしょう。
次図左は夏目漱石、右は寺田寅彦の写真です。
Photo 2

漱石は大学進学の時に建築学科も考慮したそうですから、文学一辺倒の文系人間ではなかったのでしょう。また、英国留学の折には化学者の池田菊苗氏(うま味調味料・味の素の発明者)とも親交があったそうです。
初期の作品「坊ちゃん」の主人公は物理学校(今の東京理科大学)を卒業した数学教師です。さらに若い東大生を描いた「三四郎」には物理を専攻する野々宮宗八さんが登場します。この名前は有人動力飛行機の開発者であった二宮忠八氏にヒントを得たと思われます。

かれこれ、見て来ると夏目漱石は文学界の巨人に止まらず、理的センスに就いても卓越していたと感じられます。

*たまの玄太からの蛇足
上記した、物理や化学の理論体系の前提には仮定や近似が設けられている、という話は殆んど知られていません。
非理系人は仕方がないとしても、理系のコースを進んだ人でも明確に把握している人は多くはないようです。
老生の記憶では、初等教育から大学に至るまでの教科書で、仮定や近似を明記していませんでした。授業でも説明は有りませんでした。大学では多くの実験が有りましたが、理論計算から予想した値と異なるデータが得られても、「実験は理論どおりには行かないものだ」との一言で片付けられるケースが殆んどでした。
実務に就いて経験を積み、やっと仮定や近似の存在を悟りました。
それですから、理系の大学を出ても、実務に関わらず管理的業務に就いた方は、科学理論には仮定や近似を前提としている事実を把握していない場合を散見します。老生の経験では官公庁に職を得た方に多いようです。

況してや、文系の方は、そのような仮定や近似を設けて理論が成立し、その範囲で工業が経営され社会が運営されているなどは考えたことも無いのでしょう。
こんな実情を考え併せると、「ガラス球問答」を作品に採り入れた夏目漱石の理的センスには改めて感嘆させられます。

                <以上>

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