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2018年11月12日 (月)

No.206 : 昭和一桁生まれが学んだ教科書 (4)

[ 教練教科書]  旧制中学校
  旧制中学校より上級の学校では軍事教練が正課でした。この制度は1925年より実施されました、いわゆる戦時体制が強化されるよりも前に定められていたのです。
  この制度は、第一次世界大戦において欧州諸国は尉官・佐官クラスの戦死者が激増し、指揮官が不足した苦い経験が有り、その対策として高学歴者に短期訓練を施して将校に育て上げた欧州の先例を参考にして創設されたと云われます。
Photo  旧制中学における教練の授業は、始めは週1時間、後に2時間になったと記憶します。
左図は青年学校で使われた教科書の内容表紙です。中学校で使われた本は表紙は違いますが、内容はほぼ同じです。
  先ず、「軍人勅諭」が明記されていました。これは、明治天皇が示された軍人の基本的な心得で、5カ条から成り立っていました。
  次いで、各個教練・部隊訓練・射撃訓練・戦闘訓練などが記載されていました。その幾つかを記憶を頼りに記します。

4Photo_3
 
  上左図は "不動の姿勢" の図解です。説明文には 「不動の姿勢は、教練基本の姿勢なり、故に精神内に充実し、
外厳粛端正ならざるべからず」 と有ります。「気を付け」 の号令が発せられると、瞬時に図示のような姿勢をとるのです。指先が伸びていない、背が丸くなっている、踵が離れている、などと細かく指摘されたものです。
   上右図は手榴弾投擲の図解です。牛乳瓶を短くしたような大きさで、重さは1㎏ ぐらいだったでしょう。これを 35m 程離れた目標物に命中させる訓練です。老生は苦手で 10m ぐらいしか届かず、教官から散々罵倒されました。
   訓練は次第に高度化し、低姿勢で敵陣に迫る匍匐前進、敵陣の直前からは銃剣突撃で一挙に敵を制圧する訓練も行われました。最後の仕上げは三八式歩兵銃による射撃訓練でした。もっとも、弾丸を除いた空砲でした。それでも銃床を介して右肩に加わる衝撃は,十台の少年には凄まじいものでした。
  その他に、野営訓練、遠距離行軍なども有りましたが、
落伍する者は、殆ど居ませんでした。当時の食生活・栄養状態は今日の水準から見れば遥かに低かった筈ですが、良く頑張ったと思います。
 
  教練の授業に関し、飛行機マニア・軍艦オタクであった老生らは、その分野についての教育が欠落しているのに、不満であり不安でも有りました。その当時、「航空朝日」 「海と空」 「機械化」 などの軍事科学雑誌が数種発行され、内外の最新・最高の知識を報じていました。(それらの情報を如何にして入手したかは、大いなる謎です。軍事科学技術については、各国とも極秘扱いの筈ですが、それでも三国を介しての地下ルートが有ったのでしょう)
  そのような記事を読み漁っていた老生らは科学技術の粋を集めた兵器について、教官を超える知識を持っていました。
例えば空冷エンジンと水冷エンジンの特質、翼面荷重による軽戦闘機と重戦闘機の区別、等々。
  それですから、教官から三八式歩兵銃の構造などの説明をされても、退屈なだけでした。
 
<編者の独断と偏見による妄言
  大東亜戦争 (太平洋戦争) の勝敗を決したのは 「原爆と電波兵器」 だと云われています。電波兵器については、緒戦の頃から "無線と実験" などの技術雑誌に記事が載り、新聞なども解説しました。それですから一般市民もコトバとしては知っていました
  一方、原爆については極く一部の専門家が知っていただけだ、と信じられているようです。ところが、SF 作家の先達であった海野十三は既に "ウラン爆弾" を作品で登場させていたのです。 作品名も掲載誌も忘れましたが、氏の先見性に驚嘆したのは覚えています。
              <以下次号>

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