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2019年7月21日 (日)

No.220 :隣の芝生は青い (2)

5.  「共産主義社会への幻想」

   1945年の敗戦に伴い、怒涛のように押し寄せたのは米英流の "民主主義思想"   でした。次いでソ連流の "共産主義思想"  が伝えられました。どちらも戦前の大正期の頃より伝えられてはいましたが、当時は日本の国情に馴染まない危険思想と見られました。特に共産主義に関しては、文献資料を持つのも禁止され、密かに所有していると官憲に摘発されました。況してや秘密党員と判れば拘束されたのです。
        民主主義は占領政策の一環としてとして導入されましたが、既に素地は大正期より徐々に浸透していましたし、日本の国情と対立することは少なく、いわば "ソフト・ランデイング"  的に受け入れました。一方、共産主義の方は日本の国情と馴染み難い面が多く有りました。その故に戦前・戦中の共産主義者は、海外に亡命するか、国内の刑務所に収監されていました。それらの人々が戦後に凱旋将軍のように登場しました。しかしながら、違和感をっ持つ人も少なくないようでした。
   共産主義は、"階級の無い社会",  "搾取する資本家が存在しない社会",  "不況の起こらぬ計画経済",  "教育・医療の無料化", "能力に応じて働き、必要に応じて与えられる社会”、を主張します。真に立派なスローガンです。しかしながら、その実現には、従来の社会システムを一変させねばならず、その過程では手荒い措置も強行されました。世界初の共産主義国家  "ソ連邦"  は  "帝政ロシア"  を抹殺して誕生しました、換言すれば  "暴力革命"  です。ロシアでは 1917年から1922年 まで内戦が続きました。
   また、ヒトには欲望が有り、能力には個人差が有ります。同一労働同一賃金の原則を徹底すれば、能力の有る人は処遇に不満を抱き、能力のない人は成果が上がらなくてもそれなりの処遇が得られると甘い考えを持ちます。結果として士気の低下を招き,生産性は上がらず、作業の質は低下します。それを防ぐには、ある種の強権を要します。
大正年代の末期に有名作家の K.K 氏は 「人類が何千年もかけて成立させた社会が、一片 の政治思想とやらで簡単に変わるものだろうか?」 と評しましたが、正鵠を射たコトバでした。

   ここで老生が指摘したいのは、1900年代前半の情報通信・流通の速さと量は、現代に比して桁違いに貧弱であったという事実です。欧米からの書籍・文献の送付は船便しかありませんから1ヶ月以上要しました。世界的な電話網は無く、電信が中継を重ねて情報を伝えましたが、即時とは云い難く情報量も限られました。国際的なラジオ放送が有りましたが、音声による一方向伝達に限られました。
   それですから、共産主義の聖典ともいうべき 「資本論  (ドイツ語) 」  を手にして読破した人は極めて少なかった筈です。大学の研究者などに限られました。また、この書物は経済学の専門書であって、資本主義社会の矛盾を指摘し、自己崩壊を経て共産主義社会への移行を示唆していますが、その移行の経過や方法の具体的な記述は有りません。換言すれば共産主義革命のガイドブックやマニュアルでは有りません。
   一部の大学教授や社会運動家は、資本論の膨大且つ精緻な論証に幻惑されて、"これこそ人類社会の未来への指針だ” と受け取ったようです。教授は学生に講義し、社会運動家はアジビラを配り、集会で演説しました。両者とも、云わば ”絵に描いた餅” を伝えたわけです。ロシア革命の成功は華々しく伝えられましたが、その実態を見聞し正しく評価したヒトは殆ど居なかったのでは無いでしょうか?  西欧の知識人、例えば、"バーナード・ショウ"、"ロマン・ローラン"、らも理想と現実の落差を看破出来なかったようです。
   遥か後年の1955年に T
大 の O.H 教授らがソ連を訪れ、翌年に訪問記を著しました。その中に 「社会主義を勉強すること40年に及んだが、それが  "ユートピア"  であるか  "科学"  であるか、はっきり判らなかったが、ここへ来て色々見学して、"科学"  であることがしかと判った」  と記しています。招待されての訪問ですから、社交辞令的な表現もあるでしょうが、お粗末な話です。O.H 教授は多年にわたり、共産主義国の実態、特に市民生活を把握せずに、"夢物語"  を学生に講義していたのでしょうか? この時のソ連訪問は公的な招待ですから、その訪問客に弱味を見せるような事は無かった筈です。
皮肉な事に、翌1956年のソ連共産党大会で "スターリン批判"  が公になりました。"スターリン神話"  は
一挙に崩れました。それでも O.H 教授の訪ソ礼賛の著作は、何らの変更もなく版を重ねました。
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上左図はマルクス著の「資本論」、上右図は O.H教授 著の "ソ連訪問記" です。

   労働運動家にしても事情は同じです、彼等はソ連社会の実態を直接に見聞する機会は少なく、例え訪ソしても公式的な視察に於ける説明や宣伝文書の類を妄信して労働者の天国と想い、”祖国ソ同盟” などと称揚し、そのような社会になるべきだと力説し続けました。

   第二次大戦後に米ソ二大国は冷戦状態に突入し、核開発・宇宙開発・大陸間弾道弾などで鎬を削りました。この時期にソ連の宇宙技術や弾道弾開発が米国に先行した事も有りましたが、遂に1991年に至り国家の崩壊という破局を迎えました。粗く割り切れば、資本主義は共産主義に勝利したという事です。
共産主義国家・ソ連邦を賛美した多くの論客は、負け惜し的な言辞を弄しつつ次第に沈黙しましたが、反省
のコトバは遂に無かったようです。

   ソ連の賛美に続いて、中国・北朝鮮を担ぐ人々も輩出しました。彼等の多くは公式招待を受け、お定まりの視察コースを見学して公式説明を聴き、宣伝文書を持ち帰ったのです。ある人気作家は招待旅行後に「北朝鮮には、悪魔のような税金がない、天国だ・・・・」  と書きました。国家組織を運営するには、少なからざる財源を必要とします。所得税が制度として無いとしても、何処かで何らかの形で財源は得ている筈です。例えば、元の原稿料から税金を天引きした額を原稿料として渡せば、作家は見かけでは税金を払った感覚はないかも知れませんが、実質的には徴税されているのです。
この程度のカラクリに思い至らないとは、作家氏の経済・社会常識に首を捻りたくなります。
   ある時期に訪中者の見聞記が多数出版されましたが、判で押したような決まり文句が有りました。曰く、” 北京の空は青かった" , "中国には ハエ がいない" , "街で見る子供の眼は澄んでいた" , "遺失物は必ず持ち主に戻る", 等々。大学教授・評論家・新聞記者・作家・旅行者 などが異口同音に同じコト
バを並べました。恐らく中国側からの再三に及ぶ広報を受けて洗脳されたのでしょう。
ある著名な女流作家が 「中国には ハエ もいるし、こそ泥 もいる」  とエッセイに書いたところ、某大学教授が猛烈な勢いで反論を展開したケースが有りました。この際、感情が激したのか女流作家を誹謗するような非常識ぶりを示しました。それほど、中国に取り込まれていたのでしょう。

      ここで、老生の独断と偏見を云うならば、共産主義国を訪問・視察して共鳴・感動するのは文系識者に多いようです。彼等は科学技術の成果である  " 社会インフラ"  や  "ハイテク工業"  の実力を見極められず、先方の宣伝を鵜呑みにしました。
彼等は、日本の高度な産業技術の実力を知らずして、共産圏の旧式で低効率の図体だけは大きい設備を見学して、「素晴らしい、大したものだ」 とのコメント
を多発していましたが具体的な生産量や品質・性能についての言及は有りませんでした。
  一方、理系識者は冷徹な目で観察し、厳しい評価をしていました。例を示すと、ソ連崩壊を10年も前に予測した K.H 博士はモスクワの地下鉄駅の設備に鉄製品が少ない事を観察し、軍備は強大でも市民生活の物資は不足している、と指摘していました。因みに博士は数学を専攻し、後に法学で学位を得たマルチ研究者です。
また、国際アナリストの H.K 氏 は北朝鮮の理科教室を視察し、雑多な実験器具や設備器具を並べたに過ぎず,配線や配管は好い加減であった、と指摘しています。氏は工学部の出身でしたから、直ちに実態を看破しました。
一般に、理系識者は公式招待による視察であっても、実態をかなり正確に把握しています。これに反して文系識者の中には先方の誇大な宣伝的説明を鵜呑みにする傾向が有ったようです。極端な話では「毛沢東語録」の精神に忠実であれば、素朴な設備を使った手作業でも高度の製品が造れる、と信じたらしい発言をする人まで現れました。太平洋戦争の末期に、「大和魂を以てすれば、竹槍で戦車に対抗できる・・・・・」と唱えられた事が有りましたが、それと同様の空虚な精神論だと感じます。

                 <以下次号>

 

 

 

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