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2020年1月26日 (日)

No.236 : 諸賢の高説・名言・警句 (1)

   永年にわたり、新聞・雑誌などから、「 これは・・・ 」 と感じた文章を書き溜めて来ました。
近時、整理かたがた再読して感慨を新たにした文章が少なく有りません。そこで、その一部を紹介し、併せて私見を開陳します。

「 進歩的文化人に関わる諸説 」

1. どんな団体にも運動にも屑は付き物である。右翼に限らず左翼団体にも屑は居る。聖なるべき宗教団体でさえも例外はない。
権力組織として国家が存在するかぎり 「人民 」 のテロリズムは根絶できない。しかもすべての政治革命はテロリズムを抜きにしては考えられない。「 無血革命 」 は革命の神話であって、現実ではない。革命家の中には聖者型の人物も居る。しかし、すべての政治革命は聖者のみによって実現された例は無い。反逆者と無法者のタイプが大きな役割を果たす。そして、革命の成功後には反逆者と無法者の大部分は容赦なく粛清されるのが通例である。歴史はかくも冷酷非情である。
革命とは、決して教壇の紳士諸侯の好みに合う歴史現象ではない。 ( 林 房雄 )

2. 古来、戦争手段によらない革命は有りえない。人間は誰しも現状が急変することを好まないが、革命は少数意見が優勢な武力を握った場合に成立する。世論、もしくは正論などは革命をする側にとっては屁のようなものである。成功した革命勢力は必ず少数派であった。彼等は多数派工作に憂身ををやつしたりせずに武力を主軸とした。効果的な武力が既に存在するならば、その中枢を掌握した。それが存在せず、或いは手が届かぬ場合には自前で武力を育成し訓練した。錐を揉み込むように、政権奪取のみを目指した。世論に訴えて同調者を求める暇人などは居なかった。歴史の事実に照らせば革命勢力は世論の支持などを期待しなかった。 ( 司馬遼太郎・谷沢永一 )

{ ブログ発行人からの蛇足 }
     老生は、1945年の敗戦を16歳で迎え、戦後の混乱・無政府状態を経験し、その後の復興・再建時代と続く高度成長期を身に染みて経験しました。この時代を知り且つ生存している人は今では非常に少ないと思います。老生は、上記の文を読み、感無量なるものが有ります。
  敗戦後,連合軍 ( 実質は米軍 ) は戦前・戦中の体制の総てを否定しました。その一環として、収監されていた左翼系人士を解放させました。それ故に、共産党員・社会主義者らが大手を振って世に現れ、凱旋将軍のように迎えられました。また、戦時中には職を追われていた左翼系の政治・経済・社会学者が華々しく教壇・言論界に復帰しました。これにより、世相は一挙に左傾化しました。ジャーナリズムは明日にも社会主義革命が起きる、と囃し立てました。
  このような雰囲気の下で、大学教授や知識層は、我先に社会主義礼賛の論説を開陳しました。もし、近い将来に社会体制が変わったらば、それに反対する立場と見られると、苛酷な運命に見舞われるかも知れないと忖度したからです。つまり、左翼体制に賛意を示す事で一種の免罪符を贖ったのです。現にある総合雑誌が、、戦前の史観を全面的には否定しない論説を載せたところ、某左翼系歴史家がその雑誌の編集長に、"このような論説を没にしないと、将来革命が起きた時に、お前の首に縄がかかるぞ"  と脅迫したと伝えられた事例がありました。
  そのような社会情勢でしたから、共産主義・社会主義に理解を示すポーズをとる "進歩的文化人" なる人種が輩出しました。彼等は、党員にはならず、具体的な政治活動もしないくせに、資本主義体制を批判し、来るべき共産主義体制を渇仰する論説を撒き散らしました。学生運動・安保反対闘争・東大安田講堂占拠などを使嗾したのは彼等でした。
  中でも 某教授は、安保反対を叫び、学生運動を使嗾し、東大突入させた張本人ですが、後には核武装を主張する変節ぶりを示しました。彼の他
にも、中国・ソ連・北朝鮮などに招待され、公式コースを参観しただけで、礼賛した記事を書きまくった教授・ジャーナリスト・学識者・作家・評論家は無数に居ます。
      このような社会の空気の中で "1" および ”2" のような言説は稀有な例でした。

「読書・教養に関わる諸説」

1. 一般に本を多く読んでいる人の話は聞いていて面白い。あるテーマについての話でも、語彙が豊富であり、比喩表現が巧みで,聞いていて飽きないし想像力を刺激される。読書はある事象に対して種々の角度から多彩な理解を試みる。発想の乱反射とも云うべきで、これは通例の仕事の範囲では直接的には作用しないが、人間としての魅力や機智を磨く上では効果がある、会話のマナー・文章表現などに差を齎す。( 渡部昇一 )     

2.   古典を読め。難解でも屈せずに何度も挑め。本に書き込みをせよ。読むだけで無く自分で思索せよ。本は選んで買え。読後感を書け。人を限界広い思想の山頂に登らしめ、精神を飛翔せしめ、人に思索と省察を促して、人類の運命に影響を与えて来た古典は直ぐには役立たない本であろう。しかし、古典によって人間精神は養われ人類の文化は進められて来た。( 小泉信三 )

3.    教養を身に付ける付けるとは、歴史・哲学・文学・心理学・芸術・生物・数学・物理学などの様々な分野の基礎的な知識の体系を学ぶことで、世界を知り自然を知り人を知ることです。それで世の中の理が見えてくる。教養とは与えられた前提を疑う能力であり、新しい規約を創造できる能力であり、仕事で人生で生き残る最強の武器である。新しいルールを創る側に回りビジネスを有利に展開できる。とにかく、" 四の五と云わず本を沢山読め "  。 ( 池上 彰 )

{ ブログ発行人の蛇足}

      小泉教授の説くところは、古典を核として "人間力"  を磨くことを狙う読書というべく、正統的な論説です。一方、渡部教授の説は読書人が身に付けた教養・知識は、対人関係においてオーラを発揮し、自然体でも相手に一目おかせる、と云うニュアンスが感じられます。池上氏は、多分野にわたる知識の収集を薦め、その行為がビジネスの新展開を齎し得ると主張しています。
  三者三様の主張を読み、老生は時代の差を感じます。小泉教授の説は、旧制高校がエリートへの一段階であった時代の名残で、いわゆる「教養主義」を感じます。
渡部教授の説は高度成長期の頃ではないか、と思います。日本の先端産業、特に電子産業が世界を制覇しつつあった時期に、欧米諸国は羨望と嫉視から、「エコノミック・アニマル」と揶揄しました。池田首相が外遊した折に某先進国の首脳は " トランジスタのセールスマン "  と酷評しました。また、日本のビジネスマンはパーテイの場で気の利いた会話を交わせず、仕事の話しかできない、と評されました。渡部教授の説は、このような風潮を憂慮した結果でしょう。
池上氏の説は、日本経済が長期の停滞に陥った時期です。氏の著作の中には、近年に画期的な新製品・新事業が生まれないのは、関係者 ( 開発技術者? ) が専門分野に偏して教養 ( 文系の? ) に欠けるからだ、というという意味の極論が見られます。
  時代の流れと共に識者の見解も世人の理解も変化します。本来は個人的な修養である筈の読書・教養が対人交渉・ビジネスの利害にも関わるというのは否定できない事実ですが、老生は一抹の違和感は拭えません。

              <以下次号>

 

 

 

 

 

 

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