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2020年2月 2日 (日)

No.237 : 諸賢の高説・名言・警句 (2)

「 国語教育に関わる高説 」

1. 言語は思考の道具、思索するのは言語であり、発信するのも言語。知的活動とは語彙の習得に他ならない。読書は過去・現在・未来にわたり深い知識・教養を得る唯一の手段、ネットは細切れの情報を与えるに過ぎぬ。
読書は教養の土台、教養は大局観の土台。文学・芸術・歴史・思想の教養無くしては、健全な大局観は持てない。大局観は長期的視野や国家戦略には必須である。
  日本人は数学は出来ても、論理展開に弱い。米国人はその逆である。数学の論理と現実社会の論理は異なる。数学の論理は 「 真と偽 」 のみであるが、現実社会は 「 灰色 」 。 数学には共通の論理があるが、現実社会には無い。現実社会は普遍性のない前提から始まり、灰色の道を辿る。思考の正当性よりも説得力のある表現が重要視される。読書により豊富な語彙を身に付け、適切な表現を学ぶ、すなわち、国語力を鍛えることが肝要である。
   実体験は、時空を超えた世界を知り得ないが、読書では可能となる。また、高度の情緒も読書により得られる。情緒は年少期の読書で得られる、時機を失すると効果は上がらない。 ( 藤原正彦 )

2.   合理的に説明できる事柄については説教しなくても判るが、必ずしも合理的に説明しきれないが重要な「 かたち 」 がある。例えば、" 嘘を云わぬ " 、" 礼儀を守る" 、 " 家族・郷土・国家を愛する " 、"名誉と恥を弁える " 、など。 論理 (法規) だけで律しようとすれば、抜け道の無いように法網を整備し、罰則を強化する。米国は「かたち」で律せず、論理だけで律しようとするから弁護士大国になった。日本は合理精神の導入に伴い、武士道や儒教の「かたち」を捨てたのは大損失である。 ( 藤原正彦 )

{ ブログ発行人の蛇足 }
   藤原教授は数学者です、バリバリの理系人です。その教授が国語・読書・教養を強調しているのは、注目に値します。しかも、教授は凡百の論客が殆ど言及しない 「 かたち 」 の重要性について述なべています。私見ですが、「 しつけ 」 と云っても良いのではないかと愚考します。
「 かたち 」 あるいは「 しつけ 」  は、あまり明文化されておらず、例え文字に記されていても、その根拠は明示されていません。戦後の教育界は、「  理解した上での納得と、それに基く実践 」 を標榜する流儀が主流であり、「 しつけ 」 的な手法は教育家からは批判・排除されがちだったようです。
そのような、世の風潮の中で、逆コースと取られかねない主張を敢えてする教授に敬服します。

         教授は、数学の論理と、社会や政治における論理とは違うとも主張しています。「 何のために数学を学ぶか? 」と云う疑問に対して、「 論理的な思考様式を鍛えるため・・・・」という回答は広く流布していますが、教授は否定はしないものの、「 ピント外れ 」と示唆しています。
   教授は別の記事で、「 米国では日本の中学レベルの数学力も持たない大学生が、数学の教授に対して、堂々と論争を挑む 」とも述べています。また「 僅かでも言い分があれば、相手の権威や地位に拘らずに自己主張する 」とも記しています。老生は、これに類した話を他の教授からも再三にわたって見聞しています。

   数学の世界は、直接的な証明は困難だが万人が認める公理を出発点として、それに証明できる定理を積み上げた壮大で厳密な体系ですが、社会現象は公理も定理も不確かで曖昧です。それ故に数学を研鑽して論理思考に強くなろうというのは、見当違いの過大な期待だと明解に指摘したと感じます。
        ただし、数学を学ぶことが実社会の役に立たぬとか無意味だと云う意味では有りません。勝負の土俵が異なると云うと云うことです。現代の快適で安全な社会の基盤である科学技術を支えるのは、数学です。これなくしては、新幹線は走らず、ジェット機は飛ばず、テレビもスマホも存在しません。医学・薬学・農水産業などもそうです。
        教授は正しい国語を学ぶ重要性を、折に触れて強調しています。しかし、大学入試問題に屡々見受けるような、 " 小説などの一部を示し、それに傍線を引き、その作者もしくは主人公の意図が奈辺にあるのか、数種の文の中から、適切な文を選べ"  という類の設問には疑問を呈しています。この種の形式の問題は客観的 ( 機械的 ) な採点が出来るとの主張も有るようですが、作品を引用された原作者が「 自分は、そのような意図で書いたのではない 」と否定したり、「 そのように受け取る読者が居るのか? 」と苦言を呈するケースが頻発している異論の多い出題形式です。この指摘に老生は、全面的に賛意を表します。

   教授は他のエッセイでも「 一に国語、二にも国語、三・四はなくて五に算数 」と云っています。「 計算の実技は単純な反復練習により、ある程度のレベルに達するが、文章で示された応用問題は文意を正しく理解しないと解けないと着手できない 」とも指摘しています。
これも至言であると感じます。
 

                <以下次号>

 

 

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