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2021年4月28日 (水)

No. 272 : 往時茫々 昭和・平成・令和を生きて (12)

   18. 学制改革の影響をモロに受けて                                       

                                                   昭和一桁の世代である老生らは、小学校から大学に至るまで数多くの改革 ( または改悪 ?)  に曝されました。このシリーズでも既に触れましたが、小学校→国民学校、中学入試の学科試験廃止、中学生の勤労動員にる事実上の授業停止などがそれです。総体的には、軍国主義的教育・ドイツ流儀の雰囲気、などの時代でした。

    昭和一桁前期生まれの未成年者の進学コースは、以下のような種類が有りました。( 旧制度 )

a) 小学6年
b) 小学6年→商業or工業or農業 学校 5年
c) 小学6年→中学5年→商or工or農or医 高等専門校3年
d) 小学6年→中学5年→高校
3年→大学3年
         
      上記に注記すると、中学レベルで実業系 ( 商・工・農 ) に行くと、卒業して実務に就くのが原則で、それより上級の学校への進学は困難でした。同様に高等レベルの実業系 ( 商・工・農・医 ) から大学への進学は閉ざされていました。換言すれば、大学を出るには、中学→高校の直系コースが正統であって、実業系からは傍系コースであったわけです。実業系の学校は卒業して実務に就くための教育をするのですから当然であると云えますが。
   老生が中学校に進学した1942年頃には、大学進学を意図して中学校 に進学する者は、全国的には   10 %  以下だったと思われます。老生は東京の住宅地で育ちました、一般に地方より都会の方が進学率は高いのですが、それでも小学校の級友で中学校に進んだ生徒数は 1/3 ぐらいでした。大半の者は、実業学校 ( 商・工・農 )   に進みました。

   1945年の敗戦により、日本の政治・社会は占領軍の支配下に置かれ、種々の改革が強行されましたが、その一つに学制改革が有りました。占領軍からすれば、それまでの超国家主義的な教育制度を 一新 して民主主義にふさわしい教育制度に改変する、と意図したのでしょう。そのために、教育制度も米国流に改めるように勧告ないし示唆したのです。占領下でしたから、実質的には命令でした。急遽、米国流の  「 6・3・3・4 制 」  を採り入れたのです。以下のとおりです。( 新制度 )

a) 小学6年→中学3年
b)小学6年→中学3年→商or工or農or水産 高校3年
c) 小学6年→中学3年→高校3年→大学4年or短大2年
d) 小学6年→中学3年→高校3年→大学4年→大学院

   上記に注記すると、義務教育が中学3年までに延長されました。中学では英語が加わり、国語・数学・理科などの学科も高度になりました。大学は旧制に比して1年増えましたが、中学は2年の短縮になり、全合計では1年短くなりました。この件に関して、「 義務教育は高度化したが、大学まで含めれば低下するのではないか、占領軍の愚民政策である 」  との意見・批判もかなり有りました。
一方、大学院の位置付けを明らかにし、修士号・博士号の基準を国際標準に合わせました。
また、実業系高校からの大学進学は幾らか容易になったようです。

         老生は、1947年に旧制中学校5年を卒業し、旧制大学専門部に入学しました。そこで2年次を終えてから新制大学の2年次に移行しました。これは、大学制度の変更に伴う措置で、簡単な面接があった程度だったと記憶します。その後、2年次・3年次・4年次の学業をへて、1952年に学士号を得て卒業しました。
   要するに、旧制中学を卒業してから5年で大学卒の資格を得たのです。
それですから、オール旧制度の時代より1年早く社会に出られたのです。ところが、大学に5年在学したと云う年数だけを見て, 「 留年したのだろう 」  と云われる場合が多くて困惑する事が有ります。学制変更の過渡期における当然の処理なのですが、説明しても殆ど納得して貰えないのです。
   また、就職した時に、オール旧制度で卒業した同期の同僚からは、" 1年年下でありながら同じ給料を貰うとは怪しからん "    などと絡まれた経験も有ります。

   上記の学制改革で直面した問題は、教員 (有資格者) の絶対的不足でした。それ以前の教員養成システムでは、師範学校卒が小学校教員資格を、高等師範学校卒が中学校 (旧制) 教員資格を与えられていました。そうして、その有資格者数と必要な教員数は、ほぼバランスしていました。
   ところが、新制度になって中学生の数が、旧制度に比し3倍にもなったのです。これに対応して教員数を増やすことは、短期的には不可能です。窮余の策としては、ベテランの小学校教員の格上げ、教職資格を持たない高学歴者 ( 高専・大学 卒 ) に働きかけて教員に採用する
、などをして辻褄合わせをしたようです。もっとも、資格に関しては研修などで補完したようです。当時は敗戦後の混乱期ですから、高学歴層でも定職に就けない方々がいましたから、皮肉な見方をすると  " インテリ階層の失業救済 "   にもなりました。
    旧制中学校は新制高等学校に、云わば  " 格上げ"   となり、大部分の教員が移行しましたが、一部の先生は新制中学校の教員に " 格下げ "   になった方が居ました。
なお一般に、旧制の公立中学校は新制の公立高等学校に移行しましたが、旧制の私立中学校の多くは、新制の 中・高 一貫校に衣変えして名門進学校となりました。
私立一貫校では、教員の移動は少なかったようでした。

    旧制高等学校および専門学校は概ね新制大学に昇格しました。これには幾つかのパターンがありました。
(1) 旧制高等学校が旧制大学に吸収され、新制大学に改革された例、
(2) 旧制高等学校と旧制高等専門学校と合併して新制大学に昇格した例、
(3) 複数の高等専門学校が合併して新制大学に昇格した例、
(4) 旧制の高等学校または高等専門学校が単独で新制大学に昇格した例、
などが有りました。
    

    新制度でも大学に昇格するには、教員の質と数、設備機材・蔵書などについての審査が有りますが、過渡期においては大目に見た例も少なくなかったようです。今日でも、地方国公立大の中には 「 駅弁大学 」  などと揶揄されるお粗末な大学も残存しているようです。   
    この場合も教員 ( 有資格者 ) 不足は生じました。大学の教員は、教育者であるとともに研究者でもあるのが原則です、旧制大学の教員は、もちろん条件にパスしています。ところが、旧制高等学校および旧制高等専門学校から新制大学に昇格した場合には、移行したの教員の中には、教育者であっても研究者としてのキャリアが不足の方が多かったのです。この要件不備は短期の研修などで糊塗できるものでは有りません。
    
    しかしながら、このような方に退職を迫ることはできず、そのまま勤務しましたが、陰では 「 2階級特進 」  などと云われた事もあったようです。また、理工系の場合は官公私の研究組織からスカウトした例も有りました。一般には殆ど知られていなかったようですが、当時でも理工系の分野では博士号を持つ研究者は大学外にも少なからず存在したからです。

    とにかく、旧制度では大学の数は官公私の合計は50校に満たなかったと思います。それが新制度で、一気に10倍にも増えたのです。これでは、どんなに無理算段しても充分な教育環境は整えられません。
老生らの新制大学卒業生は、卒業後に勤務した職場で先輩の旧制大学卒業生から 「 月足らずの学士だから学力が低い 」  と散々に批判されたものです。
    大学は4年で1年の延長ですが、中学は2年の短縮ですから、合計では1年の短縮です。その上、大学の課程
そのものが、前期2年を教養課程・後期2年を専門課程としましたから、旧制度では3年間を全て専門課としたのに比して専門的な能力が問題視されたのは当然だったのです。
    制度設計の検討の際に、こんな事は誰でも判っていた筈ですが、占領軍の意向を忖度しての方針だったのでしょう。老生の記憶では、疑義を表明した識者も何人かは居たようですが、大勢を覆すには至りませんでした。

    一方、大学院の制度と運用は、発足当時はかなり問題もあったようですが、次第に整備されました。特に理工系はそうです。現在では、先端技術に関わる企業は新卒採用に際し、学士は 設計・生産・サービスに、修士は 研究・開発・設計に、博士は 企画・研究・開発に、というコースを想定していると云われます。業務レベルに対応して高学歴者を採用する傾向が定着したのです。

    老生ら、
昭和一桁生まれは戦前・戦中・戦後の体制・世相の変化を身に染みて経験しています。苦難は大きかったですが、戦後復興・高度成長・技術革新の全てに関わったと云う自負を持ちます。その過程において、「 ニッパチ (28) 部長 」 ・ 「 サブロク (36) 課長 」と云うコトバが生まれました。前者は昭和28年 (1953年 ) の大卒者、後者は昭和36年 (1961年) の大卒者を意味します。高度成長の時期に中核幹部として重責を担いました。彼らの生年は昭和一桁から二桁初期です。

    昭和一桁生まれは、小学入学から大学卒に至るまで学制の改変に翻弄されました。世の中が 「 シュトルム ウント ドランク ( 疾風・
怒涛 ) の時代 」 でしたから、その一端として甘受せざるを得なかった、と云うことでしょうか。そうして、卒業後は産業界に多大の貢献をしましたが、それに見合うほどの待遇は得られなかったように感じています。

          < 以下次号 >

 






 

 

 

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

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