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2021年5月13日 (木)

No.273 : 往時茫々 昭和・平成・令和を生きて (13)  

19.  給与と " QOL "  ( 生活の質 ) の変遷を追う

   コロナ篭りで無為の日々を送って居ますが、暇つぶしがてら旧いメモ書き等を見ていたら、数十年も前の 「 給与明細書 」 「 源泉徴収票 」   が有りました。全部が揃って訳ではわけでは無く転居などで散逸した分も多いのですが、それでも往時の生活を思い出すタネになりました。その一端を本ブログに記載します。

   昭和4年 (1929年 ) 生まれの老生が社会人になり、給与生活を始めたのは昭和27年 (1952年 )でした。当時は敗戦後7年を経ていましたが、生活レベルは戦前を遥かに下回っていました。空襲の惨禍の跡が各処に残り、生活の基本である 「 衣食住 」 は  " 質・量 "  ともに不十分でした。

        その頃は、日本の企業は戦後の不況に喘いでいましたから、大卒の新人採用は最小限に止めていました。例えば、T社、H社、M社 のような大電機メーカーでも十数人しか採用しませんでした。それですから、旧帝大・東工大・早慶でも1ー2人しか入社できませんでした。
   老生はそのような難関を避けて、世間には無名の Y社 に就職しました。従業員数300人ほどの町工場でしたが、入社して驚いたのは旧陸海軍の技術士官出身者が十数人も在籍していたことです。彼等は戦時中に一流大学を卒業した工学士・理学士でした。戦後の不況期には優秀な人材でも非上場の零細企業に職を求めざるを得なかったのです。
   この会社は、戦後の混乱期に於いて、ラジオ受信機の生産では、多くの老舗を抜いて3番目の生産量を誇っていました。さらに1953年のテレビ放送開始の波に乗り、テレビ受像機の生産で飛躍しました。

   老生が入社した1952年4月の給与は、10000円弱でした。月給ではなく、日給月給という奇妙なシステムでした。皆勤すれば1ヶ月分の給与と称する金額を貰えるのですが、1日休むと 28/30 しか貰えず、2日休むと 26/30 に減るという、不思議且つ苛酷な仕組でした。因みに当時のY社には労働組合など無く、労働基準監督署などという官公庁は存在しなかったか、在っても身近では有りませんでした。
   そのような時期でも、所得税・国民年金・健康保険・失業保険などはガッチリ引かれました。それですから、手取り額は 8000円ぐらい でした。それで、どのように生活したか? 
   まず、住居費に 4000円 を要しました。その内容は、
バス・トイレは無しの3畳間です。食事は全て外食でした。当時 お米は国家が 「 配給制度 」 を介して統制していました。各個人の年齢・性別・職業などに応じた1日の消費量が定められ、登録業者を通じて購入するように定められていたのです。単身者などが外食を希望すれば、お米ではなく 「 外食券 」 を配布され、これを  " 外食券食堂 "   に持参して米飯を得たのです。そこでは、副食物は選択できました。老生は、1日 140円 を目標にしていましたから、月の食費は 4200円程 でした。
   以上の合計では、手取り給与を超えてしまいます。どのようにして穴埋めをしたかと云うと、残業手当です。当時、ラジオ受信機は、戦災で多く失われたので造れば売れるという市況でしたから、業者は増産に次ぐ増産というわけで、従業員には残業の機会は幾らも有りました。

   新入社員が真っ先に必要とするのは、サラリーマンの制服とも云う  " 紳士服 " ,  それに   " 靴 " , " 鞄 "  です。その価格は、それぞれ、10000円、3000円、2000円 ぐらいが最低ラインでした。初任給手取りが 8000円程 の身には大変な出費です。老生は親に出して貰いました。同期の同僚も殆どは親・兄弟に頼ったようです。余談ですが、老生の義弟が10年後に銀行に就職した時にはオーダーメイドの紳士服を支給されたそうです。巷間、金融機関は福利厚生が整っていると噂されていますが、大きな格差が当時から在ったのです。

   老生の勤務した Y社 は、ラジオ受信機の生産が中心でした。その当時の小売価格は、標準的な5球スーパーヘテロダイン受信機が 10000円 を超えていました。この値は大卒新入社員の手取り金額を上回っていたのです。これを現在と比較すると、ラジオ受信機は数千円以下で遥かに高性能・多機能の製品が買えます、しかも、大卒新入社員の手取り月収は 20万円 ぐらいですから、小遣いの一部で買えるわけです。

            
    5級スーパー・ラジオ     17吋白黒テレビ

   1953年にはテレビ放送が開局し、受信機が市場に登場しましたが、その価格は 170000円 もしました。大卒初任給の17倍もしたのです。テレビ生産部門の役員クラスの方でも 「 実用試験 」  と云う名目で、貸与されていたのです。部課長級の方々は賞与で頭金を払い、残金を給与から分割払いしていました。新入社員ともなれば全く 「 高値の花 」 でした。
それで、ベテラン技術者の中には 
" テレビ受信機の自作 "   に挑戦した猛者もいました。その作業はラジオ受信機に比して、技術的にも経済的にも格段にハードルが高いのですが、それでも、成功した者は仲間から、” スーパー・エンジニア "  として畏敬の念を以て見られました。
        現在では、テレビ受信機の価格は数万円、大卒初任給は20万円を超えていますから、もはや「 高値の花 」 では有りません。さらに云うならば、往時はモノクロで6チャンネル,走査線は525本でした。現製品はカラーで多チャンネル、しかも高精細度です。それですから、コスト・パフォーマンスは遥かに良くなっています。

   一般に企業では勤続年数を重ねると、昇給して行きます。日本企業の大部分は 「 年功序列賃金制 」   を採っています。永く勤務するほど職務に精通し会社の業績に貢献するから給与も上がる、というシステムです。さら学歴に応じて賃金の上昇カーブが異なります、高学歴になるほど上昇率が高いのです。
   また、給与は物価、特に生活費に応じても変化します。戦時中には比較的緩やかな物価上昇、戦後の急激な物価上昇を経て、1950年代には より緩やかな上昇状態になりましたが、それでも変化が零になりません。年功序列とは別に物価上昇に応じた給料アップも必要です。労働組合は、この点を突いて賃上げを要求しました。組合は  " マーケット・バスケット方式 "   と称して、年功による昇給とは別に、生活費増による  " ベース・アップ "  を求めたのです。
結局、毎年の賃上げ闘争は、両要素を混合した要求になりました。

    発掘した旧い伝票を見ながら、往時を振り返って見ます。基本は源泉徴収票ですが、年間の総収入 ( 残業手当・皆勤手当・家族手当・住居手当などを含む ) および 所得税と社会保険 ( 厚生年金・失業保険・健康保険など ) が記載されてはいますが、毎月の手取り額は明記されていません。その値を推定するために、総収入から所得税と社会保険費を引き去って手取り年収を求めて、15で割りました。この15と云う値は、年間の賞与額が3か月分と仮定したからです。賞与は企業の利益に関与しますから変動するので、一律に3か月とするのは乱暴ですが、粗い近似値を得るために敢えて使いました。
その結果、下表のような値になりました。" 当たらずと雖も遠からず "   と思って
います。
なお、大卒初任給を参考とし併記しました。( 出典は 「 歴史街道 誌 」 です )

      年度     手取月収    大卒初任給  

     1955年     14886円    10657円
     1960年     40657円    13080円
     1965年     56172円    22980円
     1970年   111556円    36700円
     1975年     251338円     86300円
     1980年   373346円    114500円
     1985年   482195円    140000円
     1990年   533958円    169900円  
     1995年       ・・・・・      192400円

   上記の中で、大卒初任給はその年の生活費にほぼリンクしていた、と見られます。経済変動の少ない時代であれば、一定値の筈ですが、漸増しているのは生活費が増えているからです。例えば1955年から1965年にかけては2倍ほど、1965年から1975年にかけては4倍弱ほど、1975年から1985年にかけては2倍弱ほど、1985年から1995年にかけては1.4倍ほど, 増えています。見かけの額は増えていますが、生活費としての「遣いで」は同じような感じの筈です。
   一方、手取り推定額は年功序列制が加味されている筈です。社会に出て数年も経てば結婚して家庭を形成し、子育て・教育・家造り 等々で支出は増える一方です。それを支えてくれるのは年功序列制です。このシステムは数十年前でも批判は有ったのですが、日本経済が高度成長・技術革新に成功して  " GNP 世界第2位 "   を達成したので、一時は影を潜めました。しかしながら、近年のデジタル革命の進展により、再度問題視されています。
   老生は幸いと云うべきか、年功序列制の恩恵を受けました。とは云っても漫然と 「 ぬるま湯に浸かっているような 」   立場に安住していたわけでは有りません。それなりに自己研鑽・スキルアップに努めかした。1980年代に入った頃、パソコン、ワープロが急激に普及し始めました。老生の勤めていた企業でも、某月某日より社内文書は全て OA 機器に依るべし、との社長命令が出ました。この指示に多くの部課長はパニックに襲われました。 管理職の大半は OA 機器に不慣れで、女子社員に頼んでいたのですが全ての文書となると膨大で、女子社員のオーバーワークを避けるため、管理職が自分で怪しげな手付きでキーボードを叩かざるを得なくなったからです。
老生は、そのような事態を見越して、自宅に機材を揃えて独学に努めていました。当時のパソコンは、8ビット機で、メモリーも今日から見れば桁違いに貧弱でしたが、車内文書の作成ぐらいには使えました。定年近い老生が自らキーを打って文書を創るのは,社内でも一寸した話題になったものです。

  こ
こで、年功賃金と QOL (Quality of LIFE )  の関連に触れて見ます。
  1955年
頃から、 " 白モノ家電 "  がブームになりました。トップを切ったのはSY社の噴流式洗濯機でした。他社の攪拌式に比して洗浄効果が高く、しかも相応の低価格で好評でした。多くの電機メーカーが追随し、老生の勤務先である Y 社も事業化しました。価格は発売当初は40000円台でした。
それを、近所の自営業者夫妻に紹介販売したところ、家事労働が大幅に減ったと、大変喜ばれました。然しながら、老生宅が買ったのはそれより数年も後でした。
  洗濯機に次いで現われたのは、電気冷蔵庫でした。当初の価格は60000円を超えていました。価格も高価でいたが、大型で当時の住宅事情では置き場所に困るという苦情が多かったそうです。やがて、やや小型化して価格も40000円台の製品が発売されたので、老生宅では無理算段して買い込みました。早速入れたのはビールでした。真夏の暑い日、帰宅後に冷えたビールを口にした時には、
正に王侯・貴族の気分でした。他にバター・チーズ・生卵・鮮魚・ケーキなどを貯蔵しました。牛肉の塊をデンと入れる欧米流の食生活には及びませんでしたが、それでも、豊かな気分に浸ったものでした。
  その次は電気掃除機でしたが、その普及は緩やかでした。当時の日本の住宅は畳・障子を中心とした構造でしたから、フローリング・絨毯・ドアで構成した洋風住宅とは大幅に違いました。その故か、使い勝手が悪い、と感じる人が多かったのです。時を経て住宅の洋風化が進み、それに応じて普及はしましたが。

  ヒットしたのは、電気炊飯器 ( 電気釜 )  でした。類似品は戦前から在りましたが、それは単に電熱を利用しただけで、炊飯中の微妙な火加減を自動調節する機能は有りませんでした。戦後の製品は、その機能を備えた上に米の銘柄・種類が異なっても対応できたのです。前夜に米と水を入れ、タイマーセットすれば翌朝には、ふっくらとした米飯が炊き上がっているのですから、世の女性から喜ばれました。( 未婚の女性にとっては、” ご飯炊きが上手くできる "  、が嫁入りの資格の一つになっていた時期があったのです。)
  この製品は T社 が先頭を切りました。実は同社の下請けの或る町工場一家の献身的な協力が有ったと伝えられています。また、数年後には CPU (マイクロ・コンピューター)  が導入されて、より精緻な制御ができるようになりました。
   余談を一つ。有名国立大学の K学長 が「 国家の税金を投入して養成した工学士・理学士に " ナベ・カマ "   などを造らせるとは怪しからん、税金の無駄遣いである。」と発言したことが有りました。この方は工学博士であり電気工学の権威者でしたから、" 半導体・宇宙通信・コンピューター・人工知能などの最先端の研究を担当させるべきである "    と考えたのでしょう。 これに対して産業界からは猛烈な反論が寄せられました。賛否の意見は様
々ですが、大学側は基礎の学理を追求し、事業側は応用して利益を狙う、従って立場の相違に基つ"く、としか言いようが無いとも思われます。
   余談その二つ。
バブル経済崩壊以後に、日本の電気・電子産業が欧米・中国に比して、やや精彩を欠くとの批判が相次ぎます。ある著名なニュース解説者はその理由として " 日本の理系人は教養 ( 文系 ) に欠ける傾向が有り視野が狭い "  と云うような主張をしました。このような迷論惑説に比すれば上記の K学長の批判は正鵠を射ていた、とも云えるおではないかと愚考します。 

        < 以下次号 >

 

 

 

 

 

 





 

 

 

 

 

            

 

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