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2021年9月 7日 (火)

No.-280 : 往時茫々 昭和・平成・令和 を生きて (18 )

2-2  「 航研機 」  の長距離飛行世界記録

           1938年5月、東京帝国大学 航空研究所が開発した試作長距離機 「 航研機 」 が長距離飛行の世界記録を樹立しました。木更津→銚子→太田→平塚の周回コースを29週し、周回航続距離 11,651,011 km,  平均速度 186.197 km/hr  がその データー です。
   飛行機の国際記録については、「 国際飛行連盟 」  が管理していました。速度・航続距離など幾つかの項目と、その承認を得るための詳細な規定が有ります。当時、それらの記録は全て欧米先進国に握られていましたから日本は航空後進国と見られていました。そのような時期に突破口を開いたのが 「 航研機 」  の壮挙でした。

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   「 航研機 」  の開発は、1932年に最初の会議が開催されました。1933年に基礎設計に着手、1934年には 「 東京瓦斯電気工業 」  の手で設計・計算、製図および実物模型製作が行われました。1937年3月に実機が完成、5月25日には試験飛行が実施されました。
   数回の試験飛行と改修を経て、1938年5月13日4時55分木更津を離陸した飛行で世界記録を達成しました。飛行時間は、62時間22分49秒でした。この長時間、乗員は殆ど 「 飲まず・食わず・眠らず 」  の状態だったと伝えられています。また、燃料満載のために無線機を搭載せず、空気抵抗を減らすために風防を極小型にしたので操縦席からの視野は制約されたそうです。要するに長距離飛行記録のために、あらゆる過酷な環境条件を乗員に課したのです。

         「 航研機 」  は軍用機ではありませんが、その技術データは、陸海軍の軍用機開発に少なからぬ影響を齎したのではないか? と老生は忖度します。日本の軍用機、特に海軍機は航続距離に秀でた機種が多かったように思います。

3 ) 航空先進国に至る道

     前記の3例の快挙は、1930年代後半に相次ぎました。これは欧米の航空先進国にキャッチ・アップしようとした 「 軍・産・学 」  の施策と研鑽・努力の成果と見られます。日本は第一次世界大戦に参戦しましたが、いわば友軍の立場であって、この大戦に初登場した航空戦を殆ど経験しませんでした。
    それは、苛烈な戦いでした。陸上戦・海上戦とは全く異質でした。航空機の性能の優劣がモロに勝敗を決しました。航空機の進歩は早く、まさに日進月歩でした。乗員の訓練には時間と費用を要し、しかも実戦に於いての消耗率は大でした。
    このような実態を観戦武官などを通じて知った陸海軍は、将来の戦いに備えるべく幾多の施策を推進しました。その中に軍用機の国産化が有りました。東京帝国大学の工学部に航空学科を
創り、技術者の養成を図りました。軍は陸・海ともに技術・研究の組織を設けました。製造会社は欧米から技術者を招きレベルアップを策しました。
    日本では軍用機の形式名称に、" 八八式偵察機 " 、" 九一式戦闘機 " 、" 九三式重爆撃機 "、などのような数字を付した時期が有りました。この数字は軍に制式化された年度を示します。即ち、" 皇紀 25XY年 "   の下2桁を採ったのです。( 当時の日本では  " 西暦紀元 "  を使わず  " 皇室紀元 "  を使いました。数値としては、西暦紀元に660年を加算すれば、皇室紀元になります。)
         八八式とは皇紀2588年、すなわち 西暦1928年、昭和3年に制式化された機種です。先に記した " 96式陸上攻撃機 "  は昭和11年、" 97式司令部偵察機 "  は昭和12年 に制式化されたわけです。 粗く云うと95式以前の機種は、外人技師の指導で開発され、96式以後の機種は、日本人技術者のみによって開発されたようです。
   1930年代、日本の航空技術者は、独力で新機種を開発設計できるレベルに達しました。また、世界の航空機の設計方針は複葉・固定脚から単葉・引込み脚に移行しつつ有りました。このような革新期には、従来の知識経験を追随せずに、自ら新しい設計方針を開拓しなければなりません。当時、活躍した主任設計者は、異口同音に「 先例に縛られる事無く、新しい発想を自由に展開できた 」  と述懐しています。彼等の年齢は、当時 20歳代から30歳そこそこでした。

4 )  " 空冷エンジン "  ,  " 水冷エンジン "   論争

    当時の航空機の動力は、殆ど 「 カソリン・エンジン 」  でした。これは、シリンダー内にガソリンと空気の混合気を吹き込み、電気火花で爆発を起こし、ピストンを上下させて動力を発生します。( 自動車のエンジンと原理は同じですが、構造は大きく異なります。)   それですから、高熱を発生するので、冷やす必要があります。その冷却方式に  " 空冷式 "  と  " 水冷式 "   が有ります。
        飛行機は大気中を高速で飛びます。また、一般にエンジンは機体の前部に配置しますから、或る程度の冷却効果を期待できます。しかし、それだけでは不十分なので、シリンダーの外面に冷却ヒレを付けるなどの工夫をしたのが  " 空冷式 "  です。
   " 水冷式 "  はシリンダーの周囲にパイプを配し、水を循環させて冷やす方式です。冷却効果は大きいのですが、構造が複雑となり重くなります。

   軍用機の場合、大馬力で高空性能の良いのが要求されます。さらに、構造が簡単で保守・整備が容易であることも必要です。この要求を満たす両機には、どちらの方式が望ましいか? これは永年に渡る論争のタネでした。老生が小学校上級生であった頃に読み耽った航空雑誌には、その論争が頻繫に掲載されていました。その論旨の大要は、「 " 空冷式 "  は構造が簡単で生産・保守・整備も容易であるが、空気に晒す面積を大きくするので流体力学的には不利となり、高速機には適さない。" 水冷式 "  はそれと反対の特徴を有する 」 との事でした。
        大筋の利害得失はその通りですが、実用器材にどのように適用するかは、各国の設計思想や国情によります。日本・米国は概ね  " 空冷式 "  を多用しました。独国・英国は " 水冷式 "  が殆どでした。世界一の自動車生産国である米国が空冷式を主としたのは、意外にも感じますが、「 苛酷な戦場で使用できる 」 事を主眼とし、空気抵抗の大きい不利は大馬力で克服しよう、との発想の依ると推察できます。独国は精密技術を得意とし、英国は産業革命の伝統を持ちます、それですから、生産性の不利を押し切っても高性能を狙ったのでしょう。日本は未だ工業力・技術力が未熟でしたから、構造の簡単な空冷式を多用せざるを得なかったと思われます。

   日本の軍用機で大戦中に活躍した水冷式エンジンを搭載した機種が2機種有ります。陸軍の3式戦闘機   " 飛燕 "  と海軍の艦上爆撃機  " 彗星 "  です。両機とも、独国から技術導入を図り国産化したエンジンを搭載しました。両機とも、その性能は卓越していましたが、それはエンジンが完全に稼働した場合でした。当時の日本の工業レベルでは、原型と同性能のエンジンを量産するのは難事でした。
その故に、生産が難航して、機体は出来てもエンジン生産が間に合わぬという破局状態でした。
   そこで、軍部は苦肉の策として、既存の空冷エンジンを装着しました。これは、容易な事ではありませんが、技術者は苦心の末、換装に成功しました。その結果、最高速度はやや低下しましたが、稼働率は格段に改善されました。

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上図は3式戦闘機 ( 水冷式 ) 、下図は5式戦闘機 ( 空冷式 )、です。3式の方が空気抵抗が少ないのは一見して明らかです。しかしながら、稼働率は格段に改善出来ました。

    第二次世界大戦の末期、独国は  " フオッケ・ウルフ FW-190 戦闘機 "  を投入して英米の爆撃機に対抗しました。これは、独国には珍しく空冷式エンジンを装備していました。また、高速機であるにも拘らず格闘戦にも強かったと云われます。一方で、米国は  " ノース・アメリカン P-51 戦闘機 "   を登場させました。こちらは米国としては珍しく水冷式エンジンを採用しました。この機は高速機でありながら、長距離航続力を備えていました。 

   Fw190            

      P51          

上図はフオッケ・ウルフ FW-190 戦闘機、下図はノース・アメリカン P-51 戦闘機です。

   両機とも、それぞれの国が必ずしも得意としなかった方式のエンジンを敢えて採用したのは、何故か? 航空マニアの興味を惹く謎です。しかも、どちらも第二次大戦の最高傑作機と称されています。

5 )  武装の様式:多数の機銃か、機銃・機関砲の混載か

  機関銃とは、口径7.7mm および 12.7mm を指し、機関砲とは口径20mm 以上を云うようです。一般に口径が大きくなるほど破壊力は大きくなります、特に20mm 以上になれば、弾丸に爆薬を内包できるので破壊力は格段に強まります。一方、口径が大きくなれば搭載できる弾丸数は減りますし、発射時の反動が大きいので機体の強度を増さねばなりません。このような観点から、どのようにトレードオフを図るか、それぞれの国の戦術思想によります。

   英国は、7.7mm 機銃を多用しました。名機として著名な  " スーパーマリン・スピットフアイア戦闘機 "  は、7.7mm 機銃を8挺を装備して、独国の  " メッサーシュミット戦闘機 "  と互角以上に交戦しました。この銃は初速が速く威力があったと伝えられました。
      米国は、12.7mm 機銃を多用しました。 " グラマン F4F" 、 " 同 F6F " ,  " ノースアメリカン P-51 "   等は12.7mm 機銃を6挺で猛威を振るいました。
   独国は、" フオッケ・ウルフ FW-190 "  に 20mm 機関砲2門と 12.7mm 機銃2挺を装備して、英米の4発爆撃機を悩ませました。
   日本では  "零戦 "  に、20mm 機関砲2門と 7.7mm 機銃2挺を搭載して活躍しました。大戦末期の  " 紫電改 "  は 
20mm 機関砲4門で本土に襲来した米機に対抗しました。

    上記のような差は、それぞれの国の戦術思想と工業技術の基盤によるものでしょう。
上記の例は、戦闘機の固定機銃・機関砲についてですが、空戦では守勢に立つ爆撃機は、旋回機銃・機関砲を備えます。その口径・配備・操作方式の選定にも、各国のノウハウが有るようです。

[ 元 軍用機オタク少年の云いたい放題 ]

        以上の雑文のタネは、老生が 12~16歳 の頃に貪り読んだ航空雑誌で得た知識と、オタク同士の情報交換によっで得た資料です。戦時下には、この種のオタク少年は、クラスに数人は居ました。老生は戦後に、某大学の理工学部で電気通信工学を学びましたが、級友の大半は軍事オタクでした。彼等は戦後に、米占領軍の指令により、あらゆる軍事技術研究が禁止された折に、目こぼし的に免れた分野に進学したのです。
   後年、この分野は 「 電子・情報・通信 」 という大産業に成長し、日本の技術力は世界的にも高く評価されました。敗戦後の日本が世界トップ・クラスの産業国家に成長したのは、旧軍部の技術士官が大学・研究所・メーカー等に移籍して研究開発を推進したからだ、との説が有り、概ね肯定されています。老生はさらに当時の軍事オタク少年が、その後を引きついた、と付け加えたいと思います。

               < 以 上 >

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