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2021年11月29日 (月)

No.287 : 往時茫々 昭和・平成・令和を生きて (25)

「 旧制中学校教員の種々相 」

         ブロガーは1946年に旧制中学校を卒業しました。その学校は東京都立のナンバースクールの一つで、優秀な教員が揃っていると世間では評価されていました。70年以上も前の事です。ブロガーは、多くの優れた先生に接する機会の恵まれて、大きな影響を受けました。

   ここで、旧制中学校について説明しておきます。
   大正後期から昭和初期の教育制度は、小学校 ( 尋常科 ) が6年、中等学校 ( 普通科・商業科・工業科 ) が5年、高等学校・高等専門学校 ( 商業・工業 など ) が3年、  医学専門学校は4年 , 大学が3年、でした。つまり、" 6・5・3・3 制 "  です。( ただし、当時はこのような云い方は有りませんでした。)
   当時、" 中学校 "  と云えば普通科の中等学校を指し、卒業後にはさらに上級の教育機関に進学するコースでした。将来は社会の中堅層→上級層に至る人材を育てるのが前提の教育機関でした。一方、中等学校でも商業科は " 商業学校 "、工業科は " 工業学校 "  と称して、卒業後は社会人として実務に従事する人材に育てるルートでした。つまり、" リベラル系 "  と " 実務系 "  の2コースが有ったのです、当然のことながら教育内容も教員も異なりました。

         中等学校の教員になるには、複数のルートが有ったようです。正統的なのは  " 高等師範学校 卒業 "    です。東京と広島に有りました、今の " 築波大学 "  、 " 広島大学 "  の教育学部の前身でした。他には旧制大学卆や旧制高等専門学校卆でも中等教員資格は得られました。しかし、中等教員の世界では傍系とされ、主流にはなり難かったようです。
   ブロガーの入学した旧制中学では、校長が東大卒・教頭が東北大卆・事務主任が検定上り、という異色の学歴だったそうです。( 検定上り、とは小学校教員資格者が昇格試験に合格して中等学校教員資格を得た者の事で、世間では立志伝中の人材と認められていました。)
ブロガーが入学した中学は首脳陣が大卒の故か他の一般の中学に比し、教員には大卆の比率が高いと云われていました。
   
   入学当初は、先生方の学歴などは気が付きませんが、学年が進み、また上級生からの噂話などで、各先生方の学歴を知るようになります。そうなると、先生方の授業ぶりや言動について、それなりに論評するようになりなす。何とも小生意気な悪ガキどもでした。

   高等師範学校卆の先生は  " 授業の達人 "   でした。大学卆の先生は  " 博学多識の教養人 "   でした。その例を以下に記します。
   ブロガーは日本史を高等師範卆の先生に、西洋史をK大卒の先生に習いました。各科目の年間授業時間は一応定まっていますが、多くの場合、臨時の行事などが割り込むので、それよりも少なくなります。そのような場合、高等師範卆の先生は巧みに取捨選択を行い、学年末までに  " 神代から現代まで "  を完結させました。
   一方、大卒の先生は重点項目を詳述し、それほどでもない事項は、「 読めば判るから読んでおきなさい 」  という姿勢でした。この先生は 「 フランス革命は如何なる原因で発生したか? 産業革命は後世に如何なる影響を与えたか? を考究するのが歴史を学ぶ目的である。片々とした事象を  " 何時何処で誰が何を如何にした " などを暗記するのが目的ではない 」   と強調しました。このコトバは卒寿を超えたブロガーが今でも鮮明に記憶しています。

   数学の授業で高等師範卆の先生は、一次方程式の説明に  " 天秤秤 "   をモデルとして、左の皿には未知の重さを集め、右の皿に既知の重錘を集めて平衡を得る、というイメージを示して説明しました。
一方、大卒の先生は " 平行線 "   の公理から  " ユークリッド幾何学 "   に及び、さらに  " 非ユークリッド幾何学 "  から  " アインシュタインの相対性理論 "   に至る、学問の世界の深遠に触れるような話をしました。
   高等師範卆の先生は一次方程式の解法を生徒に理解させようと工夫する " 優秀な教育職人 "  でした。それに対して、大卒の先生は学問の片鱗を垣間見させる意識の高い  " アカデミック世界のガイド "  でした。

   ブロガーは、高等師範卆の先生と大卆の先生の優劣を云々しようとは思いませんが、もう一つ感じた差を記します。それは、戦時体制における態度の差です。戦局の苛烈化に伴い、旧制中学から陸海軍の学校に進学する風潮が強くなりました。陸軍士官学校と海軍兵学校がそれです。どちらも旧制中学4年次で受験できました。卒業後は、陸軍少尉または海軍少尉に任官し、数年の現地部隊に勤務を経て成績が良ければ陸軍大学校または海軍大学校に進み得る、エリート・コースの機関でした。
   ブロガーの級友でも、中学終了の形で、そのコースに進む者も少なからず居ました。また、軍部も盛んにスカウトしました。そのような世相・雰囲気の中で、その流れに積極的な賛意を示さなかった教員の方は概ね大卒の先生方でした。一方、高等師範卆の先生方は協力的な態度を示す方が少なくなかったようです。つまり、大卒の先生方は、直接の戦闘員にならずとも、兵器の開発や暗号の解読などの高度の知識を要する分野で活躍すべきである、との見識を持たれていたのです。大局観を以ておられた、と云えます。

   敗戦後、米占領軍が日本各地に駐留したので、通訳者が大量に必要になり、中学校の英語教員が動員された事が有りました。この時に殆どの先生は失格でした。当時の英語の先生は、英文和訳・英作文・英文法には長けていても、Hearing や Speaking は苦手だったのです。これは当然とも云えます。海外留学の経験は皆無、会話の教材 ( テープやレコード ) も零に近かった時代ですから。
   老生の学んだ中学の先生で、一人だけ合格した方が居ました。この先生は某私大卆でしたが、学生時代に映画館で洋画を見て会話を勉強したそうです。戦前の洋画での会話は原語 (殆ど英語) と字幕でしたから、映画館の立て籠って会話を習い覚える事が出来たそうです。しかし、大学英文科の学生の頃は、英文学の書物 ( 多くは英文学の古典名作 )  を読解するのが主たる勉強で、洋画を見て会話を習うと云う行為は異端視されていたそうです。しかし、その努力が戦後に報われたのです。

         老生の在学した旧制中学の先生方は正に多士済々でした。戦後になって左翼系の評論家として名を成した英語の先生がいました、この方は発音にクセが有って悪ガキどもは陰で悪口を並べていましたが、有名な総合雑誌に堂々たる論説を載せて売れっ子になりました。
生物の先生で博士号をお持ちの先生が居ました。この方は戦時研究に動員されて肺炎の特効薬 "ペニシリン "  の開発に関わりました。この先生は、戦後には旧帝大の教授になられました。
   皇室に近い旧華族の先生が居られました。ダンデイな方で、戦争の最中でも頭髪は長髪、服装は三つ揃えの紳士服、ワイシャツにネクタイという姿で人目を惹きました。当時の男性の容姿・服装は、頭髪は丸坊主刈、服は軍服に似た国民服、ノーネクタイ というのが常態でした。それですから露骨に非難する人もいたようですが、ご当人は平気で飄々としていました。

   一方では、時局・世相に便乗するお粗末な教員も居ました。先ず武道  ( 剣道・柔道 )  の教員でした。戦時体制以前の中学では 「 英語・数学・国語・漢文 」   が主要科目として重要視されていました。教員の間でも、それに対応した不文律の序列が存在したようで、「 体育・武道・音楽・絵画・音楽・書道 」  の教員などは二線級と見られていました。
   ところが戦時体制下になると体育・武道の位置付けが上り, その先生方が大きな顔をするようになりました。そのような風潮に便乗したのか、書道の先生が 「 日本精神は文字に現れる 」   などと言い出しました。「 力の籠った雄渾な文字を書く者は日本精神が充実している 」   とも広言しました。
   悪ガキどもでも、その発言の浅薄さは判ります。生徒は、このような教員を陰では軽侮し、むしろ上記のダンデイな教員に人気が有りました。

         1940年代の後期に、いわゆる  " 6-3-3-4 制 "  が導入されました。 " 小学6年ー中学3年 "  が義務教育とされ、その上に " 高校3年 " , " 大学4年 "  が続くシステムです。これは、米国の教育制度に倣ったもので、実施に当り賛否両論が沸騰しました。賛成論は、義務教育が3年も延長されるのは国民の学識を高める、との論拠でした。反対論は、米国の愚民政策の一環である、資質の乏しい者までも巻き込んで教育年限を延長すれば平均レベルは下がる、というものでした。また、敗戦後の疲弊した経済環境に新たな負担を強いるのも、日本再建にブレーキをかける陰謀である、との説さえ現われました。

   この制度の実施に伴い、全国的な教員の不足が生じました。これは当然です。義務教育の年数が 50% 増えるのですから、全生徒数も 50% 増加します。教員数もそれに比例して必要になります、しかも中学になれば教員は専門別です。また、校舎・設備・備品についても同様な問題が生じました。
   新制中学の教員資格が大問題でした。旧制中等学校の教員資格者は新制中学校の教員に移行できましたが、旧制小学校の教員資格者を直ぐに新制中学校の教員には出来ません。ブロガーは、その詳細は知りませんが、何んとか便法を講じて新制中学教員資格者に格上げをしたようです。

   この時に私立の旧制中学校の多くは、6年制の新制中高一貫校に変身しました。今日、進学校として難関大学への進学数を誇る A, K, N などの名門校は、この時期に生まれました。
         その反対に公立の旧制中学の名門・進学校の位置付けが低下しました。例えば、東京都立一中・同四中は第一高等学校 ( 現・東京大学教養課程 )  に抜群の合格者を誇っていましたが、新学制により、新制・日比谷高校、同・戸山高校になりました。私立の中高一貫校は6年間の大学受験対策を詰め込めるのに対して、新制公立高校は3年間の受験勉強期間しか有りませんから、難関大への合格者数が私立一貫校に比して劣るのは当然かもしれません。

   新制高校の教員には、旧制中学教員の有資格者が移行しましたが、多少の問題も在ったようです。ブロガーの卒業した旧制の中学校は新制高校に衣替えしましたが、教員は全員が移行したと聞いています。その中学は高学歴の優秀な教員が揃っていたからでしょう。
   蛇足を云うと、新制高校の教員に移行した人の中には、事務員や生徒に 「 O O 教授 」   と呼ばせたがる方が居て、周囲から失笑されたと云う噂もありました。( 旧制の高等学校では正規の教員は  " 教授 "  でしたが、新制高校の教員は " 教諭 "  です。 )

   旧制の高等学校・高等専門学校は殆どが新制大学に昇格? しました。このケースでも大多数の教員は移行したようです。新制大学は専門課程の前段階として教養課程を必要としましたので、教員の絶対数が不足しました。そこで、旧制中学の教員で著名大学の卒業者をスカウトして員数合わせをした時期が有りました。
   この人事を見て、口の悪い評論家は 「 二階級特進の大学教授 」 と揶揄しました。つまり、中等学校の教員から一足飛びに大学の教員になったからです。
   ブロガーの出身中学の教員からも、大学教員に特進した方は数名以上いたようです。旧帝大卆や早慶卆の方々でした。それらの先生の中には、博士号を得たり、学部長の要職に就いた方も居られたそうです、優秀な先生だったからでしょう。

< ブロガーの放言 >

         昭和初期においては、中学校教員という職業は知識階層の一翼に位置していました。当時、旧制中学 ( 普通科 )  への進学者は、義務教育の小学校 (尋常科) の卆業者の 10% に達しなかった筈です。( 全国的に見ての話です。都会地は高く、地方は低いとされていました。)  当然、中学校の数は少なく、その先生方は一般市井人からは、高等教育を受けたエリートと目されていました。
         その時代の中学校教員の社会的位置付けは、現在の大学教員に匹敵する程でした。1940年代後期の新学制により、中学のみならず高校・大学・大学院に至る大増設・大増員が行われました。これは国民の知識レベルを押し上げ、高度成長・技術革新に寄与しました。
   しかしながら急激な変革のために、教員に玉石混淆が生じたのも否定できないようです。とは云うものの、近年にはノーベル賞受賞者を輩出している実績から見ても、新学制への移行は成果を挙げたみるべきでしょう。
  
             
         
             < 以 上 >

 

 

 

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