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日記・コラム・つぶやき

2019年3月27日 (水)

No.213 :日本産業の衰退に想う (1)

「日本産業、衰退の現実」

今年の始めころ、"平成30年間の社会情勢の変化を回顧する" というテレビ番組が有りました。それを見ながら往時を追想して、今更ながら、その変化に驚きました。
愕然としたのは、日本産業の凋落・衰退です。例えば、"昭和の高度成長期には、世界のビッグ企業50社を挙げると、日本企業が30社を占めたのに、平成30年ではトヨタ1社のみ、しかも順位は25位だった" という事でした。解説者は米国の グーグル、アマゾン、フエイスブック、アップル、マイクロソフトのいわゆるGAFA & M や中国のフアーウエイ の急成長 を指摘していましたが、特に説明・分析は有りませんでした。                                                この番組で報じられた内容は、嘗ての高度成長・技術革新を支えた開発技術者の末席にいた老生にとって衝撃的でした。
(
4 月27日の読売新聞に同様の記事が詳細なデータと共に載っています。)
             Photo_19                                                            上図は日本産業の凋落・衰退を分析・解説した書物の一例です。この種の書物は何冊も刊行されています、と云う事は事態が如何に深刻であるかを如実にあらわしています。                       

「知らぬ間にOOOの株券は書き換えられていた」

 軍事評論家として令名高かった故伊藤正徳氏の名著 "帝国海軍の最後" に、この一文が有ります。文中のOOOには "潜水艦" の文字が入ります。伊藤氏は、戦前の日本潜水艦隊は質・量とも世界のトップ・クラスであると自他共に認められていたにも関わらず、開戦後の実戦において期待されたほどの戦果を挙げず、逆に軽視していた米潜水艦隊が猛威を振るい日本を壊滅状態に陥れた、と云う実状を、このように表現したのです。
           
Photo_18 
日本
の潜水艦は、強力な武装・長大な航続力を持ち、乗組員の高い練度と相俟って、海外の軍事評論家も高く評価していました。ところが実戦に際し、英米が開発した新兵器 "レーダー" , "ソナー" により、大型で機関音の大きい日本潜水艦は発見され易くなり、敵艦に接近して魚雷発射をする前に探知発見され、強力な対潜攻撃を受けて撃沈されるケースが増えたのです。その上、戦術的には敵の戦艦・空母などの大型艦のみを狙ったので、接敵・攻撃の機会が限られました。
一方、米潜水艦は平凡な設計でしたが、優れた "レーダー" , "ソナー" を備えた艦を多数生産しました。しかも戦略的には攻撃目標を大型軍艦に限定せず、"潜水艦キラー" である駆逐艦 (小型艦) や、低速で防御力も反撃力も弱い輸送艦なども狙いました。
これらの理由が相俟ってか、日本潜水艦隊は当初に期待したほどの戦果を得られず、逆に米国潜水艦隊は猛威を振るい、日本を物資不足に追い込み壊滅状態に陥れました。それで伊藤氏は "知らぬ間に潜水艦の株券は書き換えられていた" と云う名句で表現したのでしょう。

日本はバブル崩壊の前は、「ものつくり大国」「先端技術王国」と称され、世界のトップ・レベルを誇っていました。しかしながら、バブル崩壊により在来の産業・経済が停滞した頃から急激に立ち上がった「情報通信革命の波」に乗り遅れて、停滞・衰退が始まり "失われた20年" あるいは "失われた30年" と云われ、今にも回復に至りません。
伊藤氏の名言に擬えるならば、"潜水艦" は "技術開発力・産業力" に当り、"レーダー" , "ソナー" は "情報通信技術" に相当します。また、戦略的には "新ビジネス" の創出でしょう。

「情報通信ビジネスの遅れ」

 日本は 通信の分野では幾つかの先端的な開発を行いました。例えば日露戦争に際して、海軍は "三六式無線機" を開発して活用し、日本海海戦に勝利しました。また、昭和初期には "テレビジョン" の実験に成功しています。大阪万博でNTTが公開・実演した携帯無線電話機は今日の携帯電話システムの先駆でした。携帯電話とインターネットを結びつけた "i-モード" は日本女性の発案と云われています。現在、スマートフオンの世界標準とも云える "iPhon" にも日本製の部品・素子は多用されていますし、日本発のアイデイアが幾らも採り入れられています。
情報の分野では、永らく米国の IBM社が汎用大型コンピュータで世界に君臨していました。欧州各国も全く歯が立たない程でしたが、日本では日立・日電・富士通が辛うじて対抗していました。とは云っても、大きな格差は否定できませんでした。必死に追いかけている最中に米国では、マイクロ・プロセッサが開発され次いでパソコンが現れ、暫くしてインターネットが生まれました。
パソコンとインターネットは恐るべき可能性を秘めていました。在来の汎用大型コンピュータ・システムを
「大艦巨砲主義に基ずく戦艦中心の艦隊」に例えれば、こちらは「空母を基幹とする機動艦隊」に相当すると云えるでしょう。
この変化に巨人IBM は遅れた様です。アマチュアの若者が手造りしたオモチャに過ぎない、と見たようです。日本のメーカーは、IBM を追うのに夢中でしたから、さらに遅れました。
実は、マイクロ・プロセッサの開発には、日本人が参加していました。電卓市場の競争が激化した時期に、あるメーカーがマイクロ・プロセッサに相当する素子を着想して米インテル社に依頼したのです。このプロジェクトに日本人技師が参画して、"4004" や "8008" を開発しました。その後、量産はインテル社に任せられました。他の日本メーカーで生産をトライした企業も有りましたが、事業としては成功しませんでした。日本は半導体メモリの開発・量産を指向し質・量ともに世界最高を誇りましたが、その後の中韓の追い上げに敗れました。
別の観点からすると、日本はコンピュターの周辺機器、即ち プリンター・スキャナー・ハードデイスクなどのなどの生産では、トップ・クラスでした。欧米の業者にOEMで大量に供給しました。とは云うものの機器単体が主でしたから、途上国の追い上げを振り切るのは困難でした。
日本の業界実態を考察すると、機器単体や部品・素子では卓越し、個々の道具立てには業績を挙げたものの、通信と情報を融合して新事業を創出するには至りませんでした。
米国で成功を収めたベンチュアー企業は、ソフトウエアから出発してビジネス・モデルを着想し、それに要するハードウエアは外注で調達すると云う流れであると感じます。
敢えてアナロジカルに云うと、日本では新ビジネスを創出するのに「加算・減算」的な発想に止まるのに対し米国では「乗算・除算」的な発想をする、あるいは日本は「平面的」、米国は「立体的」とも見られるという事でしょう。
                <以下次号>

                             

                                                                                                                                                                                                                                                

 

 

 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                       

          

  

 

 

                                    

 

  

 

 

 

 

 

              

 

 

2018年12月21日 (金)

No.212 :: 昭和一桁生まれの経験した配給生活 (4)

[ 煙草の配給について }
     煙草の配給制度が実施されたのは、1944年からとされています。戦争も末期的状況の頃でしたから、かなり遅かったように感じますが、ある博物館の資料では、そう記されています。ただし、それ以前から品不足は始まっていましたし、種類の整理は行われていました。
  1940年には、"ゴールデン・バット" が 「金鵄」 と名を変えました。英語の表記を嫌い、日本神話に由来する名称に変えたのでしょう。
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他にも、"チエリー" が 「さくら」 に、"カメリヤ" が 「椿」 に改名されました。 
  配給の量は成人が1日に6本でした。これではヘビー・スモーカーならずとも、甚だしく不足であったようです。ただし、成年男子は登録すれば配給されましたから、非喫煙者の配給分を回して貰って何とか凌いでいたそうです。
 
     戦況が厳しくなるにつれて、配給の量は次第に減らされて来ました。また、それと前後して巻煙草の形ではなく、その原料の形で配給されるようになりました。
Photo_12   左図はその例です。
"刻み煙草"と巻煙草を造るための "巻紙" を1組として配り、喫煙者は自ら 「巻煙草」 を造って喫煙せよ、と云うわけです。図の上は "刻み煙草" の包装、下左図は "巻紙", 下右図は巻煙草を造るための道具です。
   この作業は、不器用な人々には難行だったようです。終末期になると "巻紙" も不足してきたので、「コンサイス英和辞典」 などを解体して使う人もいました。また、"刻み煙草" に "トウモロコシの毛" や "イタドリ の葉" などを混ぜて増量を試みる人も現われました。
  喫煙しない人から見れば、何とも気の毒な、しかも馬鹿馬鹿しい行為ですが、軽症であってもニコチン中毒に陥っている人にとっては必死の想いであったようです。
前回にも触れた老生の伯父は、かなりのヘビー・スモーカーでしたので、辛かったようです。幸いにも老生の父は煙草を吸はない人でしたから、提供していました。
  煙草には多くの銘柄が有りました。戦時色の濃い品としては 「誉」 「鳳翼」 などが有り、その他にも軍用の専用品や、天皇陛下から下賜される特別の "恩賜の煙草" という品も有りました。特攻隊員が "恩賜の煙草" を吸って出撃するという歌も現われました。
Photo_6  Photo_8                      
 
  老生は、当時10代半ばでしたから、父親世代が四苦八苦しているのを横目で見ているだけでしたが、早熟の生意気盛りの生徒の中には、周囲の目を避けて親の配給品を盗んで喫煙した体験を得々と吹聴する者もいました。

{ 老生の妄言 }
  配給と云う制度は、食糧・嗜好品の絶対量が不足したために施行されたのですから、もともと無理な話です。しかも運営が行き詰まり、遅配・欠配が起こり始めると、非合法の闇ルートが横行しました。
  当時、「今の世は、星・碇・官 顔と闇、馬鹿者だけが行列に立つ」 という狂歌が密かに囁かれていました。陸軍・海軍は配給の制約が及ばず、官庁関係も何かの特別ルートが有ったようです。顔とは政・官・財界などに影響を及ぼす影の実力者を意味し、闇とは桁違いの札ビラを切って希少な物品を買い漁る行為です。
  一般市民が、生き残るために採った手段は、食糧の "買出し" でした。都市近郊の農業地区に出かけて食糧を調達するのです。農村も生産物は政府に供出するノルマは有りましたが、それでも幾らかの手持ちを残していましたから、それを狙うのです。もちろん、価格は闇値です。時には通貨ではなく、衣類・装飾品などで物々交換する事も有りました。この事は、皮肉にも都市と農村の経済格差を狭める事にもなったようです。
    戦時下の配給生活に関して、当時の中学生だった頃の体験と記憶を基に、この小文を纏めました。制度そのものは、公的組織により遂行されたものですから、当時の諸通達などの公文書が何処かに残されていると思われます。しかしながら、見つけ出せず、止む無く僅かな資料と老生の独断と偏見で草した次第です。
               <以上>

2018年12月17日 (月)

No.211 : 昭和一桁生まれが経験した配給生活 (3)

[ 酒類の配給について]
      酒類の配給統制は1941年から行われました。1世帯当たり1ヶ月に日本酒4合(720ml )、ビール2~4本、でした。別に冠婚葬祭の際には1升(1800ml) 、入営・出征の折には2升(3600ml) の特別配給が有りました。
   この量は酒飲み人種にとっては、甚だしく不足でした。しかし、世の中には酒を飲まぬ人や、毎晩は飲まぬ人も居りますし、また女世帯も有ります。それですから、近所の人と融通しあって、何とか間に合わせていたようです。
下図は、その折に使われた配給通帳です。
 
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  また、初期には飲食店には業務用の配給枠が有ったので、家庭用の配給では足りない人は、そちらで飲んでいました。とは云っても、店の方でも一人あたり幾らと制限を設けたました。その上、割高につきましたから愛飲家には辛かったようです。
 
  1944年には 「国民酒場」 という店が開業しました。これは準公営とも云えるシステムで、酒1本と肴1皿を提供しました。家庭用の配給とは別枠で価格も安いので人気が高く、開店前から長蛇の列が出来、警察が整理に当たるほどでした。
 
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  国民酒場については、下記のような思いで話があります。 老生の伯父は某名門校の教師でしたが、週1回の講義の帰途に老生宅に立ち寄り、老生の父と共に国民酒場の行列に並びました。この時、伯父は服装を簡素なモノに着換えて行きました。当時、中学生だった老生は不思議な感じがして母に理由を聞いたものでした。
すると母は、「相当の社会的立場にある者が、労務者風の人に交じって、ああいう処に並ぶのは、場違いと見られて難癖をつけられるかも知れない。それを避けようとした」 という意味の話をしました。
   当時の伯父の勤務校で教師は海軍士官に似た制服・制帽を着ていたのです, (軍人ではないから剣は吊っていません)。もし、この服装のままで行列に並ぶと他の多くの人
々から違和感を持たれたでしょう。
なお、この酒場では1杯飲んだ後で、再び行列の最後尾に並び、運が良ければ2杯目に ありつけたそうです。伯父と父は戻ってきた時に、「今日は2杯飲めた」 など云って上機嫌でした。
   このような話は、当時は至る処で在ったようです。「衣食足りて礼節を知る」 と云うコトバは周知ですが、戦時体制の配給下では、相当な地位の人士でも面子や体裁に拘っては居られない窮境を齎したと云えそうです。
 
{ 蛇足 }   戦中・戦後のアルコール飲料の不足は、別の社会危機を生じました。密造酒の氾濫です。元来、酒類の生産・販売は大蔵省 (今の財務省) により厳しく管理されていたのですが、それを無視した不法な密造酒が各処で造られました。安全も衛生も考慮しないノーラベルの製品が、怪しいルートを通じて、出回ったのです。
   中でも悲惨だったのは、工業用アルコールが混入されていた殺人酒でした。これを飲むと失明・落命の悲運に見舞われたのです。恐らく密造酒を造った人は薬用アルコールと工業用アルコールの区別を知らなかったのでしょう。
   このような話は、いわゆる戦中・戦後史には記載されていないように思われます。老生は未成年でしたが、身近に実感した事実なので、敢えて記しました。
              <以下次号>

2018年12月13日 (木)

No.210 : 昭和一桁生まれが経験した配給生活 (2)

[ 衣料切符制に関して ]
     戦時体制は、あらゆる日用品の不足を生じました。衣料品もその一つです。1942年から切符制が導入されました。この制度は、個々の衣料品に点数を定めると共に、個人が年間に使える点数を定めて、各人が1年間に購入できる衣料品の総量を制限するシステムでした。
   例えば、男子背広服は50点、婦人ワンピース15点、ワイシャツ12点、もんぺ10点、手袋5点、足袋2点、靴下1点、などでした。一方、与えられる切符は都市の成人は100点、農村の成人は80点でした。
Photo  左図は衣料切符の表紙の一例です。
  この制度は、戦前の衣料品需要の40% を目標に設定したそうですが、ずいぶん無理というか現実を無視した机上論だと思います。
  その理由は、衣料品は多種・多様であることです。素材にしても、綿・麻・絹・毛・化繊などが有り、その織り方や染色も多様です。加工では男性用・婦人用など、さらに上衣・下着などの区別が有ります。
しかも、個々のサイズ・体形・好みなども有ります。それですから、各種の衣料品の生産数と個々人が欲する衣料品の数量を一致させる事は極めて困難、と云うより不可能です。(コンピュータによるビッグ・データ処理ななどの技法は全く無かった時代です。いや、今でも難しいと思われます。)
  老生の経験では、1942年に旧制中学に入学した時には全員に制服が配布(有料)されました。この時は業者の手持ち材料が有ったらしく、切符を渡して全員が入手できました。ところが、冬が迫り外套が必要になった時には、生徒側には点数が有っても業者側には材料が回らず、抽選になりました。換言すれば、消費者が点数を持っていても、業者側には要求に応える資材が回らなかったのです。
   蛇足を加えます。軍隊では「服に体を合わせろ」と云うコトバが有りました。兵士の着る服は、大・中・小ぐらいのサイズしかなく、そのどれかを選んで着こなせ、と云うわけです。兵士として招集されるのは壮年男子であり、身体検査をパスした者たちだけでしたから、軍服を見込み生産して入隊した若者に配布できたのです。
   対象が老若男女の一般人の場合には、こうは行きません。このシステムはスタート時点で無理だったのです。それに戦局の急激な悪化により、空手形状態に陥りました。
 
      戦時体制において、一般人の服装が大きく様変わりしました。成年男子は軍服に似た「国民服」を、成年女子には活動しやい「もんぺ」の着用が推奨されました。
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  上左図は男子の「国民服」、上右図は婦人の「もんぺ」です。国民服は甲・乙の2種が有りました。
甲は襟が開いていて、ワイシャツ・ネクタイの着用が可能で、公的な行事・式典に出席する立場の人士が用いました。乙はいわゆる兵隊服と殆ど同じ型です。老生らが配給された旧制中学の制服は、これの類型でした。
  「もんぺ」は農山村婦人の日常着に近いデザインで、活動しやすいのを狙ったようです。頭に被ったのは「防空頭巾」と云われ、空襲に際し爆弾の破片などから頭部を護るためでした。なお、図では身元を示す左胸に名札を付けています。
   この「国民服」は1940年に法制化されましたが不評でした。特に甲は公的な会合などに参加するような人は既に数着以上の背広服を所有している筈で、わざわざ新調するのは無駄だと云われました。官公吏・校長・町村長・小企業主・街の顔役などの一部が調達したに留まったようです。
   一方、「もんぺ」の方はかなり広まりました。既に所有している和服を仕立て直して手作り出来たからです。当時の婦人雑誌には、それに関わる記事が多く載っていました。
      以上が衣類切符制度の概要です。米・砂糖・酒・煙草などの配給は、量の不足は有っても何とか機能し、戦況の悪化と共にジリ貧状態に陥り有名無実化したのに対し、衣料切符は初期から空手形状態でした。後年に社会主義国の計画経済が破綻したのと一脈通じるように思われます。
            <以下次号>

2018年12月 7日 (金)

No.209 :昭和一桁生まれが経験した配給生活 (1)

  老生は1929年生まれ、いわゆる昭和一桁です。老生が小学2年生の時に日中戦争が起こりました、,1937年の事です。6年生の時には大東亜戦争が勃発しました、1941年の事です。その頃、小学校は国民学校と名称が変わり戦時体制は強化されていました。
  1945年には、敗戦・降伏に至り一応は平和な時代に戻りました、この時に老生は旧制中学の4年生でした。つまり、老生は7~16歳に至る10年間は戦時体制にドップリ浸かった生活を送ったのです。
     この年齢層は成年には未だ遠いのですが、大人社会の一端をかなり知るのみならず、ある程度の批判的な見方も出来るようになるものです。 
   この小文は、当時の市民生活に深く関わった生活財の配給・切符制度について、老生の経験を中心に記します。
 
[ 米穀の配給について ]
     戦時体制が進むと、食料事情は次第に窮屈になりました。健康な若者は兵士として徴集されますから、農林・水産の場での労働力は不足して生産量は低下します。その上、交通・輸送は軍用を優先するために食糧の地域的な偏在が生じます。
Photo  政府は「食糧管理法」を定め、統制に着手しました。その手始めが "お米の配給"でした。年齢および職業 (労務の内容) に応じて1日の配給量が定められたのです。
  一般人(軽作業) の場合、1~5歳は120g、6歳~10歳は200g、11~60歳は330g、61歳~は300g、が1日の量でした。
  この実施に伴い、市民は戸惑いました。それは、量の表示です。当時は穀物の量は容積で扱い、尺貫法の表示でした。ところが、今回の配給制度では重量で扱い、メートル法の表示となりました。
    それまで、家庭でも米屋でも、石・斗・升・合という容積の単位で扱っていました。例えば、成人 (軽作業) は1日に3合を目安とし、軍隊などのハードワ-クな職場では1日に6合とされていました。さらに炭鉱労務者などの超重労働に携わる人は1升飯を平らげる、と云われていました。
  配給制度では、成人が330g と云われても、どれほどの
量であるのか、判らなかったのです。間もなく、2.3合に相当するとの解説が出ました。これは、米1俵 (4斗) の重さが約16貫とされていたので、それから換算すると、大略、妥当な値でした。
    当時、多くの家庭では容積を計る 「桝」 は持っていましたが、重さを計る 「秤」 は備えていませんでしたから、この換算値によって日々の炊事を処理しました。
       それよりも、問題は量の少なさでした。成人(軽作業) が1日に3合と云うのは、教科書・解説書・雑誌などを通じて常識化されていましたが、配給の330g (2.3合) というのは、その77% に過ぎません。
これでは、カロリー不足で体力を維持できない、と云う声は上がりましたが、政府は雑穀や大豆・芋などを混ぜて補え、と指示しました。当時の婦人雑誌には、その種の記事が多数記載されたものです。
  前頁に示したのは、配給に使われた 「米穀通帳」 の一例です。家族の氏名・性別・年齢などが記載され、一家の配給量が指定されていました。この通帳を持って指定の日に、米屋さんに行き、代金を払って配給を受け取りました。
   この制度が」始まってから、お米屋さんの態度が一変しました。俄に小役人的な言動を示すようになったのです。当時の社会は、幕藩体制における「士農工商」 の序列が払拭し切れていませんでした。役人・軍人・教員などが社会の上位に在り、小売商人などは下位と見る風習が残っていました。
  それが、配給制度の施行により小売商人である米屋が、政府組織の末端の末端の業務を受け持つようになって、準役人になったような気分になったのだと思われます。
( この話を大袈裟だと感じる方が居ると思われますが、老生は和服を商う呉服屋、すなわち小売商の息子でしたから、身に染みて感じています。)
   配給米には質の問題もありました。白米ではなく、七分搗き米でした。ビタミンBを失わないという理由でしたが、それよりも搗き減りを少なくして総量を確保するのが本音でした。また、国産米だけでは不足で、外米を輸入して混入していました。
      以上が米穀配給制度の概要ですが、問題を抱えつつ何とか運営出来たのは、制定後2~3年に過ぎませんでした。南方からの輸送航路が途絶え、空襲が始まると有名無実の制度と化してしまったのです。また、終戦後の数年間は一種の無政府状態に陥っていましたから事態は容易に好転しませんでした。1950年前後になって漸く戦前に近い状況に戻り、この制度も廃止されました。
なお、「米穀通帳」は移住などに関し、身分証明書のように流用された時期が有りました。
               <以下次号>

2018年11月17日 (土)

No.208 : 昭和一桁生まれが学んだ教科書 (6)

[ 研究職についてから ]  電子企業・研究所
  大学を卒業する頃、研究指導の教授から 「諸君の学んだ学識は5年ぐらいしか保たない。それ以後は自分で研鑽を積むのだ」 との訓戒を受けました。1952年に就職した老生は数年も経たぬうちに、この話を実感させられました。
   その一はテレビ技術です。それまでの無線電話やラジオ放送に比して各段に間口の広い技術でした。映像信号のバンド幅は音声信号の1000倍以上も広い上に、扱う信号形式はアナログ映像信号とパルス(デイジタル)同期信号との複合信号です。
これらの技術は大学では殆ど教えられませんでした。米国の技術誌 "electronocs" や "RCA Review” などを読み漁り、追加実験を繰り返しました。
  その二は、マイクロ波技術でした。第二次大戦で米英の電波兵器は日独を凌ぎ、勝因の一つとされています。その中核技術としてマイクロ波技術が在りました。  
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戦後、その技術を集大成した文献資料として、マサチューセッツ工科大学放射線研究所叢書が刊行されました。
上図はそれを示します。索引を含めて全28巻という膨大なシリーズでした。 
この叢書は、電子技術のバイブルとして高く評価されましたが、お値段の方も最高でした。1冊あたり15ドルぐらいでしたが、当時の為替レートは1ドル360円、これに送料や取次業者のマージンを加算すると1ドル500円程にもなるので、約7500円にもなりました。それですから全巻を揃えると約21万円にもなりました。
大卒の初任給が1万円に満たぬ時代でした。個人では1冊を買うのも困難です。いや、企業でも大変でした。某一流メーカーでも政府の補助金を得て、やっと揃えたという話が有ったほどです。
このシリーズで需要の多い数冊は、直ぐに海賊版が現れました。価格は500円くらいでしたから、薄給の若手社員でも買えました。それを手にして、終業後に輪読会を開いて勉強したものです。
  その三は半導体の出現でした。これは、真空管技術こそ先端技術と思っていた電子技術者にとって、驚天動地の
革命でした。この時に、量子物理学の知識が必要だと喧伝されてパニックに襲われる一幕も有りました。
老生の職場でも "Electron and Holls in Semi-Conductor"
という定評ある書物 (早くも海賊版が出回りました) の輪講を始めましたが、3回も続かずに挫折しました。
やがて内部の動作原理を熟知せずとも、ブラック・ボックスとして動作機能を把握すれば、電子機器の設計は出来る事が判り、パニックは収まりました。折よく、そのような方針で書かれた "Principle of Transistor Circuit" というテキストが刊行され、こちらがバイブルになりました。
    その四はコンピュータを始めとするデイジタル技術の浸透でした。米国では、コンピュータは戦時中に開発されたのでしたが、日本では半導体に次いで浸透したように記憶します。それまでの電子技術は殆どがアナログ技術でしたから、正に発想の転換を要しました。
  この頃になると、電子技術の進歩は 「日進月歩」 ならぬ 「秒進分歩」 と云われる程でしたから、体系化したテキストを編集出版している時間も惜しく、速報的な解説や小論文がネットを介して流通するという形に移行しました。それらを逸早く入手して読みこなし、機器の開発応用するノルマに追われる日々が続きました。
 
<編者の妄想的な蛇足> 
    この一文を書きながら往時を追想して 「それにしても良くやったな」 との感慨を新たにしました。廃墟の中から立ち直り、高度成長を遂げて世界を瞠目させ、技術大国として世界から評価されるまでに復興・成長したのは、世紀の奇蹟と云っても過言ではないと思います。
   その過程において、恵まれない環境の下で企業の研究開発者が重ねた研鑽努力を、高く評価し後世に伝えるべきと愚考します。
  なお、この文を読まれて、日本の科学・技術は "海外の後追い" ではないか? と云う方もいるかと思われます。一時期、そのような事例があった事は否定できませんが、その後に欧米を凌ぐ実績を幾つも上げています。近年のノーベル賞受賞者の増加は、その顕れでしょう。
   また、今や日本を追い上げる勢いの某国・某々国には日本の技術文献・資料が大量に流れ込み利用されていると伝えられます。
     なお、序に憎まれ口を叩きます。
巷間、世に云う識者の中には、「日本の大卒者は、社会に出ると週刊誌の類しか読まない、それに比して欧米の学卒者は・・・・・」 などと云う方がいます。そういう方は、周囲にいる文系サラリーマンの多くが固い本を読まないのを論難するだけで、理工系の人士が激烈な国際競争に晒され、常に最新・最高の知識を得ようと努めている事実を認識して称賛・激励しようとしないのでしょうか?
              <以上>

2018年11月13日 (火)

No.207 : 昭和一桁生まれが学んだ教科書 (5)

[ 旧制→新制 過渡期の教科書]   新制大学
  1945年8月以降、日本は米軍の占領下におかれ、その政策の一環として大幅な教育制度の改革が強行されました。その理由や経緯は種々公表されていますから、ここでは省略し、目立った変化について記します
  先ず就学年数の差です。
  旧制度では、小学6年-中学5年-高校3年-大学3年
  新制度では、小学6年-中学3年-高校3年-大学4年
というわけで、全年数は旧制度が17年、新制度が16年となります。
  老生は過渡期に遭遇したので、旧制高校(相当) 2年次を終えた後に新制大学2年次に編入、という極めて変則的なコースを経ました。もっとも、そのために就学年数は16年で済み、旧制度より1年早く社会人になりました。それですから、学費が1年分少なくて済み、親孝行になりました。
      老生は1947年に旧制中学を終え、進学しました。敗戦後2年を経た時期ですから、東京を始めとして全国の都市は焼土と化し、全国の諸産業は壊滅状態でした。教育関係も例外ではなく、校舎は破壊され、書物・教材なども極度に不足していました。
   老生の進学した学園は、校舎の1/3 ほどが被災していました。窓ガラスは破れ、暖房は壊れ、照明は暗い、実験設備は破壊という惨状でした。
 
      そのような時代ですから、教科書など有りません。もともと、大学の授業は教授の講義が中心ですが、それでも基礎的な学科の教科書は刊行されていました。老生の専攻の電気通信工学に関しては、「電磁気学」や「交流理論」などの教科書が、戦前には発行されていました。
ところが戦後数年は、出版社も印刷所も製紙工場も製本所も被災していて、新刊どころ旧版の再刊も不可能でした。
   教授は口述と板書で講義を進めました。しかし、理工系の授業には、数式・図表・図解が伴います、これを欠くと正確な知識は伝えられません。時々、いわゆる "ガリ版刷り" のペーパーが配布され、知識の欠落を補われました。

<級友が手分けして、戦前の古書を探す>
   やがて、級友の中から戦前・戦中に発行された教科書を探そう、という話が持ち上がりました。東京には世界でも有名な神田古書店街が在り、幸いに戦災を免れていました。また、東大・早大の周囲にも古書店が散在していました。
Photo  左図は神田神保町の明倫館書店です。理工系の専門店として知られていました。 級友は手分けして、これらの店を探し回り、かなりの書物を見つけ出しました。学生はこれらの書物の要点を書き写し、次々と回覧したのです。
  蛇足を云うと、この時期にはコピー機は存在していません。写真を撮るという手段も有りましたが、接写の出来る機材は少なく、経費も高価でした。要点の筆記でさえも、ノートの不足に悩まされたものです。
   この時に見つけた書物を思い出すと、「電磁気学 (抜山平一)」 「交流現象論 (黒川健三郎)」 「真空管回路 (廣田友義)」 「解説無線工学 (武田行松)」 などでした。
   このような探索を続けていると、戦時中に軍部のバックアップに依り海外の専門書が複製されていたのを見つをけました。
   近代戦は科学技術戦であり、各国とも研究・開発に狂奔しました。日本の軍部も、あらゆる手段を尽くして海外の資料を入手し、コピーを作り関係者に供しました。(作家・野坂昭如は、その事績に触れた作品を書いています。) そのような資料が、敗戦後に古書店に流れ出たのです。 老生が見聞した幾つか列記します。
   "Radio Enginering" : F.E.Termann
       "Raidio Frequency Measurement" : F.E.Termann
       "High Freqency Measurement": Fund
       "Electromagnetic Theory" : Stratton
   "Ballow's Table" : Ballow
   "Function Table" : Yanke-Emude

<海外の専門書は宝の山
   1950年頃になると、一部の技術官僚・大学教授などの海外視察が始まり、彼等は海外の専門書を持ち帰りました。その話を聞き傳えた官学産の関係者は "宝物拝見" とばかり参上し、筆写・撮影をさせて貰いました。
そのうちに、これらの資料の "そっくりさん" を造る地下業者が現れました。いわゆる "海賊版" です。この行為は非合法でしたが、世相は混沌とした乱世でしたから、この程度の "文化的犯罪?” は黙認・放置されていたようです。
老生らも卒業研究の際には大いに活用しました。
            <以下次号>

2018年11月12日 (月)

No.206 : 昭和一桁生まれが学んだ教科書 (4)

[ 教練教科書]  旧制中学校
  旧制中学校より上級の学校では軍事教練が正課でした。この制度は1925年より実施されました、いわゆる戦時体制が強化されるよりも前に定められていたのです。
  この制度は、第一次世界大戦において欧州諸国は尉官・佐官クラスの戦死者が激増し、指揮官が不足した苦い経験が有り、その対策として高学歴者に短期訓練を施して将校に育て上げた欧州の先例を参考にして創設されたと云われます。
Photo  旧制中学における教練の授業は、始めは週1時間、後に2時間になったと記憶します。
左図は青年学校で使われた教科書の内容表紙です。中学校で使われた本は表紙は違いますが、内容はほぼ同じです。
  先ず、「軍人勅諭」が明記されていました。これは、明治天皇が示された軍人の基本的な心得で、5カ条から成り立っていました。
  次いで、各個教練・部隊訓練・射撃訓練・戦闘訓練などが記載されていました。その幾つかを記憶を頼りに記します。

4Photo_3
 
  上左図は "不動の姿勢" の図解です。説明文には 「不動の姿勢は、教練基本の姿勢なり、故に精神内に充実し、
外厳粛端正ならざるべからず」 と有ります。「気を付け」 の号令が発せられると、瞬時に図示のような姿勢をとるのです。指先が伸びていない、背が丸くなっている、踵が離れている、などと細かく指摘されたものです。
   上右図は手榴弾投擲の図解です。牛乳瓶を短くしたような大きさで、重さは1㎏ ぐらいだったでしょう。これを 35m 程離れた目標物に命中させる訓練です。老生は苦手で 10m ぐらいしか届かず、教官から散々罵倒されました。
   訓練は次第に高度化し、低姿勢で敵陣に迫る匍匐前進、敵陣の直前からは銃剣突撃で一挙に敵を制圧する訓練も行われました。最後の仕上げは三八式歩兵銃による射撃訓練でした。もっとも、弾丸を除いた空砲でした。それでも銃床を介して右肩に加わる衝撃は,十台の少年には凄まじいものでした。
  その他に、野営訓練、遠距離行軍なども有りましたが、
落伍する者は、殆ど居ませんでした。当時の食生活・栄養状態は今日の水準から見れば遥かに低かった筈ですが、良く頑張ったと思います。
 
  教練の授業に関し、飛行機マニア・軍艦オタクであった老生らは、その分野についての教育が欠落しているのに、不満であり不安でも有りました。その当時、「航空朝日」 「海と空」 「機械化」 などの軍事科学雑誌が数種発行され、内外の最新・最高の知識を報じていました。(それらの情報を如何にして入手したかは、大いなる謎です。軍事科学技術については、各国とも極秘扱いの筈ですが、それでも三国を介しての地下ルートが有ったのでしょう)
  そのような記事を読み漁っていた老生らは科学技術の粋を集めた兵器について、教官を超える知識を持っていました。
例えば空冷エンジンと水冷エンジンの特質、翼面荷重による軽戦闘機と重戦闘機の区別、等々。
  それですから、教官から三八式歩兵銃の構造などの説明をされても、退屈なだけでした。
 
<編者の独断と偏見による妄言
  大東亜戦争 (太平洋戦争) の勝敗を決したのは 「原爆と電波兵器」 だと云われています。電波兵器については、緒戦の頃から "無線と実験" などの技術雑誌に記事が載り、新聞なども解説しました。それですから一般市民もコトバとしては知っていました
  一方、原爆については極く一部の専門家が知っていただけだ、と信じられているようです。ところが、SF 作家の先達であった海野十三は既に "ウラン爆弾" を作品で登場させていたのです。 作品名も掲載誌も忘れましたが、氏の先見性に驚嘆したのは覚えています。
              <以下次号>

2018年11月 9日 (金)

No.205 : 昭和一桁生まれが学んだ教科書 (3)

[ 物象教科書 ]  旧制中学校
   老生は1942年に旧制中学校に入学しました。入学当初の教科書は国の検定に合格した複数の教科書の中から、教員が選定したものでした。
   ところが、2年次に進んだ頃に国定教科書が定められて一本化が進みました。その中で、生徒を驚かせたのは 「物象」 とい銘打った教科書の出現でした。
Photo_2   この科目は、物理・化学・地学をを総称したもので、それぞれ 「物象1」・「物象2」・「物象3」 と 名付けられました。
    何故、わざわざ馴染みのないコトバを使ったのか不明です。実物を手にして、さらに驚いたのは理系の書物には定石とされる図解や写真が無い事です。いや、数式さえも見つかりませんでした。
  書かれているのは 「何々をして見よ、これで何が判るか?」 という記述のオンパレードでした。
  今でも記憶しているのは 「ゴム紐に種々の重さの錘を吊り下げて伸びを測れ、これで何が判るか?」 という設問です。
  この実験を指示した著者は、"弾性体の変形量は加えた外力に比例する" という法則 (フックの法則) を、感得させようとしたのでしょう。
     しかしながら、ゴム紐は完全な弾性体ではないので、操作を繰り返すと弾性疲労を生じて、完全に比例するというデータは得られません。
   老生らは、実験データを指導の先生に示したのですが先生から 「いい加減な態度でやっているからだ」 と叱責され, 再三やり直しをしましたがゴム紐の疲労が進み、益々完全比例から外れたデータしか得られませんでした。
  遂に悪童どもは共謀して、データ捏造をして窮境を脱したのですが、教科書・教員に対する不信感は残りました。
  そもそも、「OOの法則」として定着するには、一代の碩学が一生を賭けて研究し、多くの研究者が追試・検証を重ねたのです。それを、未経験の生徒が手造りの機材によって手軽に再現・検証できる筈はありません。
  恐らく著者は自らは試行せずに 「こうなる筈だ」 という思い込みで、記述したのでしょう。推測すれば、ドイツでは実験・実証に重きを置いた理科教育をしている、との話を充分に吟味せずに採り入れたのだと思われます。
   在来の物理の教科書では先ず 「フックの法則」 を説明し、次いで応用例を示し、さらに計算問題を解かせる、という順序での記述でした。
   新しい物象の教科書は、実験によって法則を発見させ、それに基いて応用や計算に進む、という順序です。
物理や化学の諸法則は天下り的に存在するものではなく、身の回りの諸現象に疑問を抱いた多くの先覚者の研鑽・努力の集約の結果です。それを追体験させようとする理念は立派なものです。      
     とは云うものの、その理念を実行するには、"あらゆる学説は仮定や近似を前提としている" との原則を熟知している教員により行われるべきです。その原則を充分に把握していない教員は理系出身であっても、定説とされる法則を絶対視し、実験データが乖離すると、実験のやり方を非難する傾向がありました。
  ドイツ流の理科教育を鵜呑みにした「物象」 教科書は著者の意図を満たす効果を挙げる事なく、敗戦を迎え1947年には廃止されました。
 
<編者の独断と偏見に依る妄言>
  何時の時代でも時勢が大きく変わろうとする時に、これを好機と捉えて、勢力の拡大を図ろうとする人々が存在するようです。 ドイツ軍の電撃作戦の成功に魅惑され安易に追随したのは軍人だけでなく、教育関係者にも居たようです。
  実験を通じて学理を実体験させるという 「物象」 教科書 は H 高等師範学校の某有力教授が推進したと囁かれていました。
  独断と偏見で云うならば、嘗ての 「ゆとり教育」 が 「詰め込み」 の量を減らし、その分を 「自ら考え、生きる力を育てる」 学習に充てると称したのですが、そのような抽象的なスローガンが実現される前に、学力低下という現実が問題視されて、数年で撤回に至った事例に似ているいるように思います。

             <以下次号>
 

2018年11月 7日 (水)

No.204 : 昭和一桁生まれが学んだ教科書 (2)

[ 国民学校への衣変え] 小学校→国民学校
  老生が小学6年生になった1941年に突如、校名が "W・・・国民学校" と変わりました。先生から一応の説明はありましたが、まだ10歳そこそこの子供に理解できるわけはありません。
Photo  それでも時代は、支那事変 (1937年に勃発した日中戦争) が泥沼状態に陥っており、世は挙げて軍国体制に向かっていましたから、その流れによるものと、子供心にも感じられました。
     数年後に知ったのは、当時の同盟国 ドイツの "Folks Shule" の模倣という事でした。
ドイツは第一次大戦に敗れた後、疲弊の極に在りましたが、1933年にヒットラーにが政権を執って以来、急速に国力を回復して軍事大国になりました。そうして、1939年には欧州諸国に戦いを挑み連戦連勝の勢いを示しました。
  これを見た日本の陸軍は、ドイツの教育制度に秘密が有るとして、日本も取り入れるべし、として文部省などの関係方面に働きかけたのです。
Photo_2  また、1938年には "ヒトラーユ-ゲント" という青少年団が来日し、活気に満ちた規律正しい集団行動を誇示しました。この制度は10~18歳を対象とし、身体の鍛錬・準軍事訓練・祖国愛・集団行動を躾たのです。
   これも、日本の軍部・教育官僚に大きな影響を与えました。それらが相俟って、ドイツ流の教育を導入すべしとの流れが起こり、遂に国民学校に至った、と見られます。
     国民学校と名が変わる数年前から、ドイツ流の教育が始まっていました。一例は理科教育の内容が、動物・植物・天体などの自然分野から、物理・化学のように工学技術に結びつく分野に重点がシフトがした事です。
  第二次欧州戦の初期に、ドイツ空軍や戦車を中心とする機械化部隊が猛威を振るったのは、国を挙げての科学教育が背景に在ったとの認識によるものでした。さらに実験・実証を重んじる 事も強調されました。
  幾つかの施策の中で、目立ったのは、模型飛行機の製作を介して、航空戦力への関心を持たせ知識を学ばせようとする企てでした。
A1_3 模型飛行機は既にマニアが存在していましたが、ドイツの実状が伝えられる前には、"物好きな人の金食い遊び" と見られていました。それが一転して、小学生の教材に採り上げられる事になりました。左図はその一例で、一本胴のライトプレーンと云う形式です。この機は東大・航空研究所の木村秀政博士が設計した "A-1" というモデルで、風洞実験を経た本格的なモデルでした。
    模型飛行機の教育については、先生方に講習会が開かれ、資料が配布されたようです。クラスの中には既に模型機少年が数名は存在し、彼等の知識・技能は俄仕込みの先生を凌いでいました。かく云う老生も、その一人でした。
      模型機の他に、簡易な電気模型の製作なども奨励されました。この種の理科工作は大正末期に原田三夫氏が創刊した雑誌 「子供の科学」 が推進したテーマでしたが、教科書至上主義という時代の故もあって、あまり普及しませんでした。
   この時期になってその有用性が再認識されましたが、模型機よりも高度な上に高価でしたから、殆ど浸透しませんでした。それでも、老生は電磁石に始まり、電信機、電動機などを自作して先生や級友を驚かせました。
   話が前後しますが、国民学校に変わった時点で、理数系の教科書が一斉に変わったわけでは有りません。老生が6年生の時に国民学校に移行したのですが、教科書は小学校の時ものを用いました。授業の内容については、先生方の工夫があったようですが。
   老生が国民学校を卒業したのは1942年、それ以降、国民学校の方針による教科書が刊行された筈ですが、老生は実見していません。戦時の混乱で授業そのものが壊滅状態でしたから、存在そのものがそ不確かなようです。
            <以下次号>

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